「美しいもの」を誰憚らず「美しい」と言える社会へ

エピソード1:
あれは確か1980年代の最初の頃だったでしょうか。
当時、僕は小学校の高学年で、隣に座っていたクラス一の美少女の髪の毛をハサミで切ることに、言葉では説明できない不思議な快感を覚えていました。今から思えばそのころから奇麗な女の子を苛めるのが好きだったんだしょうか。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、たまプラーザのイトーヨーカドーの前で見かけた、いすゞの、それもただのフォードアセダンの美しさに釘付けになったことがあります。

エピソード2:
時を経て、それは1980年代の後半ごろのことだったでしょうか。
横浜の私立高校に通っていた僕は、校舎の屋上でタバコやら何やらいろいろなモノを煙にして吸うと、違う意味でアタマが冴え、学校の教師が教室でほざいていることが嘘ばかりだったんだということに気づく知性を獲得しつつありました。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、毎日昼休みに実施されていたレコード鑑賞会で、明らかに調律に失敗したと思われるピアノで奏でられるフーガに衝撃を受け、やはり釘付けになったのでした。

エピソード3:
さらに時を経て1990年代の後半ごろのことです。
広告代理店の営業という仕事で口に糊をしていた僕は、学生時代に聞いていた代理店マンのバラの様な生活と、ドロの中を這い回る様な実際の生活とのギャップに、何かがおかしいのではないか?と思うと同時に、これだよなこれこれ、と痺れるアンビバレントな状況を、思いっきり楽しんでいました。まあそれはともかく、出張先で訪れたシカゴの街を散策する中、ミシガン湖のほとりにたつ漆黒のビルに、楽茶碗と同様の美的インパクトを感じたのでした。うおおおお、なんとカッケええビルなのだろうか。

これらのエピソードは、ある一定の時間を経てから、感動の対象となった「モノ」が、実は美術史上トンでもないものであった、ということが判明するという点で共通しています。

ちなみにオチは、
エピソード1:
ただのフォードアセダンに見えたいすゞジェミニのデザイナーは、ジョルジェット・ジュジャーロだった。
エピソード2:
弾かれていたのは、グールドによるバッハのインベンションとシンフォニアだった。
エピソード3:
ミシガン湖沿いのビルは、ミース・ファンデル・ローエのレイクショア・アパートメントだった。

つまり、何の前提情報もなく、いきなり現物を見させられた、あるいは聴かせられた結果、ああ、知らないけれども、なんかこれはスゴいものだ、と認識するに至っているわけです。

ここで「美的判断」は「文脈」と切り離されていますよね。

まったく文脈に依存せずに、本当に絶対的に「美」を判断していて、後追いで文脈によって説明されている。そういう経験を人生のなかで何度もしていることもあって、僕は「良くない」と思うものは、誰が何と言っても「良くない」と主張します。大バッハもモーツァルトもクソみたな曲をたくさん書いていると思います。

一方で、文脈に依存しないと「美」を判断できないという人が、これほどまでに多いのかと思わされたのが、少し前に起きた佐村河内氏にまつわる事件です。事件を知らないという人はこのブログをそもそも読んでないだろうと思うのでコトの次第は割愛しますが、僕が言いたいのは、過去の歴史上、これほどまでに「美」を突き詰めてきた日本民族が、逆にこれほどまでに自分自身で「美」を判断できない民族に堕してしまったのか、という衝撃です。

誰がいいかなあ、例えばアン・モロー・リンドバーグ。

彼女は、1935年に刊行された旅行記「翼よ、北に」において、日本および日本人の印象を次の様に語っています。

*******
すべての日本人には芸術家の素質がある。そのような芸術的なタッチはあらゆるところに見られる。しごくあっさりした着物のうちにも、毛筆の書き流す文字のうちにも見られる。雨の通りに花ひらく、青や赤の番傘や蛇の目傘のうちにも、普段使いの食器のうちにも見られる。わたしは、日常生活のうちの紙と紐すらも、日本特有のタッチによって、かりそめならぬものに変えられているのだと感じるようになった。あるとき、わたしたちは日本の通りを歩いていた。藍の浴衣を着て、背中に赤ちゃんをおぶっている女の人が街角に立っていた。雨が降りしきり、彼女は濃い青に白い輪の入った傘を頭の後ろに掲げ持っていた。わたしの友達は、「まるで後光みたい」と言った。雨の日、日本の女性はだれでもこうした後光をいだいている。それは日本では最もありふれた種類の雨傘なのだ
*******

