「自分らしさ」の罠

「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉がありますよね。

これは「歌は世のなりゆきにつれて変化し、世のありさまも歌の流行に左右される」といった意味だけれども、では近年のヒット曲の歌詞を並べてみると、そこにどのような「世」が炙り出されてくるのか。

一つ明確な傾向として指摘したいのが、ここ数年の「自分らしさ」を称揚する歌の台頭です。例えば「自分らしく」、「僕らしく」、「君らしく」という言葉で歌詞検索をかけてみると、該当するのは平成に入ってからの歌が殆どで、昭和の歌は全く出てこないことに気づきます。

加えて「自分らしさ」や「自分らしく」といった「そのものズバリ」の言葉は含んではいないものの、例えばSMAPの「世界に一つだけの花」の様に、歌詞全体として「自分らしさ」を称揚している歌まで含めれば、相当量の歌が「自分らしさ」、「君らしさ」を大事にしようと訴えていると考えられます。

「歌は世につれ、世は歌につれ」ると考えれば、「自分らしさを大事にしよう」と訴える歌の大量発生は、一体どういう「世」なのでしょうか。

ピンクレディの歌詞の全てを手がけ、また「スター誕生」で実質的なアイドルプロデューサーの役割を果たした昭和を代表する作詞家=阿久悠は、平成の歌について

あなたと私以外に世界を持たない。向かい合っている相手だけを見ているのか知らないけど、歌の中に景色がまったくない。(中略)その結果、今年の歌も去年の歌も一昨年の歌も、結局どこかで聞いた同じ様なことを歌っている

と指摘しています 。「星の王子様」の作者でパイロットでもあったサン・テクジュペリは「愛するとは、お互いを見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見ることだ」と言っていたけれども、阿久悠は、日本の歌がお互いを見つめ合うことしか語らなくなってしまった、と指摘しているわけです。

自分らしさを安易に称揚する歌謡曲の氾濫は、我々が「過大な自己愛の時代」を生きつつあることを示しています。かつての全共闘は「自己否定せよ」と叫びましたが、これらの歌が訴えているのは「自己肯定せよ」ということで、そのためにまず「僕が君を肯定するよ」と言っているわけです。

新約聖書では、イエス・キリストは神の名のもとに娼婦や皮膚病患者等の、当時のユダヤ教社会において排斥されていた多くの弱者を肯定しますが、現代の歌手やアーティストはいわば現代のキリストとして、多くの人に「あなたはかけがえが無い、あなたは肯定される」と訴えているわけです。

ナンバー1とオンリー1という対比の構造で考えみた場合、ナンバー1を目指すには今の自分を部分的には否定しながらより高い目標へと自己を駆りたてていかなければなりませんが、オンリー1であればそうした自己否定を経ずに安易に自己充足することが可能です。

オンリー1という言葉は、競争の序列から離れた個人が、それでもなお内在的に価値を有していることを主張しているのでしょうが、実際には「世界に一つだけしか無い」ということはそのまま価値を持っていることを意味しません。

足元に転がっている石コロでも全く同じ形のものは世界に二つとないわけで「世界に一つだけのオンリー1なんです」と言われても、価値判断をする側としては「だから?」としか応えられない。つまり、これらのレトリックは、ナイーブな人たちを慰める一種の「まやかし」でしかないということです。

ここで問題になってくるのが、いわゆる「自分探し」の問題です。最近の若い人を見ていて危なっかしいなと思うのは、過剰な自己愛の時代を生きてきたために、多少でも「自分らしくない」と思える事態に向き合うとすぐにそこから逃げてしまうという傾向があることです。

しかし、オンリー1であることをSMAPが肯定してくれても、実生活の上で他者が肯定してくれるかどうかはまた別の問題です。20代から30代前半といった時期に「自分らしさ」を追い求めて自己肯定しようとする度合いが高ければ高いほど、後になって自己否定せざるを得ない状況に追い込まれてしまう可能性が高い。

