Sunday, May 29, 2016

若い時の無目的な勉強こそ底力になる、という話

以前からずっと思っていたことなのですが、どこかで書いておかないと忘れちゃうなと思っていたので、備忘録代わりに。

結論から先に言えば「無目的なインプットをやってこなかった人は、肝心カナメの時期にアウトプットできなくなる」という話です。どうしてそうおいうことになるのか、順に説明しましょう。

まず、いわゆる「勉強」について、ここでおそるべき一つの法則を提案したいと思います。それは「アウトプット=インプットの法則」です。一体どんな法則なのかというと「人生全体で見てみれば、アウトプットの量とインプットの量は同じである」ということです。アウトプットする人はインプットしているし、インプットしていない人は、どこかで枯れる」ということで、実にシンプルな法則。

実名を挙げるのはさすがに憚られるので、ここでは差し控えますが、一時期にベストセラーを連発して飛ぶ鳥を落とすような勢いだったのに、ぱったりとアウトプットが出なくなってしまうような人がいる一方で、頭の中はどうなっているのか?と思われるほどに、ノベツマクナシに本を出し続けられる人がいますよね。例えば明治大学教授の斎藤孝先生は年間で20〜30冊という驚異的なペースで執筆し続けておられます。

で、両者のキャリアや経歴を比較してみて気づくのですが、アウトプットし続けられる人は、人生のどこかでインプットし続けている、ということです。例えば斎藤孝先生の例で言えば、大学院修士時代から博士課程を終えた後、いわゆるポスドクの時期まで、ひたすらにインプットしまくっている時期がある。これは例えば内田樹先生にしても同様で、継続的に質の高いアウトプットを出し続けている人に共通しているのは、人生のどこかでひたすらにインプットし続けている時期があるということです。

この事実はどういう示唆を私たちに与えてくれるのか?と考えてみると、よく言われる「インプットはアウトプットが必要になった時にすればいい」「アウトプットの目安が立っていないインプットは非効率」という意見は、実は非常にミスリーディングで、逆に言えば、無目的に興味の赴くままに、ひたすらにインプットする時期がないと、長い期間にわたって継続するような、真に強力でユニークな知的生産力は身につけられない、ということです。

どうしてこういうことになるのか?これを経済学的に考えてみれば機会費用の問題」として整理できます。

例えばアウトプットが一時的にウケて、次々と仕事が舞い込んだとしましょう。そういう状況でインプットのために勉強するのは、機会費用が大きい。だって持っている時間を執筆や講演に使えば、それがお金になるのに、インプットのための勉強は、それ自体ではお金を生み出しませんからね。つまり、実際にアウトプットが求められる段階になってからインプットの勉強をするというのは、非常に機会費用が大きいわけです。

では、機会費用を小さくするにはどうすればいいか?答えはひとつしかありません。まだ誰からも「本を書いて欲しい」「アドバイスをして欲しい」「手伝って欲しい」と言われていない時期、時間が腐るほどあるという時期、そういう時期に思いっきりインプットをする。これしかありません。


これが世の中で「よく言われる勉強法」のアンチテーゼになっていることに気づきましたか?一般に、ビジネスパーソンの勉強法に関しては「いずれ必要になったら、その時に必要な勉強をすればいい」というものです。こういう意見を言う人は多いし、合理的にも聞こえます。しかしこれは、やっぱりダメだろうと思うのですよ。

「インプットが必要になった時」というのは、もう「舞台に立て」と言われているわけですから、そこで勉強をしているようでは、どうしても付け焼刃的な知識の表面的なインプットにならざるをえない。結局、どこかで聞いたような話を、自分のユニークな体験を交えて語るという、よくあるビジネス本のスタイルにならざるを得ないわけで、その人ならではのユニークな切り口とか、あるいは他のジャンルの知見と組み合わせたユニークなソリューションというのは、どうしても出てきにくいということになります。

人生において、他者からアウトプットを求められていない時期、インプットのための機会費用の小さい時期にしか、大量かつ無節操なインプットはできません。そしていざ、他者からアウトプットを求められる時期になって、その人らしいユニークな知的アウトプットを生み出せるかどうかは、この無節操なインプットの蓄積によると考えれば、若い時の無目的で無節操な勉強こそ、継続的に知的生産力を維持するために重要だ、ということになるんじゃないか、と。

Sunday, May 1, 2016

教養主義という逃避

ここ数年、ビジネスパーソンの間で「教養」というブームが起きています。私自身は学部も大学院も出身が哲学科ですから、いわゆるリベラルアーツがどれほど知的生産の現場においてパワフルな武器になるかということを身にしみて理解していつるもりですから、このブームに対しては「ま、別にいいんじゃないの?」と思っていたのですが、実際にそういうブームの波に思いっきり乗っている数人の人と直接に話す機会があった後、これはもしかしたら一種の逃避なんじゃないかと思うようになっています。