まあ、こんな感じです。

ここに記されたアンの美的感性には、ほとんど文脈依存性というものがありません。彼女は、自分の感性にもとづいて、美しいものは、誰がなんといおうと美しい、と主張しているわけです。

僕は、事件発覚前の前のブログで、作曲者が被爆二世だろうが全聾だろうが、結局音楽には、いい音楽と悪い音楽しかない、文脈なんて関係ないんだ、というメッセージを、かなりオブラートにくるんで書きました。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2013/06/blog-post_10.html

このブログを通じて言いたかったのは、なにか「拠り所」がないと自分の意見を主張できない、という日本社会の歪みなんですよね。

どうして、自分がイイね、と思ったものを、なんの理由もなく「イイね」と主張できないのか?
どうして、自分がダメだ、と思ったものを、なんの理由もなく「ダメだ」と主張できないのか?

これはリーダーシップに関わる本質的な問題だと思います。誰もが納得していいね、と言われる様な文脈、それは障害者がハンデを克服して素晴らしい楽曲を作っている、といったわかりやすい文脈がないと肯定の態度を示せない、ということであれば、集団のなかに認知的不協和は生まれず、意思決定のクオリティは高まりません。

美術鑑賞をするときに、すぐに「絵」ではなく、「絵の解説」に向かってしまうあなた・・・自分の美醜を談ずる感覚にもっと自信を持ってください。みなさんが本気で「美しい」と思えるものであれば、それは間違いなく「美しい」のですから。




「逃げる勇気」こそが大事

このブログで「今後、日本企業によるコンプライアンス違反が続発するだろう」という予言をしたのがちょうど二年前の10月でした。その後、この予言は残念なことに的中し、様々な組織での不正が明らかとなり、昨年にはあろうことか、古巣の電通においても広告出稿についての不正があったことが明らかとなりました、とほほ。

電通の不正については、ネットでも様々な批判がなされていますが、ほとんどのものは電通マンの高給と権力に嫉妬を抱く人が溜飲を下げるために垂れ流しているヤッカミに過ぎず、読むだけ時間の無駄なのでここでは同様の批判は繰り返しません。

ここで提起したいのは、キャリア論についての問題です。

昨年に上梓した著作『20代は残業するな』において、僕は「一般的に目の前の仕事に一生懸命に取り組むのはいいことであると信じられているが、それは嘘である」と指摘した上で、「世の中には、それに取り組むことで自分の人生が豊かになる”筋の良い仕事”と、それに取り組むことで自分の豊かさがどんどん奪われる”筋の悪い仕事”がある」と指摘しました。

さらに、「僕たちにとって重要なのは、”筋の良い仕事”と”筋の悪い仕事”の構成比を主体的にコントロールしていくという意識であり、その点から、キャリアにおける最悪の仕事はコンプライアンス違反の片棒を担がされることである」とも指摘しました。


しかし、これは困ったことになるわけです。もし僕の予言通り、今後、コンプライアンス違反を犯す企業がどんどん出てくると、コンプライアンス違反に携わることに人生の貴重な時間を奪われる人が、たくさん出てくることになるからです。そして、こういった仕事は成長実感も自己効力感も得られない割に、極めて肉体的・精神的に負荷がかかるため、キャリアを台無しにしかねないわけです。

では、そんな状況に自分が陥ったらどうすればいいのか?
僕の結論は明白で「さっさと逃げなさい」というものです。

スジの悪い上司や同僚に囲まれて、コンプライアンス違反のような典型的に「筋の悪い仕事」に時間を奪われていると感じられるのであれば、後先考えずに逃げてしまう方がいい。この点について、僕は自分のキャリアを「基本、逃げる」という考えかたでやってきたので、少し説明したいと思います。

