Wednesday, December 16, 2015

「一万時間の法則」に感じる違和感

なんだか最近「違和感」をタイトルにしたポストが続いていて、ネガティブな印象を持つかも知れませんが、ご勘弁を。

一万時間の法則、という言葉は聞いたことがあると思います。平たく言えば、モノゴトの巧拙は才能ではなく、単純に訓練のために費やした累積時間の関数に過ぎない、という仮説です。そもそもこれ、「法則」って言ってるから誤解を招くんですよね。法則なんてものは自然科学も社会科学もひっくるめて全て仮説ですからね。ええ?納得できない!?という方はカール・ポパーを読んでみてください。

で、この「一万時間の法則」と言われる仮説に、昔から激しい違和感を覚えているのですよ。その違和感の元は大きく二つあって、まず一つは、この法則を導き出すにあたって集計された統計データのサンプルです。

この「一万時間の法則」を導き出すにあたって、研究者が対象とした集団はバイオリニストでした。世界的なバイオリニストとまあまあのバイオリニストとただのアマチュアレベルを比較した結果、他のあらゆる因子よりも、演奏パフォーマンスの差を説明する変数として「累積練習時間」が強力だった、とまあそういうわけなんですね。

でですね、非常に違和感を覚えるのが、バイオリニストを芸術家として疑いなく扱っているという点なんです。これは、僕の個人的な意見というよりも、あまり表立っては言わないけれども、みんな音楽関係者は思っていることなんですけれども、演奏者とクリエイターは、全く別の仕事なんですよね。

もっと分かりやすい言い方をすれば、バイオリニストは芸術家ではなく単なる職人であって、本当の意味で芸術家と言えるのは音楽の世界では作曲家しかいない、ということです。記憶が正しければピエール・ブーレーズも同じことを『ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書』のなかで言っていますね。作曲と指揮の両面で活躍したブーレーズならではの指摘ですが、あるいは高校生のときに読んだんでもしかしたら勘違いかも知れません。

さらに言えば、この作曲という行為に関しては、才能のある奴は最初からいい曲を作るし、才能がない奴にいくら訓練してもいい曲は作れない・・・というか、「訓練」という概念にそもそも問題があって、バイオリンのような器楽だと、例えばひたすらスケール繰り返すとかパッセージを繰り返すとか、そういう「訓練」があるわけですけど、作曲の場合、そもそも「訓練」というものがないんですよ。音大の作曲科に入るぐらいのレベルに達するまでは、ある程度機械的なトレーニングがありますけど、そのあとはせいぜい名曲の研究・・・アナリーゼと言いますけど、それくらいしかないんですよね。

僕は楽器演奏についても作曲についても、両方とも相当量のトレーニングを受けたので、これを実感値として感じるんです。楽器演奏の巧拙は、確かに練習時間の関数です。それは間違いがない。これは受験勉強と同じで、上に行く奴は「やってる」んですよ。ところが作曲は全くそうではない、と思うのです。

これが二つ目の違和感の理由なんですけど、作曲家に関していえば、累積練習時間のテーゼは破綻していて、デビュー当初から圧倒的な名曲を書く奴、それは松任谷由美とかポール・マッカートニーとか、そういうのがいるんです。それは本当に、もう残酷なくらい明らかだと思うんです。みなさん「ひこうき雲」は松任谷由美(荒井由美」のデビューアルバムの曲ですよ。

で、ここまで考えてくると、ビジネス・・・なかんずく僕たちの多くが関わっているホワイトカラーの事務職・企画職というのはどっちに近いのかというと、これはもう明らかに楽器演奏のようなフィジカルな行為よりも、作曲のような知的作業に近いわけです。そういうマジョリティに対して、バイオリン演奏のようなフィジカルトレーニングの結果を持ち出して、「才能ではない、努力だ」と叱咤するのは、とてもミスリーディングなことであって、多くの「さっさと他の仕事に移った方が良い」人を、無駄にその領域にとどまらせて努力させる結果になるんじゃないかと思っているんです。

向いていない仕事を一万時間やったって、やっぱり一流にはなれない、ということを理解する方が、世の中全般には良いんじゃないかと思うんですけどね・・・どうなんでしょうか。


No comments:

Post a Comment