Wednesday, April 26, 2017

あなたには「スピークアップする義務」がある


昨日のTEDのオープニングで、TEDのマスターキュレーターであるクリス・アンダーソンが、こんなことを言っていました。

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政治については、私自身もうんざりさせられるのですが、しかし、向き合わないわけにはいきません。
今回のTEDでも、あちこちで、政治のことには触れます。
しかし考えてみれば、長い目で見ると、世界を本当に変えるのは、科学者や技術者、そしてアイデアではないでしょうか。
政治家たちはやってきて、そして去っていきます。アイデアの命は長く、人類に影響を与え続けます。
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もちろんこのスピーチは、TEDのコンセプトである「Ideas Worth Spreading」を受けてのものです。

政治家たちはいなくなる、でもアイデアは残り、人類に影響を与える。
だからこそアイデアを共有する「場」が大事だということです。

アイデアは、いわばリレーのバトンのように世代から世代へ、文化から文化へと引き継がれていきます。そして、やがて他の人から引き継がれた別のアイデアと結びつき、さらに新しいアイデアを生み出し、それが人類に影響を与えていくことになるでしょう。

そして、いま私たちが、私たちの祖先から受け継いでいる「アイデアのバトン」をあらためて見つめてみれば、その多くが、かつては強く非難・批判されたものであることにも気づきます。

そのように考えてみると、どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、私たちには、自分のアイデアを「声に出す」ことが義務付けられているように思います。どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、その時点で支配的な考えとは摩擦を起こすものであっても、あなたは「自分のアイデアを声にだす義務」がある、ということです。

この義務を多くの人が自覚し、いろんなところでアイデアの摩擦が起これば、日本は今よりもずっと良い国になると思うんですよね。


Tuesday, April 4, 2017

「逃げる勇気、負ける技術」がなぜイノベーションにつながるのか?

世の中は相変わらず「努力は、報われる」「頑張れば、いつかできる」といった主張にあふれているらしく、身の丈に合わない仕事や理不尽なクソ上司の元で頑張り続け、身体や精神を病んでしまう人が多いようで、本当に痛ましい。

僕はいろんなところで、これからは「逃げる勇気」「負ける技術」が大事で、これは「人生を守る」というパッシブな点だけでなく、「イノベーションの推進」というアクティブな効用にも繋がる、と主張しています。

前者の「人生を守る」というのはわかるけれども、後者の「イノベーションの推進」というのは、ちょっとイメージがつきにくいかも知れませんが、ちょうどいい事例を思いついたので備忘録がわりに共有しておきます。

先日、京都大学の山口栄一先生の「イノベーションはなぜ途絶えたか」という本を読んでいたら、ノーベル賞を受賞された山中伸弥先生の話が出ていて、これはまさに「挫折によるイノベーション」の典型だな、と。

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山中は、スポーツ整形外科医を夢見て87年から整形外科研修医として勤務するものの、2年で挫折して基礎医学を学ぶため薬理学研究科に入学する。しかし、伝統的な薬学にも強いフラストレーションを抱いて、ここでも挫折する。  

とはいえ山中は、薬理学の研究の最中にノックアウト・マウス(遺伝子の機能を推定するために、特定の遺伝子を不活性化させたマウス)に出会って衝撃を覚え、ここに新しいブレークスルーへの道があることを直感する。  

そこで、博士号取得後93年に米国のグラッドストーン研究所に留学して、ゼロから分子生物学を勉強する。ほどなく自ら見つけたNATIというガン遺伝子をつぶしたES細胞を培養したところ、多様な種類の細胞に分化する能力が失われることを発見。道具にすぎなかったES細胞そのものに初めて興味を持った。  

96年に帰国後は、大阪市立大学医学部助手になってES細胞の研究をゼロから始める。当時、ES細胞研究の主流は前述のように分化の研究で「ES細胞からどんな細胞をつくったか」を世界中の研究者が競い合っていた。  ところが山中は「受精卵から培養した生きた胚からではなく、遺伝子データベースからES細胞と同じような細胞を作る」という、まだ誰もやっていない研究に着手する。

できるかどうかわからない。けれど、もしできれば、受精卵を使うという倫理問題と免疫拒絶問題の両方をクリアできる。できなければ、科学者をあっさりあきらめて町医者をやる。99年に奈良先端科学技術大学院大学に助教授として就任したときの覚悟だった。  

