Tuesday, June 28, 2016

武器としてのリベラルアート

この論考を通じて筆者がお伝えしたい主張は以下の通りである。

現代をしたたかに生きていこうとするのであれば、リベラルアートほど強力な武器はない。
特にビジネスにたずさわる立場にあるのであれば、リベラルアートを学ぶことは、恐らく人生においてもっとも費用対効果の高い投資になるであろう。

以下に、上記の論拠について想いのたけを述べたい。

■「イノベーションを起こす武器」としてのリベラルアート
まず読者のみなさんに一つ質問をしたい。その質問とは「金利はなぜプラスなのか?」というものだ。恐らく、多くの読者はこの質問に対する明確に答えをもっていないだろう。しかし、それは読者諸兄にかぎったことではない。筆者をふくめ、現代に生きる我々のほとんどは無条件に「金利はプラスである」と信じて疑っていない。ところが、これは現代の、それも西欧社会に生きている我々だけのあいだに通用する常識であって、歴史を振り返れば、あるいは地域を変えてみれば、それが一時的かつ局所的な常識であることがすぐにわかる。

例えば、中世ヨーロッパや古代エジプトではマイナス金利の経済システムが採用されていた。マイナス金利ということはつまり、銀行にお金を預けるとどんどん価値が目減りしてしまうということを意味している。従って、こういう社会では現金を持ち続けていることは損になるわけで、当然のことながら、現金は入ってくると同時になるべく他のものと交換しようという誘因が働く。

では、どのようなものとかえるのが良いか。食べ物か?いや、食べ物は難しい。人間は、いわゆる食いだめが出来ない。したがって食べ物に変えても一度に食べられる量には限りがあるため、保存が必要になる。しかし当時は冷蔵庫もない時代で保存できる量にはおのずと限りがある。ではモノにするか?モノならなにがいいだろうか?こうやって考えていくと、やがて誰もが同じ結論に至ることになる。そう、長いこと富を生み出す施設やインフラにお金を使おうという結論だ。この意思決定に則ってすすめられたのがナイル川の灌漑事業であり、中世ヨーロッパでの大聖堂の建築である。この投資が、前者は肥沃なナイル川一帯の耕作につながってエジプト文明の発展を支え、後者は世界中からの巡礼者をあつめて欧州全体の経済活性化や道路インフラの整備につながっていった。

リベラルアートを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいるが、これはとてももったいない。リベラルアートのリベラルとは自由という意味であり、アートとは技術のことである。従ってリベラルアートとは、自由のための技術、ということになる。では、ここでいう自由とはなんのことか?もともとの語源は新約聖書のヨハネ福音書の第831節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ている。「真理」とは読んで字の通り、「真の理(=ことわり)」である。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ことわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、といっているのである。その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それは例えば「金利はプラスである」という思い込みのようなものだ。つまり、目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う」ための技術がリベラルアートの真髄ということになる。

これがなぜビジネス世界を生き抜くための功利的な武器となりうるのだろうか?答えは「なぜならイノベーションには“相対化”が不可欠だから」ということになるだろう。過去のイノベーションを並べてみると、そこに何らかのかたちで、それまでに当り前だと思っていた前提や枠組みが取り払われて成り立っていることに気づく。

パソコンの販売では店頭シェアがカギだ、という前提が支配する中で、その前提にこだわって破綻したコンパックと、その前提から離れてダイレクト販売というモデルを確立して業界を支配したデル。

モノを一番早く運ぶのは最短経路だ、という前提が支配する中で、その前提にこだわって消えていった多くの零細運送事業者と、ハブ&スポークという物流システムを確立して成長したFEDEX