であれば逆に若いときは不自由さ、自分らしくないことにも「ある程度」は耐える、ということも必要なのではないか、と私は考えているんですけどね。

「一万時間の法則」に振り回されないために

10月に出す新著で、かなりの紙幅を割いて「努力は報われるのか」という論点について考察しています。結論については本をお読みいただきたいのですが、ここでは、よく言われる「一万時間の法則」について、紙幅の関係で本には書ききれなかった内容を紹介したいと思います。

「努力は報われる」と無邪気に主張する人たちがよく持ち出してくる根拠の一つに「一万時間の法則」というものがあります。「一万時間の法則」とは、米国の著述家であるマルコム・グラドウェルが、著書「天才!成功する人々の法則」の中で提唱した法則で、平たく言えば、大きな成功を収めた音楽家やスポーツ選手はみんな一万時間という気の遠くなるような時間をトレーニングに費やしているというものです。

この指摘自体は当たり前すぎて、「はあ、それはまあそうでしょうね」と反応するしかないのですが、重要なのは、グラッドウェルが「一万時間よりも短い時間で世界レベルに達した人はいないし、一万時間をトレーニングに費やして世界レベルになれなかった人もいない」と主張している点です。

これはつまり「何かの世界で一流になりたければ、一万時間のトレーニングをしてごらんなさい。そうすれば、あなたは必ず一流になれますよ」という、もし本当であれば相当にトンデモナイことを法則として提案しているわけです。

ところが、これだけ大胆な法則を提案しているにもかかわらず、同書の中に示されている法則の論拠は、一部のバイオリニスト集団、ビル・ゲイツ氏(プログラミングに一万時間熱中した)、そしてビートルズ(デビュー前にステージで一万時間演奏した)についてはこの法則が観測されたというだけで、論拠は非常に脆弱で、率直に言えば考察が乱暴なんです。

ちなみにこういった「乱暴さ」は、「才能より努力だ」と主張する多くの本に共通していて、例えばデイビッド・シェンクによる「天才を考察する」では、「生まれついての天才」の代表格であるウォルフガング・モーツァルトが、実際は幼少期から集中的なトレーニング=努力を積み重ねていたという事実を論拠として挙げて、やはり「才能より努力だよね」と結んでいるのですが、これはよくある論理展開の初歩的なミスで、実は全く命題の証明になっていません。

「才能より努力」を証明したければ、「モーツァルトがものすごく努力していた」という事実はどうでもよく、逆に「モーツァルトと同じような努力をして世界的な音楽家になれなかった人は歴史上一人もいない」ということを証明しなければなりませんが、過去に遡及して「ない」ことを証明することは非常に困難であり、この命題は証明不可能です。

同じような間違いは、あちらこちらにあって、最近話題になったフロリダ州立大学心理学部教授のアンダース・エリクソンによる「超一流になるのは才能か努力か?」でも、同じようにモーツァルトはこんなに訓練を受けていた、だから天才は訓練によって生み出すことができるのだという、同様のミスを犯しています。

まず、真の命題は次のようになります。

天才モーツァルトは努力していた

この命題に対して、逆の命題、つまり

努力すればモーツァルトのような天才になれる

を真としてしまうという、よくある「逆の命題」の間違いです。

正しくは

天才モーツァルトは努力していた

という真の命題によって導出されるのは、対偶となる別の命題、つまり

努力なしにはモーツァルトのような天才にはなれない

で、「努力すればモーツァルトのような天才になれる」という命題は導けません。

シェンクもエリクソンもアカデミックキャリアを築いてきた人なので、おそらくそれなりに論理のトレーニングは受けてきていると思うのですが、こんな幼稚で初歩的なミスを主著で堂々と展開しているわけで、これはかなり痛々しい。誰か編集者が指摘しなかったのかしら。

彼らのように成熟した思考力を持つ人々が、このように初歩的な論理展開のミスをする原因は痛々しいまでにはっきりしています。それは、彼らにとって「努力は報われる」というのは、科学的検証によって導き出された命題ではなく、一つの信条であり世界観、つまり「そうであって欲しいの」ということです。だったら最初からそう言えばいいのにねえ、下手に証明などしようとするから墓穴を掘ってしまうんです。