わかりやすく考えてもらうために、こういう図をイメージしてください。縦軸は「仕事ができる・できない」、横軸が「教養がある・ない」というマトリックスです。この中で一番望ましいのは、もちろん「仕事ができて教養もある」というマトリックスでしょうが、まあこういう人はめったに出てこないわけですし、出てきてもどうせ勝てないので問題にもならない。

逆に問題になるのが「仕事はできるけど教養はない」と「教養はあるけど仕事はできない」というマトリックスです。このうちのどちらが上位なのか、という問いに対する答えは人それぞれでしょうが、このまさに「人それぞれ」であるところに、教養主義へと逃避する人が勝機を見ていると思うのです。

単純に「仕事ができる人」と「仕事ができない人」を比べると、後者をより好ましいと思う人はあまりいないと思います。では、後者に位置付けられる人が、そのコンプレックスを埋め合わせられるような別の評価軸がないだろうかと考えてみると、「教養」というのはとてもパワフルな競争軸として浮かびあがる。なぜかというと「仕事ができる人」は大概の場合、非常に忙しいので分厚い古典文学や難解な哲学書なんか読んでいる暇がないからです。これはつまり、「仕事」と「教養」がトレードオフになっている、もっと直截に言えば「教養」というのは多くの「仕事ができる人」にとって急所だということです。

「○○さんって、優秀ですよね」
「ああ、そうだね。でも教養ないでしょ、あの人」

と言えればどんなに気持ちいか、と思う人の気持ちはわからないでもありません。「仕事ができない」というのは現代社会では死刑宣告みたいなもので、そのために社内でも社会でもこれまで脚光をあびることのなかった人が、自分なりに「別の死刑宣告」をするために異なる競争の枠組みを設定して自己満足に浸ることができる。これが、教養主義が過剰にはびこりつつある理由ではないかと思うのです。

一方で、この現象を「教養主義を煽る人たち」の側から考察してみるとどうか。実名を上げることは差し控えますが、「教養が大事だ」と煽る人たちを何人か並べてみると、評論家や大学教員がほとんどで、ビジネスの現場に身を置いている人がほとんどいないことに気づくはずです。ビジネスの現場に身を置いていない彼らが市場の大きいビジネスパーソン向けの書籍市場で何事かをアピールしようと思えば「教養」はとても便利な切り口なわけです。結果として、ビジネスの現場に身を置いていない人が「ビジネスの世界で成功するためには教養が大事」と主張し、その主張に対して当のビジネスパーソンが思いっきり踊っているという、実に奇妙な状況が発生しているわけです。

これは競争戦略の枠組みで考えてみても一見合理的です。競争の序列が固定化している市場でむやみに上位を目指して努力するのは企業体力を消耗してしまうことが多く、競争軸を変える方が有効な場合が多い。例えば紙オムツの市場では「漏れない」という評価軸で市場の序列が確定してしまった後に、「蒸れない」という競争軸が新たに設定されて市場の多様性は増加し、シェアの寡占度は低下しました。

そのように考えていくと、「仕事ができない」人たちが、自分のポジショニングを変えるために「教養主義」に突っ走るのは、一見するととても合理的に思えるかも知れませんが、しかし実は全く合理的ではありません。

なぜかというと教養を頭でっかちに蓄えるだけでは、全く人生の豊かさは増えない、むしろ偏屈で扱いにくい人間になっていくだけだからです。前漢時代の歴史家である司馬遷は、その著書「史記列伝」の中で「知ることが難しいのではない。いかにその知っていることに身を処するかが難しいのだ」と指摘しています。世の中には「知っていること」自体を一種のファッションのようにひけらかして悦に入っているみっともない人が溢れていますが、そのような人たちの心や人生の貧しさを思わざるをえません。

「教養」を身につけることで自分は何を何を得ようとしているのか?もしかしたら単なるコンプレックスの埋め合わせをしようとしているのではないか?ということを考えることが必要です。安易な教養主義への逃避は、ますます自分の人生を貧しいものにする可能性があるということをゆめゆめ忘れてはなりません。

最後に、「本当のアーティストは出荷する」という言葉を残したのはスティーブ・ジョブズですが、けだし名言だと思います。この言葉の顰にならえば「本当の教養者は、人生を成功させる」ということになるでしょうか。「あの人、売上数字はすごいけど、キルケゴールも知らないんだぜ?」とほざく教養主義者には、「ふーん・・・そういう君はキルケゴールを読んでいて売上すら達成できないのか?」と返したい。幸せになるには仕事の出来不出来より教養こそがが大事だよ、なんていうのは全くお為ごかしで、それこそ「知っていることに身を処せていない」典型でしょう。

ふううう、砂浜でのんびりするのにアイデア思いつくかもしれないと思ってMacBook Air持ってきたんだけど、思いっきり書いてしまった。それでは、チャオ!