パソコンには入力機器と記録媒体が必要だ、という前提にこだわって価格競争の泥沼で苦しんでいる多くのPCメーカーと、その前提から離れてiPadを開発したアップル。

イノベーションというのは常に「それまでは当たり前だと思っていたことが、ある瞬間から当たりまえでなくなる」という側面を含んでいる。つまりイノベーターには「当たり前」を疑うスキルが必要なのである。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセンは、著書「イノベーションのDNA」のなかで、イノベーターに共通する特徴として、誰もが当たり前だと思っていることについて「Why?」を投げかけることが出来る能力がある、という点を挙げている。たしかに、数多くのイノベーションを主導したアップルの創業者スティーブ・ジョブズは、いつもこのWhy?という疑問を周囲のスタッフに投げかけていたことで知られている。その彼が、常々アップルを、テクノロジーとリベラルアートの交差点に位置する会社にしたい、と語っていたのは偶然ではないだろう。リベラルアートというのは相対化の技術であり、相対化することによって初めてひとは、誰もが常識だと思っている世界のありようについて、なぜそうなのか?なぜ他のやり方ではないのか?という問いを持てる、ということだ。

一方で、すべての「当たり前」を疑っていたら日常生活は成り立たない。どうして朝になると自然に目が醒めるのだろう、どうして人間は昼間に働き、夜に休むようになったのだろう・・・いちいちこんなことを考えていたら哲学者にはなれるかも知れないが、サラリーマンとしては破綻してしまうだろう。ここに、よく言われる「常識を疑え」という陳腐なメッセージのアサハカさがある。常識を疑うのはとてもコストがかかるのだ。一方で、イノベーションを駆動するには「常識への疑問」がどうしても必要になる。ここにパラドクスがある。

結論からいえば、このパラドクスを解くカギは一つしかない。つまり、重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度ではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼なのだということだ。そしてこの選球眼を与えてくれるのがまさにリベラルアートなのである。リベラルアートというレンズを通して目の前の世界を眺めることで、世界を相対化し、普遍性がより低いところを浮き上がらせる。スティーブ・ジョブズは、カリグラフィーの美しさを知っていたからこそ「なぜ、コンピューターフォントはこんなにも醜いのか?」という問いを持つことができた。チェ・ゲバラはプラトンが示す理想国家を知っていたからこそ「なぜキューバの状況はこれほどまでに悲惨なのか」という問いを持つことができた。目の前の世界を、「そういうものだ」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化する。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、リベラルアートはそれを映し出すレンズとしてもっともシャープな解像度をもっているというのが筆者の意見である。

■「キャリアを守る武器」としてのリベラルアート
いまこの瞬間の世界のありようを前提にして、そのなかでいかに功利的に動くか、という問題意識に現代人の多くは囚われすぎているように思う。世界のありようについて、その是非を問わず、「そういうものだ」と割り切って自分を変えるというアプローチを、特にエリートと呼ばれる人は取りがちだ。そのようなアプローチの末に、めでたく高額の収入と他者からの尊敬を同時に勝ち取る人も多い。そして、そういう「勝ち組」と言われる人を見て、彼らがしたのと同じような努力を積み重ねようとする他者があらわれる。

しかし気をつけよう。世界のありようは常に昨日のそれとは異なる。かつての世界においてうまく機能した闘い方が、ある日突然まったく通用しなくなってしまうということがいつ起こるかも知れないのだ。近年での典型事例はリーマンショックであろう。2000年代、多くのビジネススクール卒業生は投資銀行の門をたたき、「バラ色の人生=La Vie en Rose」ともいうべき華々しいキャリアを築こうとした。しかし祝宴は唐突に終わりを告げ、世界の有りようは変化してしまった。変化する前の、いわば「旧世界のありよう」に最適化すべくスキルと知識を積み重ねてきた多くの人は、いわば「世界に裏切られ」て、野に放り出されてしまったのである。投資銀行というのはきわめて特殊な職業で、求められるノウハウやスキルの普遍性が低い。彼らの多くは、放り出された荒野から、ふたたび人生を歩み始めるための異なるスキルやノウハウを身につけることを強いられているが、これは実に過酷なことだと思う。

