Thursday, August 29, 2013

パチンコとソーシャルメディア

先日、仲良しと神楽坂のLa Tacheで夕食を食べようと思って神楽坂をテクテク歩いていたのですが、ふとレストランに行く前にお手洗いを借りようと思い立って二十年ぶりに目の前にあったパチンコ屋さんに入りました。

で、用を足してから出口に向かって店内を歩いている際に、めったにない機会ということもあって新鮮な気持ちで周囲を観察させてもらったのですが、その瞬間に感じたことからお店に着くまでの二~三分ほどのあいだにアタマを駆け巡った考察を備忘録代りに記しておきます。

パチンコ屋のスツールに座ってうつろな眼でスロットのボタンをひたすらに押し続けるロボットのような人々を見てまず感じたのは、スロットというのは究極的にはドーパミンの分泌を販売しているビジネスなんだな、ということです。これはいつかのポストにも書きましたが、ドーパミンシステムは予測できない出来事に直面した時に刺激されます。予測できない出来事、つまりボタンを押して絵柄が揃うかどうかわからない、揃えば報酬がもらえるよという状況でスキナーボックスのネズミと同じです。

つまりスロットにはまり続ける人とというのは、究極的には「不確実性」にお金を払っているのかも知れない、ということです。こう考えた僕はなんというか、奇妙な気持ちに捉われたんですよね。だって、通常「不確実性」というのは忌避するものであって、求めるものではないでしょう?しかし、目の前のこの人たちはわざわざお金を払ってまで「不確実性」を購入している。

ドアを開けて店を出ます。ここから先は宵の神楽坂を昇りながら考え続ける。

で、思ったのは、彼らがわざわざお金を払ってまで「不確実性」を求めるのは、逆にいえば彼らの生活から余りにも不確実性がなくなっているからなのかも知れないなあ、ということです。

つまり、ルーチンを繰り返すだけの仕事や完全に予測可能な給与水準等、偶有性が介入する隙間がほとんどなくなってしまった人生を与えられると、人はわざわざお金を払ってまでも、ある程度の「不確実性」を手に入れようとするのかもしれない、ということです。

たしかに「不確実性」という言葉は一般にネガティブな含みを持って語られることが多いわけですが、一方で「希望」や「未来」、「幸運」といったポジティブな概念と結びつけて捉えることも出来るなあ、などと考えてみる。

このあたりで毘沙門天の前を通過します。夜風が気持ちいい。

で、そのまま考えを推し進めると、「不確実性」を求めるこういう人々に対して、実ビジネスにおける「不確実性」をともなうタスク、それは例えば為替のディーリングみたいな仕事を細かく切りだしてクラウドソーシングできないかなあ、というアイデアが、まあ出てきます。もしそういったことが可能になれば彼らのドーパミンと社会的な価値生産を結びつけることが出来るのになあ、と。

で、ここまで考えて、例えばどんなビジネスだったら、こういったかたちでドーパミンを対価として払うクラウドソーシングが成立するかなあと考えていて、ハッと気づいたのが、オイオイもう既にそれを思いっきり活用しているビジネスがあるじゃあないか、ということでした。

そう、フェースブックやツイッターを始めとしたソーシャルメディアです。

彼らは一般に新興メディア企業と考えられていますが、実際にはギリシア時代から存在したアテンションエコノミーに依拠するめちゃくちゃ伝統的なタイプのメディア企業です。アテンションエコノミー、つまり集めた目玉の数×時間がそのまま事業価値に直結するメディア企業ということです。ちなみにグーグルはこのモデルとは異なっていて彼らの事業価値の時系列推移は集めた目玉の数×時間の積の推移とまったく相関していません。

ということで、旧来型のアテンションエコノミーに依拠しているソーシャルメディアでは、目玉の数を増やすために沢山の良質なコンテンツを集めることが必要になるわけですが、フェースブックもツイッターもこの業務をクラウドソーシング、つまり僕や皆さんによる書き込みによって調達しています。そしてその報酬は?もうおわかりですね。そう、書いた人の脳内に分泌されるドーパミンです。僕らはドーパミンというエサが欲しくて機長な時間を使いながら彼らのコンテンツを創るために時間を浪費しているわけです。

そう考えるとなんだかフェースブックやツイッターに書き込むのがアホくさくなってくるなあと、ここまで考えてお店に丁度到着したのでした。

ずいぶんワインをいただきましたが忘れないでよかった。
神楽坂のラターシュ、とても美味しく、お値段も手頃でいい店です。
http://tabelog.com/tokyo/A1309/A130905/13040986/


Monday, August 5, 2013

無批判という「悪」


ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、六百万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察によって拿捕され、イェルサレムで裁判を受け、処刑されます。

このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。
それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。

アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は一番上の写真に見られる様な、小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。

しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

この裁判を傍聴していた哲学者のハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま「イェルサレムのアイヒマン」となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

 

「悪の陳腐さ」。。。。。

奇妙な言い回しですよね。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置づけられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値ということになり、我々が一般的に考える「悪」の位置づけとは大きく異なります。

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、なにか特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪や欧州大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そしてアーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図すること無く受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかも知れない、と指摘しているわけです。

僕らは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、僕らのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至らすよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在僕らが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかも知れません。ちょっとヘーゲルっぽい考え方で僕はあまりこういう思考の仕方は好きじゃあないんですが、仮にその様にそう考えると、究極的には世の中には次の二つの生き方があると言えるのかも知れません。
  1. 現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方
  2. 現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えて行くことに、思考も行動も集中させる、という生き方
そして残念ながら、多くの人は上記の1を生き方に選択しているように思うのですよね。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかりやすい。ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の1の論点に沿って書かれたものでしょう?

こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムのなかで「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。

でもねえ、ちょっと待って、と。

本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなんだろうか?と考えるべきじゃないかと思うんですよね。これはイノベーションの促進という側面にも関わってくると思うのですが、システムというのはどっかで破綻させることで超回復して強さを増していくわけですから、こんなことやっていたらものすごく脆弱になってしまうんじゃないかと思うんですけどね。個人的には、いまの日本社会/日本企業の弱さは、上記1の戦略をとる個人や組織が多くなりすぎていて偶有性が下がりすぎていることにあると思っています。

システムにうまく乗っている限り、その中でどんなことをやっていてもいいんだ、というのは典型的にエリートに見られる考え方ですが、僕はこのアイデアに与しません。むしろ逆を選びたいんですよね。システムの中では反逆児でいたいし、であるがゆえに自分なりの価値観と道徳に沿った生き方を選びたいな、と。実際にそう出来ているかどうかはともかく、ね。

すいません、ほとんど独り言になってしまいましたね。