Thursday, June 27, 2013

「金を払って学ぶ」VS「金をもらって学ぶ」


いま、出版社から依頼されている書籍の執筆を三本かかえているのですが、先日やっとこさ「イノベーションと組織」に関する本をほぼ脱稿し、いまは「知的生産」に関する本にフォーカスをシフトしつつあります。ちなみに残り一本はまったく手つかずになってます(すいません、○イヤモンドさん・・・)。

で、これらの本を執筆する過程でしみじみと考えたことがあって、それは「お金」と「学び」の関係です。

一言でいえば
        1. 「お金を払って学ぶ=学校」
        2. 「タダで学ぶ=独学」
        3. 「お金をもらって学ぶ=仕事を通じての学習」
の三つを比べてみた時、一般に「学び」となるとすぐに「1」が意識されがちで、確かに重要な契機になるとは思うのですが、本当にその人の人生に対してインパクトを与えるのは、やっぱり「2」であり「3」なんじゃないか、ということです。

僕の友人知人には学校関係者もいるし、大金を払って海外の大学院に通った人も多いのでこう書くと不愉快に思われるかも知れないんだけど、過去のイノベーションの事例、あるいは学習心理学や脳科学の知見、なにより自分の経験を照らし合わせてみると、どうもそう言わざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。

イノベーションの本を執筆する過程で、さまざまな文献、あるいやインタビューでたびたび接したのが「独学」の有効性に関する言及です。過去の多くのイノベーションが交差領域で発生していることはよく知られていますが、この「交差的イノベーション」を起こす人材の特徴として「独学者であること」を挙げたのはポール・マイダーでした。

彼は「ある分野や学問について自分なりのやり方で学ぶことによって、その分野において通常とは異なる観点からアプローチできる可能性が増す」と指摘しています。確かに、こういった事例は枚挙に暇がありません。

例えば、おそらく人類史上もっとも偉大な発明家であるトーマス・エジソンはご存知の通り高等教育を受けていませんでした。彼は、分野を問わずに自分が興味を惹かれた本を手当たり次第に読み、二十歳をこえるころには科学や電気に関する主要な論文や文献をほぼ読破し、そこから得た知識をもとにして実験を行って数々の発明をものにしています[1]。

[1]:但し、であるからこそエジソンの科学知識はとても危ういものでもありました。彼は交流と直流の違いを生涯理解できず、ライバルであるウェスチングハウスが交流を採用したのを知って「奴らはどうやって電気の向きを変えているの?」と周りのスタッフに尋ねて仰天させています。でもそれでいい、つまりイノベーションを起こすのに交流と直流の原理的な違いを理解している必要はない、ということです。余談ですが、米国で電気椅子という奇怪な死刑方法が定着したのは、ウェスチングハウスを潰そうと考えて交流の危険性を世の中に知らしめようとしたエジソンのロビー活動によります。なんというか、まあ敵に回したくない人ですよね。このへんの過程はみすず書房の「処刑電流」につぶさに書かれていて本当に面白いですよ。


あるいはスティーブ・ジョブズもそうですよね。彼が大学を中退していることは有名ですが、エジソンと同様にやはり興味の赴くままに様々な読書や勉強を重ねてきたことが知られています。初代マックの発売時、アップルは有名な「人間の知性にとっての自転車のようなものをつくりたい」というステートメントを打ち出していますが、このステートメントについて、ジョブズは「サイエンティフィック・アメリカンの自転車に関する記事にインスピレーションを得た」と述べています。新興PCメーカーの創業者と科学雑誌というのは意外な取り合わせですが、モグリで受けたカリグラフィの授業のエピソードといい、ジョブズの「広範囲に渡る好奇心」を感じさせるエピソードですよね。

あとはダーウィンかなあ。進化論を提唱して科学の歴史に変曲点をあたえた人物ですが、ダーウィンの学校時代の成績は平均以下のものでした(これはアインシュタインも同じですよね)。彼は学校で教科書を読むより、イングランドの田舎で植物を実際に眺めたり、権威ある学者のもとを訪れて直接議論することに多くの時間を費やしたので、そりゃ成績は上がらないだろうと。ただ結局はその積み重ねが彼の革命的なアイデアに結実したわけで、端的にダーウィンは「思うに私は、価値のあるものはすべて独学で学んだと思う」と述べています。

イノベーションを起こす人材の共通項が「独学者」であることが指摘されているさ中に、一方で「イノベーションを教える学校」に「イノベーションの起こし方」を学びにせっせと通う人がいるというのは、なんとういうか、滑稽ですよね。イノベーションを学校で習おうと考えてる時点ですでにイノベーションに向いてないよ君は、という・・・学校なんて行かずにサッサとやりゃあいいじゃん、と思うんだけど。

次に取り上げたいのが、脳科学や学習心理学の知見です。僕はこの領域については専門ではないので、あくまで十数冊の本を読んで得た知識限り、つまり独学の範囲でということですが、大きく今の学校システムには二つの問題があるみたいなんですよね。