リーマンショックによって職にあぶれた投資銀行マンはほんの一例に過ぎない。歴史を振り返ってみれば、彼らのように、ほんの昨日までウフ〜んと世界が言い寄ってきたのに、いきなり袖にされた、という人物は数えきれない。世界というものは気まぐれに人を裏切るのである。だからこそ、我々は、七転八倒しながらも取っ組み合いをしている世界に振り回されないための、いわば「知的な足腰」を養わなければならない。世界のありように目を向けて自分のキャリアや立ち居振る舞いを設計するのではなく、世界のありようについて一応は部分的に適応しつつも、それを相対化しながらしたたかに立ち回って変革の機会を待つための「知的な足腰」が必要なのだ。そして、それはリベラルアートを学ぶことでしか身につけることができないと筆者は考えている。

■「コミュニケーションの武器」としてのリベラルアート
異なるバックグランドや価値観を持っている人と正確かつ効率的にコミュニケーションをするためには三つの素養が必須であると筆者は考えている。その三つとは英語、論理、リベラルアートである。英語と論理については説明の必要はないだろうが、リベラルアートについては疑問に思われる向きもあるかも知れない。しかし筆者は、ごく個人的な体験から、リベラルアートがコミュニケーションを円滑にするための武器になると信じている。典型的な例を示そう。下記の会話は、筆者がある組織改革プロジェクトを支援した際に、クライアント企業の状況についてロンドンの同僚とクライアントとのやりとりである。

コンサルタント         :彼はどういうタイプのリーダーですか?
クライアント            :彼かい?リア王だね
コンサルタント         :なるほど。ではエドマンドは?
クライアント            S氏だ
コンサルタント      :やっぱりそうですか・・・ではコーディリアは?
クライアント            :去年までいたN氏がそうだが、S氏に放逐された
コンサルタント         :ああ、では我々がコーディリアになる必要がありますね。
クライアント            :なるほど。それはそうだな・・             

上記の会話は言うまでもなく、ウィリアム・シェークスピアの戯曲「リア王」を題材にしている。読者諸兄のなかに「リア王」を読んだことがないという人はさすがにいないと思うが、念のため記せば、この戯曲において、老王リアは、腹黒い娘二人の意図を見抜けずに寵愛して国をゆずる一方で、真の愛からリアに苦言を呈するコーディリアを疎んじて追放してしまう。上記の会話はその人間模様を例えとして用いたものだが、リア王の筋書きをまったく知らないという人にとってはまったく意味不明だろう。これは語学力や論理的思考力の問題ではない。単純にリベラルアート=教養の問題である。欧州人にとってという前置きをブッ飛ばしても、知的産業に従事しているのであれば「リア王」くらいは読んでいて当然だ、という前提で世界中のエリートは議論を組み立ててくる。

恐らく遠く東洋から参加している筆者を値踏みする、という意味もあったのかもしれない。鼻持ちならないエリートのスノビズムだと感じる向きもあるだろう。しかしこれは立場を変えてみればよくわかる話なのだ。例えば、日本人であれば「あの二人の関係は、忠臣蔵の吉良上野介と浅野内匠頭のようだ」といえば、それだけで複雑な背景説明なしに状況の理解を共有することが可能だろう。この例え話をして「意味がわかりません」と言われれば、相手の学歴や職歴がどんなに立派でも「コイツ、そもそも人として大丈夫か?」と私などは思ってしまう。こういった人間関係や情景を、いちいち噛み砕いて説明していたら、それこそまだるっこしくてしょうがない。つまりリベラルアートとはコミュニケーション効率を一気に高める為の一種の圧力鍋として機能するということである。

グローバルなコミュニケーションが必要となる場で、「リア王」を知らないというのは、日本において仕事をする際に「忠臣蔵」のたとえを出されてもわからない、というくらいのコミュニケーションロスになる、ということだ。特に、聖書とシェークスピアを筆頭に、ドストエフスキーなどの世界文学は、それを読んでいるという前提で欧米のエリートはコミュニケーションをしてくる。一種のリトマス試験紙で、彼らとしては、ここでプロトコルが共有できないようであれば人間として信用しない、少なくとも自分と同じクラスの人間、仲間とは認めないということだ。