こうして高橋和利(1977~ )のアイデアを得ながら、2006年に遺伝子データベースの中から4つの遺伝子を選び、ウィルスを使って取り出した細胞に入れ込むと、どのような組織にも分化可能な細胞、すなわちiPS細胞になることを発見した。京都大学に教授として移ってほどなくのことだった。  

2012年にイギリスの生物学者ジョン・ガードン(1933~ )とともにノーベル生理学・医学賞を受賞した山中のこの業績は、イノベーション・ダイヤグラム上では大変重要なジャンプを呈していることがわかる。発生学が持つパラダイムを破壊したこの達成は、生命情報科学という異なる学問領域から土壌の中に下り立ち、しかも旧来の発生学とはまったく異なる新しい学問領域を築いた。  

山中は挫折を繰り返しながら、孤独の中で「臨床整形外科薬理学分子生物学ガンの研究ES細胞の研究」と、さまざまな分野を遍歴した。iPS細胞の発見は、「回遊」をした果ての「創発」である。

とはいえそれでも、一つの研究分野に腰を落ち着けずに次々に専門領域を変える自分の将来に底知れぬ不安を覚え、たまたま聴講した利根川進(1939~ )の講演会で、その不安を告げた。すると、利根川はこう答えたという。 「研究の継続性が大事だなんて、誰がそんなんいうたんや。面白かったら自由にやったらええやんか」。  

この言葉に、「回遊」による「知の越境」の本質が宿っていると私は思う。
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山中先生が最初に目指したキャリアはスポーツ整形外科医でした。ですが、これは自分に向いていないと考えて、二年後にはキャリアを転向しています。

二年って、結構短いですよね・・・

手術がド下手だったとか、色々と言われていますが、「二年で見切る」というのも、一つの勇気だと思うのです。これが、僕がいつも言う「逃げる勇気」です。

そして、その後、薬理学の世界に身を転じた山中先生はしかし、ここでも挫折してしまう。しかし、この時、のちの研究につながる仮説を得てもいる。

挫折して逃げる。ただし、逃げる時にタダでは逃げない。そこから盗めるものはできるだけ盗んで、次のフィールドで活かす。これが、僕がいつもいう「負ける技術」です。

山中先生のキャリアは、そういう意味で、僕がいつもいう「逃げる勇気、負ける技術」の実践とも言えるものなんですよね。これを実践したことで、イノベーターの条件である「越境」を実現することができたわけです。

もしこの時、世の中によくいる「努力は報われる」「石の上にも三年」などという価値観の人から諭され、思いとどまっていたら、もしかしたら山中先生のノーベル賞受賞はなかったかも知れないわけです。

新しい仕事を始める際に、「せめて三年くらいは頑張らないと」とよく言われますが、この山中先生の事例は、そういう御託に対する強烈なアンチテーゼだと思うのですよね。

世の中で、どうもしっくりこない、なにか違う気がする、という思いが拭えない人は、一度じっくり、もしかしたらそれは頑張っているのではなくって、ただ単に「逃げる勇気、負ける技術」がないからなのではないか、と考えてみてはいかがでしょうか?

Friday, March 31, 2017

世界のエリートはなぜ「哲学」を学ぶのか?

エリートの見識を養成するための教育施策として最も普遍的に行われているのが哲学教育です。17世紀以来、エリート養成を担ってきた欧州名門校の多くでは、長いこと哲学が必修となっていました。

例えば、英国の政治エリートを数多く輩出してきたオックスフォードでは、これまで長らく、文系・理系を問わずに歴史と哲学が必修科目とされてきました。現在でも、エリート政治家を多く輩出している同校の看板学部は「PPE=哲学・政治・経済学科」です。

日本の大学システムに慣れ親しんだ人からすると、なぜに「哲学と政治と経済」が同じ学部で学ばれるのか、と奇異に思われるかも知れませんが、彼らの考え方はシンプルで、政治と経済を担うエリートこそ哲学を教養の基礎として身につけなければならない、といことです。エリートには大きな権力が与えられますが、哲学を学ぶ機会を与えずにエリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なんですね。

