Wednesday, July 31, 2013

松任谷由実さんの「ひこうき雲」の楽曲分析

以前にこのブログでユーミンの「ひこうき雲」を取りあげたのは二年以上前のことでしたが、ここ一ヶ月くらいで急激にビューが増えていて「なにごとか!?」と思ったら、宮崎駿さんの新作映画で主題歌として使われてたんですね。なる。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2011/01/blog-post_07.html

僕がこの曲を始めて聴いたのは小学校高学年の時でしたが、その時に周りの景色が一瞬で凍結する様な不思議な感覚を抱いたことをいまでもよく覚えています。樹の枝が風にしなる様とかね。もの凄いショックというか、感動を通り越した不思議な感覚だったんですよね。こういうのを感じさせられたのは他にビートルズの「レットイットビー」とかジョニ・ミッチェルの「ボースサイズナウ」とか、本当に生涯で数曲しかありません。

まあそれはともかくとして、この「ひこうき雲」、ほんとうにロックとかクラシックとかジャズとかいったジャンルを超えて、これほどの名曲というのはちょっと他にないだろうと思うくらいの傑作だと僕は思っています。

で、そのエッセンスは「切なさ」にあるのではないか、と。

これほどまでに壮絶な「切なさ」を人に感じさせる音楽ってちょっと他にないんじゃないかなあ。少なくとも僕はちょっと思いつきません。切ない曲っていうと、

例えばプロコルハルムの「ソルティドッグ」とか、
Procol Harum  -A Salty Dog-


あるいはジュディコリンズの「アルバトロス」とか、
Judy Collins -Albatoros-


こうやって聞いてみるといい線いってるんだけど、やっぱり比べるとぜんぜん及んでいないよなあ。

で、2年前のブログと重複する部分もあるのですが、あらためてこの曲「ひこうき雲」について、楽曲分析してみたいと思います。

この曲、調はE♭メジャー(変ホ長調)になります(二年前のポストではFメジャーと書いていますが間違いですね。。。すいません)。イントロのアルペッジオも素直にE♭の分散和音から入ってCm7→E♭→Cm7ときて、ここからボーカルが「白い〜」と入ります。

前半は比較的素直ですよね。「しろい〜」から「あの子〜をつつむ〜」までの最初のメロディは

E♭→E♭/D→Gm→A♭→A♭/G→Fm→B♭→B♭/A♭→Gm→A♭→B♭7

という流れです。半音でズルッと下がってポンッと上がるという特徴的なベースの動きを繰り返してB♭7のドミナントで半終止になります。ちょっとプロコルハルムの「青い影」に似てますよね。

で、この進行を「だーれも〜気付かず〜」から「舞い上がある〜」までは繰り返します。
ここからがサビに移るのですが、

「空に〜あこがれって〜」のところは

E♭→Gm7→Cm

となっています。これを機能和声の表記法で書けばⅠ→Ⅲ→Ⅵとなり、T→D→Tの偽終止ということになります。そんなに珍しいものではないですよね。特にユーミンはマイナーコードを使った終止が好きみたいで「恋人がサンタクロース」でも「リフレインが叫んでいる」でもこのタイプの終止を使っています。

で、問題になるのが次の「空を〜かけってゆく〜」のところです。ここ

Gm→B♭m→A♭

という進行なんですが、これ、もの凄く自然に響くのに和声的にどういう構造になっているのか、いまひとつ僕にはよくわからないんですよね。なんでこんな奇妙な進行でここまで奇麗に鳴るのか、まったくわからない。でも本当にパワーありますよね。人からの慰めを振り切るようにして空に登っていく「あの子」の強さが、この「かけってゆく〜」の和音と声に込められているのを感じる。

この後、「あの子の〜命は〜ひこうき雲〜」のところは、

Gm7→A♭M7→B♭7sus4→B♭7

となっていて、ここはまあわかりやすい。Ⅲ→Ⅳ→Ⅴの流れで典型的な半終止ですね。キーがE♭ですからB♭7はドミナントになり、「腰を下ろして小休止する」感覚をここでつくっています。直前がとてもエモーショナルに高ぶる箇所なのでここで少しクールダウンする感じがありますよね。

