Friday, March 31, 2017

世界のエリートはなぜ「哲学」を学ぶのか?

エリートの見識を養成するための教育施策として最も普遍的に行われているのが哲学教育です。17世紀以来、エリート養成を担ってきた欧州名門校の多くでは、長いこと哲学が必修となっていました。

例えば、英国の政治エリートを数多く輩出してきたオックスフォードでは、これまで長らく、文系・理系を問わずに歴史と哲学が必修科目とされてきました。現在でも、エリート政治家を多く輩出している同校の看板学部は「PPE=哲学・政治・経済学科」です。

日本の大学システムに慣れ親しんだ人からすると、なぜに「哲学と政治と経済」が同じ学部で学ばれるのか、と奇異に思われるかも知れませんが、彼らの考え方はシンプルで、政治と経済を担うエリートこそ哲学を教養の基礎として身につけなければならない、といことです。エリートには大きな権力が与えられますが、哲学を学ぶ機会を与えずにエリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なんですね。

同様の思想はフランスにも見られます。フランスの教育制度の特徴としてしばしば言及されるのが、リセ(高等学校)最終学年における哲学教育と、バカロレア(大学入学資格試験)における哲学試験です。文系、理系を問わず、すべての高校生が哲学を必修として学び、哲学試験はバカロレアの第一日目の最初の科目として実施されます。そのような試験において、文系・理系を問わず、最重要の科目として「哲学する力」が必修の教養として位置付けられているわけです。

これらの大学教育に加えて、たとえば経営幹部の教育研究機関として著名な米国のアスペン研究所では、哲学に関する講座が主要プログラムの一つとなっており、全世界から集まるグローバル企業の幹部が、風光明媚なアスペンの山麓で、プラトン、アリストテレス、マキュアベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスといった哲学・社会学の古典をみっちりと学んでいます。

いま「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか」という題名の本を書いているのですが、執筆のためのリサーチとして、複数の日本企業・海外企業の経営人材育成担当者にインタビューをさせてもらい、最も「思想として違うな」と感じたのは、この「哲学教育」の部分だったんですね。

誤解を恐れずに言えば、海外のエリート養成では、まず「哲学」が土台にあり、その上で功利的なテクニックを身につけさせるという側面が強いのに対して、日本では、土台となる部分の「哲学教育」がすっぽりと抜け落ちていて、ひたすらにMBAで習うような功利的テクニックを学ばせている、という印象を持ちました。

明治時代に活躍した哲学者の中江兆民は「我日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と、日本という国に「哲学」がスッポリ抜け落ちていて、それが様々な問題の根幹にあるという指摘をしていますが、百年以上たっても状況はあまり変わっていないということでしょうか。

確かに、多くの日本人にとって、ビジネスエリートが哲学を学ぶことの意味合いについて、直感的に理解することは難しいかもしれません。

ここではまず、現代を生きるビジネスパーソンにとって、古今東西の哲学者の論考から、どのような学びが得られるのかという論点について整理してみましょう。ここんところがわかっていないと、そもそも「何で哲学を?」というところが腹落ちしません。

現代を生きるビジネスパーソンにとって、「哲学から得られる学び」には、大きく3種類あります。それらは
  1. コンテンツからの学び
  2. プロセスからの学び
  3. モードからの学び
ということになります。
コンテンツというのは、その哲学者が主張した内容そのものを意味します。次にプロセスというのは、そのコンテンツを生み出すに至った気づきと思考の過程ということです。そして最後のモードとは、その哲学者自身の世界や社会への向き合い方や姿勢ということです。

これら三つの学びを整理しないままに哲学書に接しても、おそらく現代を生きる私たちにとってあまり有用な示唆や気づきは得られないと思います。というのも、例えば古代ギリシアの哲学者の論考内容などは、すでに自然科学の検証によって「誤り」であることが判明しているからです。

これはつまり、先ほどの枠組みで言えば、「1:コンテンツからの学び」に関わるところで、要するにコンテンツとしては全然ダメだということです。しかし、ではその哲学者の考察から何も学べないのかというと、それはそうならないわけです。その哲学者がなぜそのように考えたのか、どのような知的態度で持って世界や社会と向き合っていたのか、という点については、いくら実際の論考内容=コンテンツが誤りであったとしても、私たちにとって学びとる点はたくさんあるわけです。

具体的なイメージがわきにくいと思うので実例を挙げて説明しましょう。

ソクラテス登場以前の古代ギリシア、時代としては紀元前6世紀ごろのことですが、アナクシマンドロスという哲学者がいました。彼はある日、ふとしたきっかけで、当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説に疑問を持つようになります。なぜ疑問を持ったのか、その理由は実にシンプルで「もし大地が水によって支えられているのであれば、その水は何かによって支えられている必要がある」というものでした。なるほど、確かにその通りです。

そしてアナクシマンドロスはさらに考えを推し進めます。つまり「もし仮に、水を支えている“何か”があったとしても、その“何か”もまた別の何かに支えられている必要がある。こうやって考えていくと無限に後退していかざるを得ないが、無限にあるものなど有り得ないわけで、そうすると最終的に地球は何物にも支えられていない、つまり宙に浮いているということになる・・・」という、当時の人を仰天させるような仮説を打ち出したわけです。