同様の思想はフランスにも見られます。フランスの教育制度の特徴としてしばしば言及されるのが、リセ(高等学校)最終学年における哲学教育と、バカロレア(大学入学資格試験)における哲学試験です。文系、理系を問わず、すべての高校生が哲学を必修として学び、哲学試験はバカロレアの第一日目の最初の科目として実施されます。そのような試験において、文系・理系を問わず、最重要の科目として「哲学する力」が必修の教養として位置付けられているわけです。

これらの大学教育に加えて、たとえば経営幹部の教育研究機関として著名な米国のアスペン研究所では、哲学に関する講座が主要プログラムの一つとなっており、全世界から集まるグローバル企業の幹部が、風光明媚なアスペンの山麓で、プラトン、アリストテレス、マキュアベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスといった哲学・社会学の古典をみっちりと学んでいます。

いま「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか」という題名の本を書いているのですが、執筆のためのリサーチとして、複数の日本企業・海外企業の経営人材育成担当者にインタビューをさせてもらい、最も「思想として違うな」と感じたのは、この「哲学教育」の部分だったんですね。

誤解を恐れずに言えば、海外のエリート養成では、まず「哲学」が土台にあり、その上で功利的なテクニックを身につけさせるという側面が強いのに対して、日本では、土台となる部分の「哲学教育」がすっぽりと抜け落ちていて、ひたすらにMBAで習うような功利的テクニックを学ばせている、という印象を持ちました。

明治時代に活躍した哲学者の中江兆民は「我日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と、日本という国に「哲学」がスッポリ抜け落ちていて、それが様々な問題の根幹にあるという指摘をしていますが、百年以上たっても状況はあまり変わっていないということでしょうか。

確かに、多くの日本人にとって、ビジネスエリートが哲学を学ぶことの意味合いについて、直感的に理解することは難しいかもしれません。

ここではまず、現代を生きるビジネスパーソンにとって、古今東西の哲学者の論考から、どのような学びが得られるのかという論点について整理してみましょう。ここんところがわかっていないと、そもそも「何で哲学を?」というところが腹落ちしません。

現代を生きるビジネスパーソンにとって、「哲学から得られる学び」には、大きく3種類あります。それらは
  1. コンテンツからの学び
  2. プロセスからの学び
  3. モードからの学び
ということになります。
コンテンツというのは、その哲学者が主張した内容そのものを意味します。次にプロセスというのは、そのコンテンツを生み出すに至った気づきと思考の過程ということです。そして最後のモードとは、その哲学者自身の世界や社会への向き合い方や姿勢ということです。

これら三つの学びを整理しないままに哲学書に接しても、おそらく現代を生きる私たちにとってあまり有用な示唆や気づきは得られないと思います。というのも、例えば古代ギリシアの哲学者の論考内容などは、すでに自然科学の検証によって「誤り」であることが判明しているからです。

これはつまり、先ほどの枠組みで言えば、「1:コンテンツからの学び」に関わるところで、要するにコンテンツとしては全然ダメだということです。しかし、ではその哲学者の考察から何も学べないのかというと、それはそうならないわけです。その哲学者がなぜそのように考えたのか、どのような知的態度で持って世界や社会と向き合っていたのか、という点については、いくら実際の論考内容=コンテンツが誤りであったとしても、私たちにとって学びとる点はたくさんあるわけです。

具体的なイメージがわきにくいと思うので実例を挙げて説明しましょう。

ソクラテス登場以前の古代ギリシア、時代としては紀元前6世紀ごろのことですが、アナクシマンドロスという哲学者がいました。彼はある日、ふとしたきっかけで、当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説に疑問を持つようになります。なぜ疑問を持ったのか、その理由は実にシンプルで「もし大地が水によって支えられているのであれば、その水は何かによって支えられている必要がある」というものでした。なるほど、確かにその通りです。

そしてアナクシマンドロスはさらに考えを推し進めます。つまり「もし仮に、水を支えている“何か”があったとしても、その“何か”もまた別の何かに支えられている必要がある。こうやって考えていくと無限に後退していかざるを得ないが、無限にあるものなど有り得ないわけで、そうすると最終的に地球は何物にも支えられていない、つまり宙に浮いているということになる・・・」という、当時の人を仰天させるような仮説を打ち出したわけです。

アナクシマンドロスが最終的にうち出した仮説、つまり「大地は何物にも支えられていない」という結論は、地球が宇宙空間に浮かんでいることを知っている現在の私たちにとって、当たり前のことでしかありません。