この後、いわゆるAメロを繰り返して、ふたたび、先ほど「ぜんぜんわかんねえ」と指摘したサビのところに来るわけですが、ユーミンはここでもまた技を繰り出していて、よく聴くとこれ、二回目は微妙にコードを変えてるんですよね。

サビの最初の二小節、「空に〜あこがれて〜」のところのコードは変わらず

E♭→Gm7→Cm

なんですが、その後の「空を〜かけってゆく〜」のところ、ボーカルはここでひときわ高音に振れるんですが、ここの部分のコードは

Gm→Fm7/B♭→A♭M7

となっているんですよね。ちなみに再掲すると一回目は、

Gm→B♭m→A♭

ですから、まあ微妙な違いと言えば微妙なんですが、実際に楽器でならしてみるとかなり色彩感に違いがあることがわかるはずです。

あああこれ、いま弾いてみて気付いたんだけど、要するに調性があいまいになってるんだな。E♭メジャー(変ホ長調)で始まった曲で、どこかで明確に転調しているわけではないんですが、サビの途中から調が浮遊していてA♭メジャー(変イ長調)とのあいだで調性の境目がどっちつかずになってる。

だからサビの最後のコードのA♭は、A♭メジャー(変イ長調)の全終止と考えた方がいいのかも知れません。実際に二つ目のB♭mのコードを、A♭メジャー(変イ長調)のドミナントであるFm/E♭に変えてみると奇麗に鳴るんじゃないかなあ?ああうん、確かにこっちの方がいいかも、というくらい奇麗に鳴りますねってブログ読んでいる人には全然伝わらないですね、すいません。これ、調性をあいまいにするためにわざわざB♭mを使ってるんだなあ、スゴい。

一方、サビの二回目については、真ん中の和音のルートは同じB♭ですが、わざわざFm7/B♭に変えていて、で弾くと明らかに単なるB♭mよりも「突き抜け感」が増すことがわかります。本当に微妙な差なんですけどね。

このサビのあと「あの子の〜いのちは〜ひこうき雲〜」の部分は、

Gm7→A♭M7→A♭/B♭→A♭→B♭m→A♭→B♭m

という進行で終わります。やっぱりそうなんですね。E♭メジャー(変イ長調)で始まった曲ですけど、終わりはA♭なんで、調性が浮遊したまんま終わっちゃうんですね(西洋音楽では基本的に楽曲の最初の和音と最後の和音は同じ和音になります。皆さん、小学校の教科書をもう一回読み直してね♡)。まるで空をふわふわと登っていく様な、そういう浮遊感を生み出したかったんでしょうね。

あとね、最後に指摘すると、この曲、メロディで使っている音とコードの構成音がぜんぜんダブってないんですよね。

例えばサビのところの「空を〜かけってゆく〜」のところなんて、コードが

Gm→B♭m

なのに、メロディは「ミファソ〜ソドシソミ〜」となっていて全然合ってないんです。普通こういうことやるとものすごく不協和に聞こえるはずなんですが、この曲の場合、このメロディならこの和音しかあり得ない、という完璧なフィット感があるんですよねえ。

本当に、つくづくすごい才能だと感服します。
ああ、すっげえ疲れた。

Sunday, July 21, 2013

どうして視覚化すると「わかる」のか?