今でこそ、外資系企業のシニアパートナーとして働きながら、こうやって書籍の執筆や講演をやっているので、世の中の人からトントン拍子でウマくやってきたように言われることがあるのですが、大変強い違和感を覚えます。なぜかというと、僕は、いまのこの立場を、計画的に努力して掴んだわけでは、全然ないからです。むしろ、その場その場で「この仕事嫌い、やりたくない」「この人嫌い、一緒にいたくない」を繰り返しながら逃げていたら、自然とここに流れ着いたというイメージだからです。

もちろん、仕事に求める基本的な要件はそれほどぶれていません。僕の場合は、大学時代に哲学科を選んだ時から、とにかく「知的に興味をそそられる問題を取り扱うことで、人間や社会の有り様について洞察を得られる仕事、人文科学と経営科学の交差点にある仕事」をやりたいというのがありましたから、それがあるタイミングでは広告代理店の営業ということになり、あるタイミングでは経営戦略コンサルタントということになり、そして今は、組織と人材を専門に扱うコンサルタントということで、この場所にいます。

こう書くと、瓶に封じ込んだ手紙がどこかの岸に漂着するようにして、いまの仕事、いまの立場に偶然に行き着いたように感じられるかも知れませんが、必ずしもそうではなく、大きな方向感は持ちながらも、流される時は流され、舵を切るべき時は舵を切ってきたという感じで、イメージで言えば漂流というよりも川下りに近い感じでしょうか?よくわかりませんが。

その都度、その都度の局面で、感覚的にピンとこない仕事や仲間であれば、「何かピンとこないな」というだけの理由で、立場や報酬にもあまり頓着せず、さっさと逃げてきました。そして、ここが重要な点なんですが、本当にそれで良かったと、今では思っています。

おそらく過去の同僚や取引先の中には、僕のことを快く思っていない人も多いでしょうし、実際に人づてにそういうことを聞くこともあります。でもそれを心苦しいと感じることはありません。なぜそのように言えるかというと、そのようにして他人を攻撃する人は、単に自分の価値観や道徳観念を、他者にも押し付けようとしているからだということを、よくわかっているからです。

僕には僕の価値観や道徳観念があり、それに従って生きています。そして、僕のことを絶対に許さないと息巻いている人にも、その人なりの価値観や道徳観念がきっとあるのでしょう。しかし、それはそれだけのことで、僕がその人の価値観や道徳観念に従って生きなければならない理由は、何もありません。

さらに言えば、実は、その人たち自身ですら、その人たちの価値観や道徳観念に従う必要はないのです。自分の気に入らない価値観や道徳観念であれば、捨ててしまえばいいのに、それを後生大事に抱え込んで生きている。だから、その価値観や道徳観念を平気で踏みにじる人が出てくると腹を立てるのです。

彼らが僕に対して激怒する理由は実にシンプルで、世間から植え付けられた価値観や道徳に、自分は仕方なしに従って生きているのに、平気でそれを振り切って自由に生きている人がいるということで、腹を立てているわけで、実に痛々しいと言うしかありません。

一方で、僕はどのような価値観や道徳観念に従って生きているかというと、実にシンプルで、

それは「自分と自分の大事にしている人を幸せにする」こと、これに尽きます。

この目的に照らして、マイナスだと思えることであれば、相手がどんな権力者であっても断固戦いますし、自分で状況を変えることが難しい、自分や自分の大事にしている人を傷つけてしまうと思った場合は、勇気を出して即座に逃げます・・・逃げるのは勇気がないからではありません、逆に勇気があるからこそ逃げられるんですよ。

このように話すと、「それでも世の中の道徳には従うべきだ」と反論される方もいらっしゃるかもしれません。最終的には、人それぞれなので、もしそのように考えるのであれば、そうなさればいいのではないですか?とお答えするしかないのですが、一つだけ、そのように主張なさる方に対して質問したいのは、「本当にそれは『世の中の道徳』なのですか?あなたが、そう思っているだけではないのですか」ということです。

そうだ、太宰治の「人間失格」にこんなセリフがありますね。

それは世間が、ゆるさない。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?