さて、話をグラッドウェルの主張に戻してさらに進めてみましょうか。

「一万時間を費やして世界レベルになれなかった人はいない」とグラッドウェルが主張する論拠は、調査対象となったバイオリニスト集団においてだけ言えることで、他の集団や個人についてもそれが成立するかどうかはわかりません。では他の集団や個人も調査すれば、この仮説が証明されるかというと、それは難しいでしょう。先述したとおり、過去に遡及して「ない」ことを証明するのはとても難しいからです。

普通に考えれば、バイオリニストの集団で、一万時間の法則が観察されたのは理解できなくもありません。それはバイオリンの演奏が非常にフィジカルな行為で、創造性や論理性などの思考に関連する要素がほとんど入らないからです。

楽器演奏というのは、やったことがある人はわかると思いますが、初心者に型を教えて、その型にどんどん自分を合わせていくということをします。これはバイオリンでもピアノでもトランペットでも同じで、このように「決まった型をフィジカルに習得していく」というような種類の競技や職業であれば、一万時間の法則は成立する可能性があります。

ところが、私たちのほとんどは、フィジカルな要素がほとんどない職業についているわけで、そのような職業において、単に一万時間を修練のために投入しても、それで花開くかどうかは「センスのあるなし、才能のあるなし」によるでしょう。

と、ここまでは私の直感なのですが、実際のところどうなんだろうと思って調べてみたら、やはりありました。プリンストン大学のマクナマラ准教授他のグループは「自覚的訓練」に関する88件の研究についてメタ分析を行い、「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」という、素直に考えれば誰でも思い至るであろう結論を、一応は科学的に論証しました[1]

同論文は、各分野について「練習量の多少によってパフォーマンスの差を説明できる度合い」を紹介しています。

            • テレビゲーム:26
            • 楽器:21
            • スポーツ:18
            • 教育:4
            • 知的専門職:1%以下

思った通り、楽器に関しては、練習が上達に与える影響度は、相対的に他の職業や種目に比較して高いですね。テレビゲームの数値が高いのも、多くの人にとっては感覚的に納得できると思います。テレビゲームはそもそも「間口は広く、奥行きを深く」するのが大事で、わかりやすく言えば「誰でも時間をかければ上達する」ように設計されています。

難しすぎて、時間をかけてやり込んでも全然上達しない、あるいは簡単すぎてサクサクとクリアできてしまうというゲームは、ゲームバランスの悪い「クソゲー」とされ、市場で評価されません。市場で評価されるゲームは、適度な負荷と難易度があり、挑戦する楽しさと一定量の時間でそれを超克する楽しさの両方をバランスさせているのです。

現在の日本では、相当数の人が現実世界の競争で勝者になることを諦めてしまい、ゲームの世界に耽溺することでウサ晴らしをしていますが、その理由は、現実世界では必ずしもそうではない「練習すればするだけ、上手になっていく」という成長実感が、ゲームの世界ではちゃんと得られるからなのかもしれません。

さて、ここで注目したいのが専門職の1%以下という数字です。これは端的に言えば、ある知的専門職において個人が成功するかしないかは「努力の多寡」はほとんど関係なく、それ以外の要素で決まってしまうということです。本論文は端的に「自覚的訓練が重要でないとは言えないが、これまでに議論されてきたほどには重要ではない」と控えめに結んでいますが、1%以下という数字を見れば、もう結論は出ているようなものです。

この数字を見ればグラッドウェル氏の主張する「一万時間の法則」が、いかに人をミスリードするタチの悪い主張かということがよくわかります。「努力は報われる」という主張には一種の世界観が反映されていて非常に美しく響きます。しかしそれは願望でしかなく、現実の世界はそうではないということを直視しなければ、「自分の人生」を有意義に豊かに生きることは難しいでしょう。



[1] Brooke N. Macnamara(Princeton University), David Z. Hambrick(Michigan State University), and Frederick L. Oswald(Rice University), [Deliberate Practice and Performance in Music, Games, Sports, Education, and Professions: A Meta-Analysis[], Association for Psychological Science 2012.