しかし一方で、アナクシマンドロスが示した知的態度と思考プロセス、つまり当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説を鵜呑みにして思考停止することなく、「大地が水によって支えられているのだとすれば、その水は何によって支えられているのだろう」という論点を立て、粘り強く思考を掘っていくような知的態度と思考プロセスは、現在の私たちにとって大いに参考になります。

つまり、先ほどの枠組みで整理すれば、アナクシマンドロスの哲学というのは、「1:コンテンツからの学び」という点では全くダメだということですが、「2:プロセスからの学び」や「3:モードからの学び」については、大いに私たちにとっても示唆や刺激があるということです。

そして、ここが非常に重要な点なのですが、現代社会を生きるエリートが、哲学を学ぶことの意味合いのほとんどが、実は過去の哲学者たちの「1:コンテンツ」ではなく、むしろ「2:プロセス」や「3:モード」にあるということです。ビジネスパーソンが哲学を学ぼうというとき、多くの人が落ちてしまう陥穽がここにあります。

著名な哲学者の著作だから、ということで手にとっては見たものの、先述した通り、過去の著作の多くの「1:コンテンツ」は、すでに誤りであることが判明していますから、「こんなこと今さら学んでも意味がない」と短兵急に断じてしまうわけです。

慶應義塾の塾長として昭和天皇の家庭教師も務めた小泉信三は、エリートが得てして「すぐに役に立つ知識」ばかりを追い求める傾向があることを指摘し、「すぐに役立つ知識はすぐに役立たなくなる」といって基礎教養の重要性を訴え続けましたが、哲学の学習についても同じことが言えます。

多忙なエリートにとって、著名な哲学者の著作を一ページずつ紐解いていくことは確かに費用対効果の低い営みに映るかもしれません。しかし、だからと言って「要するに何を言っているのか」という梗概のみを整理した本を拾い読みしても、せいぜい身につけられるのは虚仮威しの教養でしかありません。

なぜなら、真に重要なのは、その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考たかというプロセスや態度だからです。その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、批判的に疑いの目をさし向ける。

たとえばデカルトに、有名な「方法序説」という本がありますね。これ、読んだ人は感じたと思うのですが、言っていることはムチャクチャなんです。有名な「我思う、故に我あり」というセンテンスからスタートする「神の存在証明」なんて、論理をコネクリ回しているだけで詭弁にしか聞こえない。

つまり「1:コンテンツ」ということでは全然ダメなんですが、当時の社会状況なども鑑みつつ「2:プロセス」あるいは「3:モード」という点に目を転じてみると、実に深い滋味があるわけです。小林秀雄は「方法序説」について、どこかで「デカルトの自伝である」といったことを書いていましたが、実に鋭い指摘で、この本はデカルトが「自分はどう生きたか」という告白文学であり、その結果としての「敗北宣言」なんですね。

誤解を恐れずに言えば、これはつまり「ロッケンロール」だということです。

「哲学」と「ロック」というと、なにか真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、「知的反逆」という点において、両者は地下で同じマグマを共有している。私は、近代思想が急速に影響力を失ってきた時代と、ロックに代表されるポップミュージックが急速に力をつけてきた時代がほぼ同じだったということに、何らかの必然を感じているのですが、この話はまた別の機会にしておきましょう。

話を元に戻します。過去の哲学の歴史を一言で表現すれば、それは「疑いの歴史」ということになります。それまで定説とされてきたアイデアやシステムに対して、「果たして本当にそうだろうか?」と考えてみる。全ての哲学は、このような「疑い」を起点としてスタートしています。

そして、このような「疑いの態度」は、そのまま「システムを無批判に受け入れる」という、ハンナ・アーレントによる「悪の定義」と対比されることになります。このブログでずいぶん前に紹介しましたが、繰り返せば、アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴した末、悪とは「システムを無批判に受け入れることだ」と指摘しました。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2013/08/blog-post.html

一方で、過去の哲学の歴史は全て「システムへの疑い」を起点にしている。これはつまり、哲学を学ぶことで、「無批判にシステムを受け入れる」という「悪」に、人生を絡めとられることを防げるということです。これが、世界のエリートが哲学を学ぶ、本質的な理由です。