世間という名を借りて人を断罪しようとする人がこの世の中には溢れていますが、そういう人たちが振りかざす「世間」はなんのことはない、要するにその人自身が縛られているドグマだということを言っているわけです。

つらつらと書き連ねてきましたが、僕が最終的に、特にこれからキャリアの中盤を迎えることになる人たちに言いたいのはこういうことです。

自分と自分が大事にしているものが、ここにいたら奪われてしまう、という風に感じたら、勇気を出してそこからお逃げなさい。その時には色々と苦しい葛藤を抱えることになるかもしれませんが、長い目で見て「自分らしい、いい人生だった」とあとで振り返ることができるような人生を送りたいのなら、この「勇気を出して逃げる」ということは、人生において絶対に必要なスキルですよ、ということです。  





外資系より残酷な日本の大企業

なんかものすごいタイトルですが、最近、日本の、いわゆる大企業に勤めている同年代の人たちの表情がどんどん険しくなっていくのを見ていて、あらためて考えてみたところ、どうもこういうことなんじゃないかと。

これは先日もFBで指摘したことなんだけれども、日本の大企業の残酷なところは、40代の後半になるまで、自分の昇進ポテンシャルがはっきりしない、ということです。

しかし、40代の後半で「この会社では上に上がれない」ということがはっきりしても、その時点で取れるキャリアオプションはほとんどありません。なぜなら、日本の大企業でなんとなく二十年頑張ってきましたという人は、よほど専門性のある人でないと労働市場でほとんど値段がつかないからです。

ここは本当に勘違いされていて、半ば痛々しいんですけれども、日本を代表すると言われているような企業でそれなりに活躍している人の多くは、自信過剰に自分の労働市場での価値を見積もる傾向がある。そういう人が転職活動をすると、自分の今もらっている給料の半分以下の値段しかつかないわけで、そこでキャリアの袋小路に入ってしまうわけです。
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一方で会社側は、被雇用者に対して様々な選択肢を持つわけで、経済学的に言えば、雇用者と被雇用者のあいだで極端なオプションバリューの非対称性が生まれてしまう。

よく「厳しい、厳しい」と言われるコンサルティング会社や投資銀行などの外資系プロフェッショナルファームについて考えてみれば、確かに短期的には厳しいかもしれませんがが、中長期的に考えてみると違う風景も見えてくる。というのも、キャリアの若い段階で仕事の向き・不向きがはっきりするわけですから、結果的には自分のオプションバリューが増えるんですよね。これはシリコンバレーの経済システムと同じで、要するに全体・長期の反脆弱性の高さは、早めにたくさん失敗するという部分・短期の脆弱性によっているわけです。

もちろん、その時は辛いですよ。同僚がイキイキと仕事をしている中で、自分はどうも活躍できていないな・・・と感じている時に、「明日から来なくていい」と言われるわけですから。

「ほぼ日」のCFOとして上場をリードした篠田さんは、もともとマッキンゼーのコンサルタントですが、青天の霹靂のように「退職勧告」を受けて家でワンワン泣いた、とインタビューで答えられていますね・・・よくわかるなあ。


日本の大企業の人からすると、こういうのは耐えられない・・・と言われることが多いんですけど、なんか勘違いしていませんか、と。だって「あなたはここまで」と言われる年齢が早いか遅いかだけの問題であって、であれば、まだ他の道を選択できる若い時に言ってもらった方が本人のためだと思うんですよ。

これを嫌がっている人って、要するにダメ出しの判断を先延ばししているだけで、そうこうしてるうちに、ダメ出しされたらもうどうしようもない、という年齢になっちゃうわけです。それは本当に「人に優しい」ってことなんでしょうかねえ。

結局のところ、キャリアのどの段階で「あなたはこれ以上見込みがないですよ」と言われるかという問題で、日本の大企業にいる人っていうのは、キャリア選択についてのオプションが取れない状況になってはじめて「あなたはこれ以上見込みがありません」と言われるわけです。

しかも、その比率は大企業の方がずっと高い。当たり前のことですが、どんなに大きな会社であっても社長は基本的に一人です。エグゼクティブの総数もせいぜい二十人程度でしょうか。つまり、その組織の中にいて人の羨望を得られるようなポジションにつける確率というのは、組織が大きくなればなるほど低くなるわけです。