武器としてのリベラルアート

この論考を通じて筆者がお伝えしたい主張は以下の通りである。

現代をしたたかに生きていこうとするのであれば、リベラルアートほど強力な武器はない。
特にビジネスにたずさわる立場にあるのであれば、リベラルアートを学ぶことは、恐らく人生においてもっとも費用対効果の高い投資になるであろう。

以下に、上記の論拠について想いのたけを述べたい。

■「イノベーションを起こす武器」としてのリベラルアート
まず読者のみなさんに一つ質問をしたい。その質問とは「金利はなぜプラスなのか?」というものだ。恐らく、多くの読者はこの質問に対する明確に答えをもっていないだろう。しかし、それは読者諸兄にかぎったことではない。筆者をふくめ、現代に生きる我々のほとんどは無条件に「金利はプラスである」と信じて疑っていない。ところが、これは現代の、それも西欧社会に生きている我々だけのあいだに通用する常識であって、歴史を振り返れば、あるいは地域を変えてみれば、それが一時的かつ局所的な常識であることがすぐにわかる。

例えば、中世ヨーロッパや古代エジプトではマイナス金利の経済システムが採用されていた。マイナス金利ということはつまり、銀行にお金を預けるとどんどん価値が目減りしてしまうということを意味している。従って、こういう社会では現金を持ち続けていることは損になるわけで、当然のことながら、現金は入ってくると同時になるべく他のものと交換しようという誘因が働く。

では、どのようなものとかえるのが良いか。食べ物か?いや、食べ物は難しい。人間は、いわゆる食いだめが出来ない。したがって食べ物に変えても一度に食べられる量には限りがあるため、保存が必要になる。しかし当時は冷蔵庫もない時代で保存できる量にはおのずと限りがある。ではモノにするか?モノならなにがいいだろうか?こうやって考えていくと、やがて誰もが同じ結論に至ることになる。そう、長いこと富を生み出す施設やインフラにお金を使おうという結論だ。この意思決定に則ってすすめられたのがナイル川の灌漑事業であり、中世ヨーロッパでの大聖堂の建築である。この投資が、前者は肥沃なナイル川一帯の耕作につながってエジプト文明の発展を支え、後者は世界中からの巡礼者をあつめて欧州全体の経済活性化や道路インフラの整備につながっていった。

リベラルアートを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいるが、これはとてももったいない。リベラルアートのリベラルとは自由という意味であり、アートとは技術のことである。従ってリベラルアートとは、自由のための技術、ということになる。では、ここでいう自由とはなんのことか?もともとの語源は新約聖書のヨハネ福音書の第831節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ている。「真理」とは読んで字の通り、「真の理(=ことわり)」である。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ことわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、といっているのである。その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それは例えば「金利はプラスである」という思い込みのようなものだ。つまり、目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う」ための技術がリベラルアートの真髄ということになる。

これがなぜビジネス世界を生き抜くための功利的な武器となりうるのだろうか?答えは「なぜならイノベーションには“相対化”が不可欠だから」ということになるだろう。過去のイノベーションを並べてみると、そこに何らかのかたちで、それまでに当り前だと思っていた前提や枠組みが取り払われて成り立っていることに気づく。

パソコンの販売では店頭シェアがカギだ、という前提が支配する中で、その前提にこだわって破綻したコンパックと、その前提から離れてダイレクト販売というモデルを確立して業界を支配したデル。

モノを一番早く運ぶのは最短経路だ、という前提が支配する中で、その前提にこだわって消えていった多くの零細運送事業者と、ハブ&スポークという物流システムを確立して成長したFEDEX