■「領域横断の武器」としてのリベラルアート
リベラルアートはまた、専門領域の分断化がすすむ原題社会のなかで、それらの領域をつないで全体性を回復させる為の武器ともなる。読者諸君にあたっては、下記の文章の「テクノロジー」と「科学」を「経営科学」と置き換えて読んでみてほしい。

テクノロジーはどうしても必然的に専門化を要請します。もし教養という概念を科学知識の専門化というものと対立的に考えれば、勝負は見えていると思う。それは教養の側の敗北でしかない。
しかし教養というものは、専門領域の間を動くときに、つまり境界をクロスオーバーするときに、自由で柔軟な運動、精神の運動を可能にします。専門化が進めば進むほど、専門の境界を超えて動くことのできる精神の能力が大切になってくる。その能力を与える唯一のものが、教養なのです。だからこそ科学的な知識と技術・教育が進めば進むほど、教養が必要になってくるわけです。
加藤周一「教養になにができるか」より

「専門領域を自由に温暖する為には教養=リベラルアートが必要だ」という加藤周一のこの指摘が、そのままリーダーにとって要件であることに気付いてほしい。領域の専門家で居つづければリーダーになることは出来ない。リーダーの仕事は、異なる専門領域のあいだを行き来し、その領域のなかでヤドカリのように閉じこもっている領域専門家を共通の目的のために駆動させることである。

仕事の場において、「自分はその道の専門家ではない」という引け目から、「なにか変だな」と思っているにも関わらず領域専門家に口出しすることを躊躇してしまうということは誰にでもあるだろう。しかし、専門領域について口出ししないという、このごく当たり前の遠慮が、世界全体の進歩を大きく阻害しているということを我々は決して忘れてはならない。東海道新幹線を開発する際、鉄道エンジニアが長いこと解決できなかった車台振動の問題を解決したのは、その道のシロウトであった航空エンジニアだった。このとき「自分は専門家ではないから」と遠慮して、解決策のアイデアを提案していなかったらどうなっていただろうか。世界の進歩の多くが、領域外のシロウトによるアイデアによってなされている。米国の科学史家でパラダイムシフトという言葉の生みの親になったトーマス・クーンはその著書「科学革命の構造」のなかで、パラダイムシフトは多くの場合「その領域に入って日が浅いか、あるいはとても若いか」のどちらかであると指摘している。そして加藤周一の指摘するとおり、領域を横断して、必ずしも該博な知識がない問題についても、全体性の観点に立って考えるべきことを考え、言うべきことを言う為の武器としてリベラルアートは必須のものと言える。

■「世界を変える武器」としてのリベラルアート
二十世紀前半に活躍したドイツの哲学者ハイデガーは「世界劇場」という概念を通じて、現存在=我々の本質と、我々が社会において果たしている役柄は異なっていると考えた。舞台で演じる役柄のことを心理学ではペルソナという。ペルソナというのはもともと仮面という意味だ。実際の自分とは異なる仮面を身につけて、与えられた役柄を演じる。英語では人格のことを「personality」というが、この言葉はもともとペルソナからきている。そして、すべての人は世界劇場において役割を演ずるために世界に投げ出されることになる。これをハイデガーは「企投」とよんだ。そして企投された人々が、世界劇場における役柄に埋没していくことを耽落=Verfallenと名付けた。

ここで問題になってくるのは「原存在と役柄の区別」だ。多くの人は、世界劇場で役柄を演じている耽落した自分と、本来の自分を区別することができない。いい役柄をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「いいもの」と考え、ショボい端役をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「ショボいもの」と考えてしまう。そして、当たり前のことながら主役級の役柄をもらっている人はごく少数に過ぎない。多くの人はショボい端役を与えられた大根役者として世界劇場の舞台に立つことになり、役柄を演じるのに四苦八苦している一方で、役になりきって高らかに歌い踊る主役級の人々を喝采しつつも、陰で「ああはなりたくはないよね」という態度を取ってしまったりする。