アナクシマンドロスが最終的にうち出した仮説、つまり「大地は何物にも支えられていない」という結論は、地球が宇宙空間に浮かんでいることを知っている現在の私たちにとって、当たり前のことでしかありません。

しかし一方で、アナクシマンドロスが示した知的態度と思考プロセス、つまり当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説を鵜呑みにして思考停止することなく、「大地が水によって支えられているのだとすれば、その水は何によって支えられているのだろう」という論点を立て、粘り強く思考を掘っていくような知的態度と思考プロセスは、現在の私たちにとって大いに参考になります。

つまり、先ほどの枠組みで整理すれば、アナクシマンドロスの哲学というのは、「1:コンテンツからの学び」という点では全くダメだということですが、「2:プロセスからの学び」や「3:モードからの学び」については、大いに私たちにとっても示唆や刺激があるということです。

そして、ここが非常に重要な点なのですが、現代社会を生きるエリートが、哲学を学ぶことの意味合いのほとんどが、実は過去の哲学者たちの「1:コンテンツ」ではなく、むしろ「2:プロセス」や「3:モード」にあるということです。ビジネスパーソンが哲学を学ぼうというとき、多くの人が落ちてしまう陥穽がここにあります。

著名な哲学者の著作だから、ということで手にとっては見たものの、先述した通り、過去の著作の多くの「1:コンテンツ」は、すでに誤りであることが判明していますから、「こんなこと今さら学んでも意味がない」と短兵急に断じてしまうわけです。

慶應義塾の塾長として昭和天皇の家庭教師も務めた小泉信三は、エリートが得てして「すぐに役に立つ知識」ばかりを追い求める傾向があることを指摘し、「すぐに役立つ知識はすぐに役立たなくなる」といって基礎教養の重要性を訴え続けましたが、哲学の学習についても同じことが言えます。

多忙なエリートにとって、著名な哲学者の著作を一ページずつ紐解いていくことは確かに費用対効果の低い営みに映るかもしれません。しかし、だからと言って「要するに何を言っているのか」という梗概のみを整理した本を拾い読みしても、せいぜい身につけられるのは虚仮威しの教養でしかありません。

なぜなら、真に重要なのは、その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考たかというプロセスや態度だからです。その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、批判的に疑いの目をさし向ける。

たとえばデカルトに、有名な「方法序説」という本がありますね。これ、読んだ人は感じたと思うのですが、言っていることはムチャクチャなんです。有名な「我思う、故に我あり」というセンテンスからスタートする「神の存在証明」なんて、論理をコネクリ回しているだけで詭弁にしか聞こえない。

つまり「1:コンテンツ」ということでは全然ダメなんですが、当時の社会状況なども鑑みつつ「2:プロセス」あるいは「3:モード」という点に目を転じてみると、実に深い滋味があるわけです。小林秀雄は「方法序説」について、どこかで「デカルトの自伝である」といったことを書いていましたが、実に鋭い指摘で、この本はデカルトが「自分はどう生きたか」という告白文学であり、その結果としての「敗北宣言」なんですね。

誤解を恐れずに言えば、これはつまり「ロッケンロール」だということです。

「哲学」と「ロック」というと、なにか真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、「知的反逆」という点において、両者は地下で同じマグマを共有している。私は、近代思想が急速に影響力を失ってきた時代と、ロックに代表されるポップミュージックが急速に力をつけてきた時代がほぼ同じだったということに、何らかの必然を感じているのですが、この話はまた別の機会にしておきましょう。

話を元に戻します。過去の哲学の歴史を一言で表現すれば、それは「疑いの歴史」ということになります。それまで定説とされてきたアイデアやシステムに対して、「果たして本当にそうだろうか?」と考えてみる。全ての哲学は、このような「疑い」を起点としてスタートしています。

そして、このような「疑いの態度」は、そのまま「システムを無批判に受け入れる」という、ハンナ・アーレントによる「悪の定義」と対比されることになります。このブログでずいぶん前に紹介しましたが、繰り返せば、アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴した末、悪とは「システムを無批判に受け入れることだ」と指摘しました。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2013/08/blog-post.html

一方で、過去の哲学の歴史は全て「システムへの疑い」を起点にしている。これはつまり、哲学を学ぶことで、「無批判にシステムを受け入れる」という「悪」に、人生を絡めとられることを防げるということです。これが、世界のエリートが哲学を学ぶ、本質的な理由です。

世界というシステムが発展途上の段階にある以上、世界システムを構成するあらゆるサブシステムもまた発展途上の段階にあります。したがって私たちには、そのシステムに疑いの目を差し向け、より良い世界や社会の実現のために、何を変えるべきかを考えることが求められているわけですが、ここにエリートのジレンマがあります。というのも、エリートというのは、自分が所属しているシステムにおいて最適化しているわけですから、システムを改変することのインセンティブがないわけです。

自らが大きな恩恵を被っているシステムに、疑いの目を差し向け、批判的に改変の機会を考察するというのが、エリートに課せられた大変難しいチャレンジなんです。このチャレンジを後押しするのが、まさにエリートが学んでいる「哲学」だということになるのかな、と。
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