仮に

A:百人の会社でエグゼクティブは五人
B:千人の会社でエグゼクティブは十人
C:一万人の会社でエグゼクティブは二十人

という、まあ比較的ありがちな構成を比較してみれば、それぞれで組織人員に閉める上級職の比率は

A:5%
B:1%
C:0.2%

ということになります。

日本の大企業は全てマックス・ヴェーバーが定義するところの「官僚型組織」になっていますから、上層部のポジションは等比級数的に少なくなる。つまり、組織が大きくなればなるほど「あなたはここまで」と言われてホゾを噛むことになる確率も高まる、ということです。

外資系プロフェッショナルファームの場合、ほとんどの人はキャリアのどこかで「あなたはここまで」と言われるわけですが、そうなると当然ながら会社を移ることになります。先述した通り、これは大きなストレスになるわけですが、それは一時的なもので、友人・知人をみる限りは、ほんの二、三年もすれば新天地を見つけてのびのびと仕事をするようになる・・・恋愛と同じですね。

一方で、日本の大企業の場合、「あなたはここまで」と、暗に言われながらも、そこに残ったまま、華々しく活躍してどんどん昇進していく人を、同じ組織の中にいて眺め続けなければならないわけです。自分を拒否する組織に残って、拒否されない人の活躍を見続けなければいけないわけです。

しかも、序列の階差は内部者にははっきりと共有されているので、「ああ、あの人、あそこで止まっちゃったんだな」というのが明確にわかる。周囲も気を使うだろうしね・・・。評論家の見田宗介は、現代社会を評して「眼差しの地獄」と言いましたけど、まさにこれを地獄と言わずして、なんと言おうかと思っちゃうのは僕だけなのかなあ。

冒頭に、最近会った大企業に務める同年代の人たちの表情が、どんどん険しくなっているという話をしましたけれども、「これからもっと上にいく人」と「ここで終わる人」とが峻別される時期に来ているのだということになれば、そういう表情にもなるわなあ、と。

あらためて、自分には無理な組織だったんだなあ、と思いますね。







キャリアにリスクを持ち込むと楽しくなる


最近、就職以来、一度も転職したことがないという人に続けて何人か接して感じたんですが、そういう人たちにとっては「会社内での地位」が、ものすごく人物評価の大きなウェイトになっているんだということを知って、ちょっと驚いています。

何度も転職している自分にとっては職場内の昇進はほとんど「なりゆき」で決まることを知っているので、「あの人、あの年で局長だよ、すごいよね」とか言われても、「はあ、そうですか・・・」と困惑するしかありません。

ハーバードのジェフリー・フェファはこれを実証研究して、コンピテンシーの高低と昇進のスピードや地位の高さには相関がまったくないことを明らかにしていますが、一つの会社にい続けると、そういうのが見えなくなるんでしょうかねえ。

ちなみに論文はこれね。
https://www.slideshare.net/johnnemo/power-by-jeffrey-pfeffer-key-takeaways

そう仰っているご本人にとっては、人物評価を相対化するだけのバックグラウンドがない、つまり「会社=社会」になってしまっているので、その会社内での評価=地位が、人物全体の価値を決める尺度としてとても大きなウェイトを占めているんでしょうけれども、これはキツイ・・・地獄でしょうね、僕には生きていけない世界だったんだな、と改めて思います。

雇用の不安定な外資系のプロフェッショナルファームにい続けるということは、傍目にはストレスフルな人生に見えるかもしれませんが、全く逆で、たくさんの職場にかつて釜の飯を一緒に食った人がいて、まずい「なりゆき」になったらいつでもその人たちを頼れるというオプションを持っているというのは、とても精神的に健全でいられるんです。

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最近話題になっているナシーム・ニコラス・タレブの「反脆弱性」にも、キャリアにリスクを持ち込むことで、人生を「脆弱の逆」、つまり「反脆弱」なものにできる、一方でキャリアをローバストにしようとしてリスクを除外するとかえって脆弱になってしまう、と主張していますが、これは全く実感値とも符合します。