この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は世界に一人もいない。つまり世界劇場ということでいえば、この劇の脚本は全然ダメなのだ。従って、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけだが、ここで浮上してくるのが「誰がその脚本を書き換えるのか」という論点だ。

テレビドラマの制作を考えてみればわかりやすいだろう。脚本の修正に口を出せるのは橋田壽賀子クラスの大物脚本家か監督、それに泉ピン子クラスの大物俳優だけだ。しかし、少し考えてみればわかることだが、まず、この社会に適応している人、つまり花形役者には脚本を変更するインセンティブがない。彼らは、いわば世界劇場における「脚本の歪み」ゆえにさまざまな利益を享受しているわけで、脚本の「歪み」を是正するインセンティブがない。これは監督や脚本家についても同様で、世界の脚本を作っている立場にある人はやはり同様にそれを改変するインセンティブを持たないのだ。これはつまり、いまの世界劇場に完全には適応できていない人、端役を押し付けられた大根役者こそが変革者になりうるということを意味している。

大根役者が、大根役者である自分に失望せず、この世界の中に居残りながら決して耽落もせず、いかに内部から世界をよりよい世界に変えていけるか・・・これが最大の課題である。

そして、今現在の脚本を離れて、新しい世界の脚本を描くのに必要な技術がまさにリベラルアートなのである。現在の脚本が歪んだものである以上、この歪んだ脚本を前提にして書かれている「よりよい役柄を生きる」技術、つまりそれは殆どの経営学やキャリア論のことだが、これらはまったく役に立たないだろう。新しい世界の脚本を構想するには、より本質的で普遍的な大地を立脚点にしなければならない。

そういえば、キューバ建国の英雄であるエルネスト・チェ・ゲバラは大変な読書好きで、彼がコンゴのジャングルから家に居る妻に本を送ってくれる様にお願いした手紙が残っているのだが、このリストがスゴい。

    • ピンダロス「祝勝歌集」
    • アイスキュロス「悲劇」
    • ソフォクレス「ドラマと悲劇」
    • エウリピデス「ドラマと悲劇」
    • アリストファネスのコメディ全巻
    • ヘロドトス「歴史」の7冊の新しい本
    • クセノフォン「ギリシア史」
    • デモステネス「政治演説」
    • プラトン「対話編」
    • プラトン「国家」
    • アリストテレス「政治学」(これは特に)
    • プルタルコス「英雄伝」
    • セルバンテス「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
    • ラシーヌ「演劇」全巻
    • ダンテ「神曲」
    • アリオスト「狂えるオルランド」
    • ゲーテ「ファウスト」
    • シェイクスピアの全集
    • 解析幾何学の演習(サンクチュアリ*のもの) 
         *ゲバラは自分の書斎をサンクチュアリと呼んでいた由

要するに全て古典である。新しい国を人工的に作る、という歴史上嘗てない営みに手を染めつつある人が、そのための参考書として選んだのが、近代市民国家成立以降の啓蒙書ではなく、一番新しいものでも数百年、多くが千年以上前のローマ時代からギリシア時代に書かれた書籍であったことは、同様に将来を見通すことが難しい時代に生きている僕らに対して一つの教訓を示してくれている様に思われないだろうか。

■どうせ買うなら長持ちする武器
ここまで主に五つの観点から、現代に生きる我々にとってのリベラルアートの功利的な側面について述べてきた。中には納得し難いもの、違和感を覚えるものもあるだろう。しかし、経営学をはじめとした世知辛い学問の多くがせいぜい数十年の歴史しかもたないのに対して、リベラルアートは既に数百年、科目によっては数千年という時間のヤスリにかけられて残っていることを想い出してほしい。


誰でも、武器を買うときは丈夫で長持ちするものにしたいと思うであろう。そういう意味で、リベラルアートというのは、もっとも長く使うことが出来る「知の武器」だと言える。これまで、あまり慣れ親しむ機会がなかった人にも、今後は是非積極的にリベラルアートに親しみ、そこから矛盾に満ちた世界を変える為の武器を手に入れてほしいというのが筆者の願いである。