パソコンには入力機器と記録媒体が必要だ、という前提にこだわって価格競争の泥沼で苦しんでいる多くのPCメーカーと、その前提から離れてiPadを開発したアップル。

イノベーションというのは常に「それまでは当たり前だと思っていたことが、ある瞬間から当たりまえでなくなる」という側面を含んでいる。つまりイノベーターには「当たり前」を疑うスキルが必要なのである。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセンは、著書「イノベーションのDNA」のなかで、イノベーターに共通する特徴として、誰もが当たり前だと思っていることについて「Why?」を投げかけることが出来る能力がある、という点を挙げている。たしかに、数多くのイノベーションを主導したアップルの創業者スティーブ・ジョブズは、いつもこのWhy?という疑問を周囲のスタッフに投げかけていたことで知られている。その彼が、常々アップルを、テクノロジーとリベラルアートの交差点に位置する会社にしたい、と語っていたのは偶然ではないだろう。リベラルアートというのは相対化の技術であり、相対化することによって初めてひとは、誰もが常識だと思っている世界のありようについて、なぜそうなのか?なぜ他のやり方ではないのか?という問いを持てる、ということだ。

一方で、すべての「当たり前」を疑っていたら日常生活は成り立たない。どうして朝になると自然に目が醒めるのだろう、どうして人間は昼間に働き、夜に休むようになったのだろう・・・いちいちこんなことを考えていたら哲学者にはなれるかも知れないが、サラリーマンとしては破綻してしまうだろう。ここに、よく言われる「常識を疑え」という陳腐なメッセージのアサハカさがある。常識を疑うのはとてもコストがかかるのだ。一方で、イノベーションを駆動するには「常識への疑問」がどうしても必要になる。ここにパラドクスがある。

結論からいえば、このパラドクスを解くカギは一つしかない。つまり、重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度ではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼なのだということだ。そしてこの選球眼を与えてくれるのがまさにリベラルアートなのである。リベラルアートというレンズを通して目の前の世界を眺めることで、世界を相対化し、普遍性がより低いところを浮き上がらせる。スティーブ・ジョブズは、カリグラフィーの美しさを知っていたからこそ「なぜ、コンピューターフォントはこんなにも醜いのか?」という問いを持つことができた。チェ・ゲバラはプラトンが示す理想国家を知っていたからこそ「なぜキューバの状況はこれほどまでに悲惨なのか」という問いを持つことができた。目の前の世界を、「そういうものだ」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化する。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、リベラルアートはそれを映し出すレンズとしてもっともシャープな解像度をもっているというのが筆者の意見である。

■「キャリアを守る武器」としてのリベラルアート
いまこの瞬間の世界のありようを前提にして、そのなかでいかに功利的に動くか、という問題意識に現代人の多くは囚われすぎているように思う。世界のありようについて、その是非を問わず、「そういうものだ」と割り切って自分を変えるというアプローチを、特にエリートと呼ばれる人は取りがちだ。そのようなアプローチの末に、めでたく高額の収入と他者からの尊敬を同時に勝ち取る人も多い。そして、そういう「勝ち組」と言われる人を見て、彼らがしたのと同じような努力を積み重ねようとする他者があらわれる。

しかし気をつけよう。世界のありようは常に昨日のそれとは異なる。かつての世界においてうまく機能した闘い方が、ある日突然まったく通用しなくなってしまうということがいつ起こるかも知れないのだ。近年での典型事例はリーマンショックであろう。2000年代、多くのビジネススクール卒業生は投資銀行の門をたたき、「バラ色の人生=La Vie en Rose」ともいうべき華々しいキャリアを築こうとした。しかし祝宴は唐突に終わりを告げ、世界の有りようは変化してしまった。変化する前の、いわば「旧世界のありよう」に最適化すべくスキルと知識を積み重ねてきた多くの人は、いわば「世界に裏切られ」て、野に放り出されてしまったのである。投資銀行というのはきわめて特殊な職業で、求められるノウハウやスキルの普遍性が低い。彼らの多くは、放り出された荒野から、ふたたび人生を歩み始めるための異なるスキルやノウハウを身につけることを強いられているが、これは実に過酷なことだと思う。