世界というシステムが発展途上の段階にある以上、世界システムを構成するあらゆるサブシステムもまた発展途上の段階にあります。したがって私たちには、そのシステムに疑いの目を差し向け、より良い世界や社会の実現のために、何を変えるべきかを考えることが求められているわけですが、ここにエリートのジレンマがあります。というのも、エリートというのは、自分が所属しているシステムにおいて最適化しているわけですから、システムを改変することのインセンティブがないわけです。

自らが大きな恩恵を被っているシステムに、疑いの目を差し向け、批判的に改変の機会を考察するというのが、エリートに課せられた大変難しいチャレンジなんです。このチャレンジを後押しするのが、まさにエリートが学んでいる「哲学」だということになるのかな、と。
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Sunday, January 22, 2017

横浜市教育長を辞任させよう

福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒が、同級生から「賠償金をもらっているだろう」などと言われ、1回につき5〜10万円の現金を渡し、その総額が150万円にまでなっていたという問題について、横浜市教育委員会は「金銭要求をいじめと認定するのは困難」とする見解を出しました。

横浜市の第三者委員会が201611月にまとめた報告書では「金銭授受はいじめから逃れるためだった」と指摘しながらも「おごりおごられる関係で、いじめとは認定できない」とされています。いじめられた側の生徒は、今年の110日に、この行為もいじめと認定するよう要望書を出しているにも関わらずです。

しかし横浜市教育委員会の岡田優子教育長は「関わったとされる子どもたちが『おごってもらった』と言っている以上、いじめという結論を導くのは疑問がある」と述べ、あらためて、小学生が総額150万円にまでなる現金を渡していたという状況について「いじめ」とは認定しない、という判断を下しました。

こんなバカな話があるでしょうか!?

そもそも「いじめ」は、行為そのものによって断定できるわけではありません。肝心なのは「いじめられた側」が「いじめ」と感じていたということです。であるにも関わらず、この第三者委員会は「いじめた側」の意見だけを尊重し、「いじめられた側」の意見を退けています。

しかもその金額たるや、一回につき5〜10万円、総額150万円という大金です。「いじめではありませんでした。これはもはや犯罪です」というのであればまだしも「おごりおごられる関係だった」とは・・・怒りで血が沸騰しそうです。

このようなことがまかり通るのであれば、全国で「いじめられたくなかったら、おごれ」という恐喝行為が横行することになります。ましてや、この事件で標的になったのは福島から不本意に引っ越してきた生徒です。新しくコミュニティに入ってきた不安でいっぱいの弱い立場にある子供を恐喝することで金銭を巻き上げるなどという行為が横行することは断じて許せません。

またそのような行為を、責任逃れのようにして「なかったこと」にしようとする横浜市教育委員会や教育長については、公教育を担う人材としての責任感・倫理観・リーダーシップが全く欠けていると断じざるを得ず、私たちの子供達の教育を任せることはできません。したがって、教育長をはじめとした関係者に対しては即刻の辞任を求めます。

私は次のことをこのブログを読んでいる皆さんにお願いします。

1:横浜市教育長を辞任させましょう
それぞれの立場でやれることがあると思いますが、最も大事なのは「声をあげる」ということです。私はすでに横浜市教育委員会に対して「教育長は辞任するべきだ」ということを直接に電話で意見していますが、同じことをみなさんにもやって欲しい。
特に横浜市に在住の方は、税金を払っているステークホルダーという立場から、自分たちの子供を預けるに足る倫理やリーダーシップが欠如しているという理由から、強く辞任を求めて欲しいと思います。
直接の電話が憚られるという人であればフェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディアで「辞任するべきだと思う」という意見を表明してください。

2:調査のやり直しを求めましょう
第三者委員会が提出した報告書は、「いじめがあった」ということにすると関係者の処分が必要なため、穏便に済ませようという意図のもとに作成された茶番でしかありません。私は強く、この調査のやり直しを求めます。
こちらも同様に、私自身は教育委員会に対して、直接に電話で意見していますが、みなさんもそれぞれの立場で、この調査のやり直しを求める声をあげてください。

世界にはロクでもないことがたくさんありますが、それを嘆いたり冷笑したりするだけでは、何も変わりません。「俺たちはみんなドブの中を這ってる。でもそこから星を見あげているヤツもいるんだ」というオスカー・ワイルドの言葉を思い出してください。少しずつでも「おかしい」と思うことには、声をあげ、やれることをやっていきましょう。

私は、断じてこの問題を、このまま見過ごすことはできません。
皆様のご協力を是非ともお願いします。


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