今、久しぶりにイノベーションに関する第二弾の書籍を書こうかと思っています。過去20年のあいだ、様々な経営学者さんがイノベーションに関する方法論を体系化しようとしてきましたが、結果的にはどれもうまくいっていませんよね。もう多くの人が感じていることだと思うんですけど、こういう「イノベーションの方法論」というのはどれも茶番だったということでそろそろ過去を清算する時期に来ていると思います。

僕は最初に出したイノベーションに関する書籍で「そもそも予定調和させるという考えが間違っている」ということを指摘しましたが、力不足もあって、なかなかこのメッセージは浸透していない。というところに、この「反脆弱性」という話が出てきて、ああ、これはいい側方支援をもらったなと思っています。

ということで、キャリアにしてもイノベーションにしても、リスクファクターが減ってしまうとかえってシステムは脆弱になってしまう、ということでしょうか。自分の状況を改めて振り返ってみると、反復の仕事が増えて予測可能性が高まっている、つまりタレブ的にいうと「脆弱」な状況になっているような気がするので、もう少し「予測不可能性」を人生に取り入れて生きたいと思います、はい。

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人工知能がすごいのではなく、単に将棋や囲碁が簡単だったという話

人工知能の進化は私たちの想像を絶するスピートで進化しており、近い将来、現在人間が担っている理知的・論理的な知的活動の「かなりの部分」を代替する可能性があります。このような状況において、私たち人間には、労働市場においてどのようにして人工知能と戦っていくのか、という論点が突きつけられています。

この論点を考察する材料の一つとするべく、現在「人工知能に仕事を奪われるのはどんな職業か」という問題について、様々な研究者が考察を発表していますが、こういった予測の大半はどうせ外れることになるのであまり振り回されない方がいいと思います。

「いまの小学生の65%は、現時点で存在しない職業につくだろう」と予言したのはデューク大学教授のキャシー・デビッドソンでしたが、職業そのもののポートフォリオが社会の変化に伴って大きく移り変わっていく中で、個別の職業にフォーカスを当てて「どれが人工知能に代替されるか」などを考えるのはあまり生産性の高い営みとは思えません。

重要なのは、個別の職業の代替性を考えるよりも、「人工知能は本質的に何が得意で、何が不得意なのか?」という点を考えること、言うなれば人工知能との戦いにおける「骨太な戦略ストーリー」を掴むことが重要です。僕は、この戦略を検討するポイントは二つあると思っています。

一つ目のポイントは、近い将来、人間が担うべき仕事は「人工知能を奴隷として使う仕事」と「人工知能に奴隷として使われる仕事」の二つになる、ということです。

そして二つ目のポイントは、その二つの仕事は「創造性」というキーワードによって峻別される、ということです。

この点を考察するにあたって、まずは象徴的な「事件」からおさらいしましょう。

チェス界のスーパースターだったガレリ・カスパロフを、IBMのスーパーコンピューター=ディープブルーが破って大騒ぎになったのは1997年のことでした。当時もっぱら言われていたのは、チェスについては人工知能が人間を凌駕したものの、将棋に関してはあと十年、囲碁に至ってはあと五十年、人間の優位が続くだろうということでした。

ところが実際にどうだったかというと、将棋についてはその5年後に、元名人で永世棋聖の故米長邦雄氏が「ボンクラーズ」という、なんとも間の抜けた名前の将棋プログラムに敗れ、囲碁については20年後の2016年、グーグルが開発した囲碁プログラム「AlphaGo」が、世界トップクラスの棋士である韓国のイ・セドル九段と対局し、541敗という好成績でこれを下してしまいました。

このニュースは人工知能の驚くべき進化スピードを示すものとしてセンセーショナルに各種のメディアで報道されたので、ご存知の方も多いでしょう。チェス・将棋・囲碁という「最高度の知性が求められる競技」において、人工知能が人間を凌駕しつつあることが明らかとなり、多くの知的労働が人工知能に取って代わられるのではないかという悲観的な議論に火を付けました。