リーマンショックによって職にあぶれた投資銀行マンはほんの一例に過ぎない。歴史を振り返ってみれば、彼らのように、ほんの昨日までウフ〜んと世界が言い寄ってきたのに、いきなり袖にされた、という人物は数えきれない。世界というものは気まぐれに人を裏切るのである。だからこそ、我々は、七転八倒しながらも取っ組み合いをしている世界に振り回されないための、いわば「知的な足腰」を養わなければならない。世界のありように目を向けて自分のキャリアや立ち居振る舞いを設計するのではなく、世界のありようについて一応は部分的に適応しつつも、それを相対化しながらしたたかに立ち回って変革の機会を待つための「知的な足腰」が必要なのだ。そして、それはリベラルアートを学ぶことでしか身につけることができないと筆者は考えている。

■「コミュニケーションの武器」としてのリベラルアート
異なるバックグランドや価値観を持っている人と正確かつ効率的にコミュニケーションをするためには三つの素養が必須であると筆者は考えている。その三つとは英語、論理、リベラルアートである。英語と論理については説明の必要はないだろうが、リベラルアートについては疑問に思われる向きもあるかも知れない。しかし筆者は、ごく個人的な体験から、リベラルアートがコミュニケーションを円滑にするための武器になると信じている。典型的な例を示そう。下記の会話は、筆者がある組織改革プロジェクトを支援した際に、クライアント企業の状況についてロンドンの同僚とクライアントとのやりとりである。

コンサルタント         :彼はどういうタイプのリーダーですか?
クライアント            :彼かい?リア王だね
コンサルタント         :なるほど。ではエドマンドは?
クライアント            S氏だ
コンサルタント      :やっぱりそうですか・・・ではコーディリアは?
クライアント            :去年までいたN氏がそうだが、S氏に放逐された
コンサルタント         :ああ、では我々がコーディリアになる必要がありますね。
クライアント            :なるほど。それはそうだな・・             

上記の会話は言うまでもなく、ウィリアム・シェークスピアの戯曲「リア王」を題材にしている。読者諸兄のなかに「リア王」を読んだことがないという人はさすがにいないと思うが、念のため記せば、この戯曲において、老王リアは、腹黒い娘二人の意図を見抜けずに寵愛して国をゆずる一方で、真の愛からリアに苦言を呈するコーディリアを疎んじて追放してしまう。上記の会話はその人間模様を例えとして用いたものだが、リア王の筋書きをまったく知らないという人にとってはまったく意味不明だろう。これは語学力や論理的思考力の問題ではない。単純にリベラルアート=教養の問題である。欧州人にとってという前置きをブッ飛ばしても、知的産業に従事しているのであれば「リア王」くらいは読んでいて当然だ、という前提で世界中のエリートは議論を組み立ててくる。

恐らく遠く東洋から参加している筆者を値踏みする、という意味もあったのかもしれない。鼻持ちならないエリートのスノビズムだと感じる向きもあるだろう。しかしこれは立場を変えてみればよくわかる話なのだ。例えば、日本人であれば「あの二人の関係は、忠臣蔵の吉良上野介と浅野内匠頭のようだ」といえば、それだけで複雑な背景説明なしに状況の理解を共有することが可能だろう。この例え話をして「意味がわかりません」と言われれば、相手の学歴や職歴がどんなに立派でも「コイツ、そもそも人として大丈夫か?」と私などは思ってしまう。こういった人間関係や情景を、いちいち噛み砕いて説明していたら、それこそまだるっこしくてしょうがない。つまりリベラルアートとはコミュニケーション効率を一気に高める為の一種の圧力鍋として機能するということである。

グローバルなコミュニケーションが必要となる場で、「リア王」を知らないというのは、日本において仕事をする際に「忠臣蔵」のたとえを出されてもわからない、というくらいのコミュニケーションロスになる、ということだ。特に、聖書とシェークスピアを筆頭に、ドストエフスキーなどの世界文学は、それを読んでいるという前提で欧米のエリートはコミュニケーションをしてくる。一種のリトマス試験紙で、彼らとしては、ここでプロトコルが共有できないようであれば人間として信用しない、少なくとも自分と同じクラスの人間、仲間とは認めないということだ。