いま、秋口の出版を目指して「知的生産の技術」というテーマで本を書いています。出版社の人からは「なぜ、○ッキンゼー流では成果が出ないのか?」という副題をつけましょう!と言われていますが、どうなんでしょう、大丈夫なのかな。

まあそれはともかく、その本の中で強調しているのが、知的生産に必要なブレインパワーには4タイプあるという点です。その4つとはすなわち
            1. 論理力
            2. 創造力
            3. 分析力
            4. 統合力

です。この四つのブレインパワーは1と2、3と4がそれぞれ対になる構造になっていて、無理矢理テキストで表現すれば

                  分析力
                   ↑
               論理力←+→創造力
                   ↓
                  統合力

ということになります。

で、これら四つのブレインパワーは、どれかに偏ることなくバランスよく高めることが必要なわけですが、一読しておわかり頂ける通り、ここ十年ほどビジネス界では1と3が大流行りで、最近では論理思考を子供に教えようなどという愚かな営みに手を染める大バカものまで出てきてる次第なわけですが、出版社の方がいみじくも指摘した通り、多くの人は1と3だけではどうもうまく成果が出せないということに気付きつつあるようです。

実はこれは当たり前のことで、僕はこの点についていろいろなところで書いたり話したりしていますが、論理と分析というのは正しくやれば誰がやっても同じ答えに至るわけですから差別化にはまったく貢献しないんですね。せいぜい規定演技で及第点をとれる程度のパフォーマンスにしかならない。ということでカギになるのは、その人らしいユニークな知的成果=自由演技を支えるための「2:統合力」と「4:創造力」ということなのですが、今回は一つこの「統合力」を高めるためのコツについて述べたいと思います。

統合力というのはつまり、集められた断片的な情報や論考を、グワッとまとめて「要するに」とか「つまり」を紡ぎだす能力ということですが、この時、とにかく考えたことや集まった事実を紙に書き出してみて並べてみる、というのが重要なポイントになってきます。

理由は後述しますが、アタマの中だけで一次情報の組み合わせを検討して示唆を出そうとしてもどうしても限界があるのです。紙に書き出してそれを並べてみることで、思わぬ情報の組み合わせから示唆や矛盾が見えてくることがあります。

わかりやすい例を一つ挙げましょうか。

昭和40年代生まれの人には笹川良一が出演していた日本船舶振興会のCMを覚えているでしょう。このCM、業界用語で言うところの15CMの「二階建て」(15CMを二つ連続で流す方式)だったのですが、一つ目のCMでは「世界は一家、人類みな兄弟!」と訴えており、二つ目では「戸締り用心、火の用心!」と訴えているんですよね。

で、こう書くともう皆さんおわかりでしょうけど、この二つのメッセージは矛盾しているわけですね。世界が一家なら戸締りの必要はない。ということで、この二つの情報を視覚化して並べてみると「笹川良一という人は平気な顔して矛盾することをいう人だな」という示唆が得られることになります。

しかし、多くの人はCMを見ていてその矛盾に気付かない。どうして気付かないかというと「音声」で二つの矛盾するメッセージを聴いているからです。音声で聴いているというのはつまり時間軸で順番に情報を処理しているということです。

一方、文字にして二つを並べてみてみるというのは視覚をもちいて空間軸で同時に情報を処理しているということになります。そしてここがポイントなのですが、人間は情報を処理する際に、音声=時間軸と視覚=空間軸で脳の違う部分を使っているんですね。時間軸にそって一度処理した情報でも、空間軸にそって思考してみると違う絵が浮かび上がってくる。

余談ですが、この両者を最もドラマチックに組み合わせているのがギリシア悲劇だ、と指摘したのがニーチェでした。時間軸を代表する芸術形式は音楽や戯曲であり、空間軸を代表する芸術形式は絵画や彫刻です。ニーチェは、前者を情動や混沌=ディオニュソス的なもの、後者を理性や秩序=アポロ的なものとして対立させ、この両者の融合こそがギリシア悲劇の本質だと28歳の若さで指摘したわけです。どういうブレインパワーなんだよ。

ということで(ってぜんぜんまとまっていないですが。。。)、耳で聴いて知っている情報でも、一度視覚化してみることで新たな示唆や発見が得られるのだということ、そしてそれが統合力を支える基本的なスキルなのだというお話でした。

