世界劇場の脚本を書き換えよう

二十世紀前半に活躍したドイツの哲学者ハイデガーは「世界劇場」という概念を通じて、現存在=我々の本質と、我々が社会において果たしている役柄は異なっていると考えた。

舞台で演じる役柄のことを心理学ではペルソナという。ペルソナというのはもともと仮面という意味だね。実際の自分とは異なる仮面を身につけて、与えられた役柄を演じる。英語では人格のことを「personality」というが、この言葉はもともとペルソナからきている。

そして、すべての人は世界劇場において役割を演ずるために世界に投げ出されることになる。これをハイデガーは「企投」とよんだ。そして企投された人々が、世界劇場における役柄に埋没していくことを耽落=Verfallen=ヴェルファーレンと名付けた。

ヴェルファーレン・・・あれ?

そう、一時期一世を風靡した六本木のディスコの名前とよく似ているよね。もしかしたらヴェルファーレの名づけ親はハイデガーを読んでいたのかも知れない。残念ながら僕はヴェルファーレに行く機会がなかったので当時の様子はわからないけれども、いまYoutubeで当時の模様を見てみると、皆忘我の状態で踊り狂っていて、まさ「耽落=Verfallen」しまくっていたことがわかる。

ここで問題になってくるのが「原存在と役柄の区別」だ。多くの人は、世界劇場で役柄を演じている耽落した自分と、本来の自分を区別することができない。いい役柄をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「いいもの」と考え、ショボい端役をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「ショボいもの」と考えてしまう。

そして、当たり前のことなのだけれども主役級の役柄をもらっている人はごく少数に過ぎない。多くの人はショボい端役を与えられた大根役者として世界劇場の舞台に立つことになり、役柄を演じるのに四苦八苦している一方で、役になりきって声高らかに歌い踊っている主役級の人々を喝采しつつも、陰で「ああはなりたくないよね」という態度を取ってしまったりする。

うむ。。。。

この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は世界に一人もいないだろう。つまり世界劇場ということでいえば、この脚本は全然ダメな脚本だということになる。従って、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけだけれど、ここで浮上してくるのが

「誰がその脚本を書き換えるのか」

という論点だ。テレビドラマの制作を考えてみればわかりやすい。脚本の修正に口を出せるのは橋田壽賀子クラスの大物脚本家か監督、それに泉ピン子クラスの大物俳優だけだろう。

しかし、少し考えてみればわかることだが、まず、この社会に適応している人、つまり花形役者には脚本を変更するインセンティブがない。彼らは、いわば世界劇場における「脚本の歪み」ゆえにさまざまな利益を享受している。これは成功する投資家がつねに「市場の歪み」に着目するのと同じことだ。従って、大物俳優である彼らにその「歪み」を是正してもらうことは期待できない。監督や脚本家についても同様で、世界の脚本を作っている立場にある人はやはり同様にそれを改変するインセンティブを持たない。

これはつまりどういうことを言っているかというと、いまの世界劇場に完全には適応できていない人、端役を押し付けられた大根役者こそが変革者になりうるということだ。大根役者が、大根役者である自分に失望せず、この世界の中に居残りながら決して耽落もせず、いかに内部から世界をよりよい世界に変えていけるか、これが最大の課題だ。

ちなみに、この大根役者が舞台を降り、舞台そのものを破壊しようとする行為がテロということになる。対話が成り立たない、自分の意見が通らないどころか、意見を言う機会すらないということになれば、花形役者を爆殺してしまえというのは気持ちとしてはわからなくはない。

さてと、この世界を劇場として考えるというアナロジーを持ち出すと、その脚本を作っているのは人間ではなく神なのではないか、という反論があるかも知れない。そう、まさにその通りに考えたのが古代から中世までのヨーロッパの人々だった。確かに、世界の脚本をつくっているのは神だ、というのはとてもしっくり来る考え方だ。

しかし、ここで一つの問題が立ち上がる。神は全能である。一方で、この世界は不条理と不合理に満ちている。つまり全然ダメな脚本である。全能の神が脚本家としてイマイチであることは認められない。

そこで彼らはこう考えた。やがて大ドンデン返しがきて、ダメに見える脚本も「ああ、そういうことだったのかあ!」ということになるのではないか、と。つまりすごい「オチ」が神に用意されているのではないか、と考えたわけだ。この大ドンデン返しがいわゆる「最後の審判」である。最後の審判において神が再臨し、神の国が完成する。それまでのあいだ、世界劇場の脚本は一見ムチャクチャに見えるが、最後に帳尻が合うはずなので、僕らは神に怒られないような正しい生活を送ろうということで自分たちを納得させたわけだ。

ところがここに問題が起こってくる。イエスが死んで十年たち二十年たち、やがて百年経ち二百年経っても、最後の審判はやってこない。そこで当然ながら、みんなこう考え始めた「ぶっちゃけ、最後の審判はあるのか?」と。笑い事ではない。これは「終末遅延」といって神学上は大変な難問なのである。

矛盾に満ちた世界は最後の審判を経て平定することになっているはずなのに、その最後の審判がいつまで待っててもやってこないのである。終末が遅延しているということは、矛盾に満ちた世界劇場の脚本がいつまでも完成しないということを意味している。これはとても困ったことだ。なぜなら、自分が生きているうちに世界劇場の脚本が修正されないとういことになるからだ。せめて自分が生きているうちに、この脚本が是正されてほしい。そう願う人にとって「終末遅延」はとても重大な問題だったのである。
  
ここまで読んでもらえばもうわかるだろう。そう、世界劇場で用いられている脚本を書き直すのは、神でも花形役者でもなく、我々でしかいない、ということだ。理不尽な脚本をいったんは受け入れた上で、役柄に耽落することなく、脚本を書きかえることを虎視眈々と狙いながら、着実に役者としてのポジションを固めつつ、他の花形役者や脚本家に対する影響力を高めていく。神のドンデン返しは待っていられない。もう二千年も待ったのだからいいだろう。

デカルトは著書「方法序説」のなかで、こう言っている。

世界の秩序よりも、自分の欲望を変えるように努力しなさい

なんというダメな考え方だろう、と思う。なぜならば、いまの世界の秩序そのものが人間の欲望の結果、大きく歪められてしまっているからだ。ここでデカルトが指摘している「秩序」は、自然法則に近い意味なので、僕らがイメージする「世の中のルール」(マルクスのいうところの疎外というやつだ)とは若干異なるかもしれないが、それはまあおいておこう。

こんなにも世界のありようが歪んでしまった以上、それを放っておいて自分の欲望を押さえることは健全なことではない。理不尽だと思う気持ち、何かがおかしいという直感を決して君は押し殺してはいけない。それが、よりよい世界を実現するためのエンジンになるからだ。

世界の脚本が歪んでいると思い、かつ自分がその劇場で大根役者を担っていると思うのであれば、まさに君こそがその脚本を変える革命家になるべきだ。したたかに生き延びて今いる組織の中でパワーを手に入れ、脚本をぜひとも書き換えてほしい。