■「領域横断の武器」としてのリベラルアート
リベラルアートはまた、専門領域の分断化がすすむ原題社会のなかで、それらの領域をつないで全体性を回復させる為の武器ともなる。読者諸君にあたっては、下記の文章の「テクノロジー」と「科学」を「経営科学」と置き換えて読んでみてほしい。

テクノロジーはどうしても必然的に専門化を要請します。もし教養という概念を科学知識の専門化というものと対立的に考えれば、勝負は見えていると思う。それは教養の側の敗北でしかない。
しかし教養というものは、専門領域の間を動くときに、つまり境界をクロスオーバーするときに、自由で柔軟な運動、精神の運動を可能にします。専門化が進めば進むほど、専門の境界を超えて動くことのできる精神の能力が大切になってくる。その能力を与える唯一のものが、教養なのです。だからこそ科学的な知識と技術・教育が進めば進むほど、教養が必要になってくるわけです。
加藤周一「教養になにができるか」より

「専門領域を自由に温暖する為には教養=リベラルアートが必要だ」という加藤周一のこの指摘が、そのままリーダーにとって要件であることに気付いてほしい。領域の専門家で居つづければリーダーになることは出来ない。リーダーの仕事は、異なる専門領域のあいだを行き来し、その領域のなかでヤドカリのように閉じこもっている領域専門家を共通の目的のために駆動させることである。

仕事の場において、「自分はその道の専門家ではない」という引け目から、「なにか変だな」と思っているにも関わらず領域専門家に口出しすることを躊躇してしまうということは誰にでもあるだろう。しかし、専門領域について口出ししないという、このごく当たり前の遠慮が、世界全体の進歩を大きく阻害しているということを我々は決して忘れてはならない。東海道新幹線を開発する際、鉄道エンジニアが長いこと解決できなかった車台振動の問題を解決したのは、その道のシロウトであった航空エンジニアだった。このとき「自分は専門家ではないから」と遠慮して、解決策のアイデアを提案していなかったらどうなっていただろうか。世界の進歩の多くが、領域外のシロウトによるアイデアによってなされている。米国の科学史家でパラダイムシフトという言葉の生みの親になったトーマス・クーンはその著書「科学革命の構造」のなかで、パラダイムシフトは多くの場合「その領域に入って日が浅いか、あるいはとても若いか」のどちらかであると指摘している。そして加藤周一の指摘するとおり、領域を横断して、必ずしも該博な知識がない問題についても、全体性の観点に立って考えるべきことを考え、言うべきことを言う為の武器としてリベラルアートは必須のものと言える。

■「世界を変える武器」としてのリベラルアート
二十世紀前半に活躍したドイツの哲学者ハイデガーは「世界劇場」という概念を通じて、現存在=我々の本質と、我々が社会において果たしている役柄は異なっていると考えた。舞台で演じる役柄のことを心理学ではペルソナという。ペルソナというのはもともと仮面という意味だ。実際の自分とは異なる仮面を身につけて、与えられた役柄を演じる。英語では人格のことを「personality」というが、この言葉はもともとペルソナからきている。そして、すべての人は世界劇場において役割を演ずるために世界に投げ出されることになる。これをハイデガーは「企投」とよんだ。そして企投された人々が、世界劇場における役柄に埋没していくことを耽落=Verfallenと名付けた。

ここで問題になってくるのは「原存在と役柄の区別」だ。多くの人は、世界劇場で役柄を演じている耽落した自分と、本来の自分を区別することができない。いい役柄をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「いいもの」と考え、ショボい端役をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「ショボいもの」と考えてしまう。そして、当たり前のことながら主役級の役柄をもらっている人はごく少数に過ぎない。多くの人はショボい端役を与えられた大根役者として世界劇場の舞台に立つことになり、役柄を演じるのに四苦八苦している一方で、役になりきって高らかに歌い踊る主役級の人々を喝采しつつも、陰で「ああはなりたくはないよね」という態度を取ってしまったりする。