Friday, July 5, 2013

「嫌われること」を恐れてはいけない

最近、メキメキと頭角を現しつつある友人の何人かから立て続けに「いわれのない誹謗中傷を受ける」という相談を聞かされました。

で、自分の経験も含めて、その都度「ああ、それは大抜擢が近い、ということだよ」と回答して元気づける様にしています。

なぜなら僕は、多くの才能ある人が一頭抜けるタイミングで絡めとられてしまう、この「嫌われたくない」という心理的なブレーキこそが、日本でなかなかリーダーシップが根付かない最大の原因だと考えているからです。

ここ数年、いろいろな角度からリーダーシップを考察しているのですが、リーダーシップは「嫌われる」ことと表裏一体の関係にあります。

例えば、リーダーシップ開発のワークショップで「過去の歴史から、素晴らしいリーダーシップを発揮したとあなたが思う人を挙げて下さい」とお願いすると、まず間違いなく下記の人物が含まれることになります。

                ジョン・F・ケネディ
                エイブラハム・リンカーン
                マーチン・ルーサー・キングJr
                マハトマ・ガンジー
                チェ・ゲバラ 
                坂本龍馬

こうして並べてみると、なるほど確かに「変革を主導した志士」として、いずれ劣らぬピッカピカのリーダーシップを発揮したという点で勿論共通しているのですが、一方で別の共通項があることにも、すぐに気付きますね。

そう、全員暗殺されているんです。

つまり「殺したいほど憎い」と多くの人に思われていたということです。過去の歴史において最高レベルのリーダーシップを発揮して世界の変革を主導した人物の多くが、暗殺によってその生命を絶たれているという事実は、我々に「リーダーシップというのは、崇敬とか愛着とか共感といったポジティブな感情だけではなく、必然的に軽蔑とか嫌悪とか拒否といったネガティブな感情とも対にならざるを得ないものなのだ」ということを教えてくれます。このブログの前回のポストでは「作用と反作用」と題して、何か極端なものがあるときは、その背後に逆側に極端なものが存在している、とたまたま指摘していますが、リーダーシップについてもそれは同様だということです。書いてて思い出したんですが、そういえばイエスもそうですよね。

つまり、リーダーになるということ、リーダーシップを発揮するということは、それが高いレベルのものであればあるほど、軽蔑や拒否や嫌悪といったネガティブな感情と向き合わざるを得ない、ということです。

そして、この「ネガティブな感情を認める」という点にこそ、日本におけるリーダーシップ開発のボトルネックがあると僕は思ってるんですよね。「嫌われること」を避けるために、どれくらいの人が、自分の思いやビジョンを封印して可能性を毀損してしまっているかを考えると残念でならない。

幕末の変革を幕府側から主導した勝海舟は次の様に述べています。

なに、誰を味方にしようなどというから、間違うのだ。みんな、敵がいい。敵がないと、事が出来ぬ。国家というのは、みんながわいわい反対して、それでいいのだ。
勝海舟「海舟座談」より

つまり「敵がいないリーダー」なんていうのは有り得ない、ということです。変革には必ず既得権や既成概念の破壊を伴うから、過去のシステムによって利益を享受していた人を敵に回すことになる。つまり「嫌われること」を恐れていたら変革を主導するリーダーなんかには絶対になれない、ということです。

あなたがもし、自分が正しいと思うこと、あるいは間違っていると思っていることがあるのであれば、「嫌われるかもしれない」という心のブレーキをかけずに、どうかそれを口に出して言ってほしいと思います。実際に世界は、多くの人がそうすることで、少しずつ進歩してきたのですから。

ということで長くなりましたが、メキメキと頭角を現しつつある中、言われのない誹謗中傷ややっかみに鬱陶しい思いをしている友人諸氏よ、「突き進め、そのまま!」というのが僕からのエールです。







Tuesday, July 2, 2013

作用と反作用

先日、何度も観ているロンドンオリンピックの開会式をふたたび見返していたのですが、メリーポピンズが空から降りてくる、あの大好きなシーンを観ていて「ハッ」と考えたことを備忘録がわりに。