しかし、一方で忘れられているのが、これだけ圧倒的な知的パフォーマンスを発揮するに至っている人工知能が、音楽や絵画などの芸術的表現の分野に関しては、率直に言って「センスの悪いアマチュア」の水準に、ここ数十年のあいだ留まり続けている、ということです。

たとえば、囲碁の世界ではトッププロを凌駕する人工知能を開発したグーグルは、並行的に「作曲する人工知能」の研究開発も進めていますが、その作品の水準は今のところ、贔屓目に言って「小学校低学年の作品」といった程度でしかありません。

Google A.I. just created music (CNET Update)



なんというか、がっかりを通り越して唖然とさせられた、というのが本音でしょうか。

古代ギリシアの時代から、もともと音楽と数学は大変相性が良いと考えられていました。よく知られている通り、ピタゴラスの定理を発見したピタゴラス教団は数学と音楽を表裏一体のものとして研究していましたし、例えば現代に目を転じても、ギリシア出身の作曲家であるヤニス・クセナキスをはじめとして、ポアソン分布や群論などの数学的手法を用いた楽曲は数多く作曲されています。

ところが現実には、どうもそう簡単ではない、ということが明らかになりつつあります。

今日では、先述したグーグルをはじめ、様々な研究機関が人工知能に作曲・演奏させた音楽を発表していますが、総じて「大人の鑑賞に耐えられる」水準に達しているものは皆無であり、これらが近い将来においてバッハやドビュッシー、あるいはビートルズやピンクフロイド、あるいはビル・エバンスやマイルス・デイビスの音楽に比肩しうると思わせる兆しは、残念ながら全くありません。

人工知能に音楽を作らせるという試みは1950年代から本格的に取り組まれており、すでに70年近い蓄積があります。90年代の半ばには、バッハやモーツァルトの楽曲データを大量に記憶させ、その傾向を解析することで「バッハ風」「モーツァルト風」の音楽を自動生成するシステムがすでに作られていました。当時、大学の学部生だった私は、富士通の研究所でそのプログラムを見せてもらったことがあるのですが、自分がお遊びでつくったバッハ風の変奏曲と比較しても、確かに「それっぽい感じ」になっていることに感心したことをよく覚えています。

しかしその後、囲碁や将棋といった領域では飛躍的な進化を遂げ、事実上人間の能力を凌駕するまでに至った人工知能の進化は、音楽の作曲や演奏といった領域では停滞してしまいます。どうも、私たちが考えるほど、「人工知能に音楽を作らせる、演奏させる」という営みは、簡単ではないようなんですね。

世界には人工知能の発達について極めて楽観的な人が多く、2045年までに人間の知性を凌駕するようになるだろうと予測するレイ・カーツワイルのような人もいるのですが、作曲や演奏といった領域で人工知能がこれほどの長期間にわたって停滞しているという事実についてどのように考えているのか、聞いてみたいものです。

さて、話をもとに戻しましょう。チェスや囲碁の領域では最高度に訓練された人間をすら凌駕する知的能力を獲得しつつあるにも関わらず、作曲や描画といった領域においては「下手なアマチュア」のレベルに低迷し続けているという事実から洞察される結論は一つしかありません。

それはすなわち

チェスや囲碁の手を考えるという知的営為は、作曲や演奏といった芸術行為と比較して、実ははるかに簡単だった

ということです。もちろん、この「簡単」というのはコンピューターにとって、ということです。

労働市場における人工知能との仕事の奪い合いについて、骨太な戦略ストーリーを構想することが重要だという本書冒頭の指摘に戻って考察すれば、当然ながら「人工知能にとって簡単だけれども、人間にとってはとても難しい」という職業は、最も人間にとって競争力を発揮しにくい労働市場だということになり、そのような市場は積極的に回避することが必要だということになります。

では、どのような労働市場がそうなのか?現時点ではっきりしているのは、どうもチェスや将棋や囲碁に求められる「何か」が、共通して求められるような職業では、おそらく人間は人工知能に敵わないということであり、音楽の作曲や演奏に求められる「何か」が、同じように求められる職業では、少なくともしばらくのあいだ、人工知能は人間に敵わない、ということです。

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