この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は世界に一人もいない。つまり世界劇場ということでいえば、この劇の脚本は全然ダメなのだ。従って、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけだが、ここで浮上してくるのが「誰がその脚本を書き換えるのか」という論点だ。

テレビドラマの制作を考えてみればわかりやすいだろう。脚本の修正に口を出せるのは橋田壽賀子クラスの大物脚本家か監督、それに泉ピン子クラスの大物俳優だけだ。しかし、少し考えてみればわかることだが、まず、この社会に適応している人、つまり花形役者には脚本を変更するインセンティブがない。彼らは、いわば世界劇場における「脚本の歪み」ゆえにさまざまな利益を享受しているわけで、脚本の「歪み」を是正するインセンティブがない。これは監督や脚本家についても同様で、世界の脚本を作っている立場にある人はやはり同様にそれを改変するインセンティブを持たないのだ。これはつまり、いまの世界劇場に完全には適応できていない人、端役を押し付けられた大根役者こそが変革者になりうるということを意味している。

大根役者が、大根役者である自分に失望せず、この世界の中に居残りながら決して耽落もせず、いかに内部から世界をよりよい世界に変えていけるか・・・これが最大の課題である。

そして、今現在の脚本を離れて、新しい世界の脚本を描くのに必要な技術がまさにリベラルアートなのである。現在の脚本が歪んだものである以上、この歪んだ脚本を前提にして書かれている「よりよい役柄を生きる」技術、つまりそれは殆どの経営学やキャリア論のことだが、これらはまったく役に立たないだろう。新しい世界の脚本を構想するには、より本質的で普遍的な大地を立脚点にしなければならない。

そういえば、キューバ建国の英雄であるエルネスト・チェ・ゲバラは大変な読書好きで、彼がコンゴのジャングルから家に居る妻に本を送ってくれる様にお願いした手紙が残っているのだが、このリストがスゴい。

    • ピンダロス「祝勝歌集」
    • アイスキュロス「悲劇」
    • ソフォクレス「ドラマと悲劇」
    • エウリピデス「ドラマと悲劇」
    • アリストファネスのコメディ全巻
    • ヘロドトス「歴史」の7冊の新しい本
    • クセノフォン「ギリシア史」
    • デモステネス「政治演説」
    • プラトン「対話編」
    • プラトン「国家」
    • アリストテレス「政治学」(これは特に)
    • プルタルコス「英雄伝」
    • セルバンテス「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
    • ラシーヌ「演劇」全巻
    • ダンテ「神曲」
    • アリオスト「狂えるオルランド」
    • ゲーテ「ファウスト」
    • シェイクスピアの全集
    • 解析幾何学の演習(サンクチュアリ*のもの) 
         *ゲバラは自分の書斎をサンクチュアリと呼んでいた由

要するに全て古典である。新しい国を人工的に作る、という歴史上嘗てない営みに手を染めつつある人が、そのための参考書として選んだのが、近代市民国家成立以降の啓蒙書ではなく、一番新しいものでも数百年、多くが千年以上前のローマ時代からギリシア時代に書かれた書籍であったことは、同様に将来を見通すことが難しい時代に生きている僕らに対して一つの教訓を示してくれている様に思われないだろうか。

■どうせ買うなら長持ちする武器
ここまで主に五つの観点から、現代に生きる我々にとってのリベラルアートの功利的な側面について述べてきた。中には納得し難いもの、違和感を覚えるものもあるだろう。しかし、経営学をはじめとした世知辛い学問の多くがせいぜい数十年の歴史しかもたないのに対して、リベラルアートは既に数百年、科目によっては数千年という時間のヤスリにかけられて残っていることを想い出してほしい。


誰でも、武器を買うときは丈夫で長持ちするものにしたいと思うであろう。そういう意味で、リベラルアートというのは、もっとも長く使うことが出来る「知の武器」だと言える。これまで、あまり慣れ親しむ機会がなかった人にも、今後は是非積極的にリベラルアートに親しみ、そこから矛盾に満ちた世界を変える為の武器を手に入れてほしいというのが筆者の願いである。