ここ数年、友人の影響でずいぶん多くのファンタジーを観たり読んだりしているのですが、大人の鑑賞にも堪えられる様な良質なファンタジー、それは例えばメリーポピンズ、ピーターパン、不思議の国のアリス、魔法使いハウルと火の悪魔、ガリバー旅行記、ナルニア国物語、そしてハリーポッターといった作品を並べてみると、実は全て英国産であることに気付きます。

ここでハタと「どうしてイギリスは良質なファンタジーを生み出し続けられるんだろうか」と考え込んでしまったんですよね。で、いま時点での答えは(いわゆる仮説ってやつですね。。。)、「リアリズムがあまりに透徹しているから」というものです。

先日のポストではサンダーバードをとりあげ、イギリスというのは、子供に対しても「情報の重要性」を教え込む様な世知辛い側面がある、という指摘をしましたが、イギリスでファンタジーが異常に発達したのは、この異常に発達した「リアリズム=現実主義」の裏返しなのかもしれない、ということです。

ある一方側に目盛りが極端に振れているというとき、カウンターバランスとして働く別の目盛りが背後に潜んでいるのではないか。

そう考えてみると例えば中国の儒教もそうですよね。科挙の試験に合格するには儒教、つまり孔子・孟子を勉強しなければならないわけですが、合格した後は韓非子、孫子、呉子を勉強させられます。つまり受かる前は「正義とは」「正しいこととは」という建前の勉強をして、受かった後は「世の中はどうやったら動くか」「人間/国家を支配するにはどうしたらいいか」という本音の勉強をさせられるわけです。

韓非子なんて読むと絶句しますよね。正確な引用ではないですけど「あなたを一番殺したがっているのは誰かわかるか?それはあなたの妻だ。あなたを殺して息子を王にすれば、隠然と権力が振るえるし、老いたという理由で放逐されることもない。年取って醜くなれば必ず捨てられると思っているのが女なのだから、彼女はそうされる前にあなたを殺すだろう。あなたは彼女に殺される前に殺さなくてはならない」といったことが平気で書いてある。まあマキャベリズムですよね。

儒教というのは、なんというか、半端な教えですよね。権力や戦略を扱う韓非子や孫氏という「実学」に支えられてフリルのように存在しているという側面がある。儒教は「支配のための学問」ではなく「支配を正当化するための学問」だと言われますが、中国で儒教の伝統が根強いということは、裏を返せばマキャベリズムが異常に発達している、ということでもあります。

これと裏表の関係にあるのがルネサンス期のイタリアですよね。マキャベリズムというのは、文字通りマキャベリが説いた非常に現実的な帝王学ですが、あの時期にあれだけ世知辛い論考が出されたというのは、当時のフィレンツェの権力者があまりに理想主義的で、政治と宗教/道徳を分離せずに扱っていたために戦争や権力闘争にからっきし弱かったという事態の裏返しという側面があります。

これを組織論の枠組みに考えてみると、ある会社で非常に厳格なルールや制度が運用されているということを聞くと、僕らは単純に「へええ、しっかりした会社だな」と思ってしまいがちですが、その様なルールが必要であったということは、逆に言えば業務や社風そのものに本質的にルースな側面があったということの証左でもあります。

これは、前著「天職は寝て待て」にも書いたことですけど、電通の行動規範とされている「鬼十則」は「仕事は自ら創るべきで人から与えられるべきでない」という一条から始まり、他にも極めて攻撃的/能動的な行動規範がこれでもかと綴られていて、読んだ人は「ひえええ、めっちゃアグレッシブやなあ」と思うのですが、実はここにも作用反作用の法則が働いていて、これはつまり電通というのは本来とても「受け身」な会社なのかも知れない、ということです。だから、顧客から言われることのない「自身のビジネスモデルの転換」については、喫緊の課題になっているにも関わらず全く対処できていないでしょう?

何か、極端に目盛りが振れている事象があった場合、その逆側に振れた目盛りもその背後に潜んでいるのではないか、と考えるといろいろと広がりが見えてくる様に思います。