まず、そもそも学校で習ったコンテンツはすぐに忘れるという問題があります。研究にもよりますが、半年から一年後にはだいたい90%以上の内容が忘却されてしまう、ということで研究結果は収斂しているようです。これは多くの方の実感値とも符合するんじゃないでしょうか?なんで忘れるかというと、差し迫ったニーズがないままに知識を得ているからです。レオナルド・ダ・ヴィンチは「必要がないのに学ぶのは、食欲がないのに食うのと同じでカラダに悪いべ」と指摘してますけど、まあそういうことです。ニーズもないのにフォアグラのガチョウの様に知識を詰め込まれているわけで、考えてもみれば忘れて当たり前なんですよね。

で、二つ目の問題が、いまの教育システムが全般に創造性を毀損する枠組みで設計されているということです。脳科学者で「ブレインルール」の著者であるジョン・メディナは「人から創造性を奪いたいと考えれば、いまの大学・大学院の様なシステムの場所に送り込めばいい」と述べています。たしかに先述した偉大なイノベーターの多くは学校に通っていないか中退していますよね。彼らは、よく「学校を出ていないのに」という「But」の文脈で成功を語られますけど、もしかしたらそれは「学校を出ていないからこそ」という「Therefore」の文脈で語られなければならないのかも知れません。

そういえば、これは東大航空学科の加藤寛一郎先生に聞いた話ですけど、高卒と大卒が混じっている自衛隊の戦闘機パイロットのうち、エースパイロットになるのは「殆どが高卒」なんだそうです。「大卒のパイロットは大成しません」というのが加藤先生のコメントで、これは世界的に共通する傾向だというんですよね。でもこの話、成功したアントレプレナーの多くが大学をドロップアウトしているという話と、何かが通底しているように感じませんか?

ということで、最後は自分の経験から、これはとても単純に、僕がいまコンサルティングや講演や執筆というかたちで行っている知的生産のベースになっているストックの殆どは、仕事と独学を通じて形成されたものだという強い実感があるからです。率直にいって大学/大学院で学んだ知識はなんの役にも立っていません。

まあ僕の場合、専攻がビジネスとは何の関係もない「美術史」だったということもあるのかも知れないけど、じゃあこれが経営学になればなにか変わるのかとなると、どうなんだろうなあ。マッキンゼーの採用担当だった伊賀さんは、ご著書「採用基準」の中で「トップクラスのMBAでも授業内容はごく初歩的なもので実務には使えず、高額の授業料をまったく合理化できない」といった趣旨の指摘をしていますから、まあ状況はあまり変わらないのかも知れません。

ということで、クオリティの高い知的生産を行おうとすれば継続的な学習が必須であることは当然なんだけど、その際「では学校で」と考えるのも勿論いいんだけど、まずは「業務経験を通じて良い学びを得る」、あるいは日常生活のなかで「独学で良い学びを得る」ということを意識した方がいいんじゃないのかなあ、ということです。


Friday, June 21, 2013

「よいビジョン」の三要件


最近、あるきっかけがあって「よいビジョン」について考えています。で、考えに煮詰まった時にいつもそうするように、今回も寝っ転がりながら歴史書とか哲学書とかをパラパラとめくって考えを宇宙に飛ばしていたのですが、なにか見えてきたような気がするので共有しておこうかな、と。

なにが見えてきたかというと、

過去の歴史において多くの人を巻き込んで牽引することに成功したビジョンを並べてみると、どうも三つの共通する要素があるんじゃないか、ということです。

その三要素とは「Where」「Why」「How」です。

順に説明していきましょう。

  • Where」を提示する
共感できるビジョンに必要な三要素の一つが「Where」になります。「Where」とはつまり、「ここではないどこか」ということですね。これを明示的に見せることで「そこに行ってみたい」という共感を醸成することが、まずは必要になるということです。

これは以前のポストにも書いたことですが、リーダーというのは「ここ」から「ここではないどこか」へとフォロワーを引っ張っていく役割を担っています。で、ここがポイントなのですが、フォロワーを引っ張る際に「権限」に頼らず「共感」で動かすためには、「ここではないどこか」を、皮膚感覚に訴えるように提示して「自分たちもそこに行きたい」と思わせる必要があります。

この点について、あらためて「お手本だよなあ、これは」と思うのが公民権運動の指導者だったキング牧師の演説です。

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”I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood."

”私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です。”
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ううむ。こうやって読み返してみると、キング牧師がいかに「ここではないどこか」を感覚的に描き出す事に意識的であったか感じて頂けるのではないでしょうか?

でですね。翻って考えてみると日本企業のビジョンはこの点に関連して大きく二つの過ちを犯している様に思うんです。

一つは、過度に抽象的なビジョンを設定してしまう、という過ちです。

典型的には「○○の技術をフルに活用し、もって社会と取引先の発展に貢献する」といった様なビジョンですね。確かに、書かれていることそのものは絶対善といえるような内容で反論の余地がありません。ただ、ビジョンの要件である「共感」をこの文言からは喚起できないと思うのです。

なぜ?

抽象的過ぎるからです。ビジョンというのはつまり、明示化された「ここではないどこか」ということですが、余りに抽象的なビジョンを打ち出してしまうと「ここではないどこか」と「ここ」の違いが明確化できません。「ここではないどこか」と「ここ」の違いがよくわからない、ということであれば、では「ここ」からわざわざ苦労して動くことないじゃないかと、まあ普通の人は思いますよね。

じゃあということで、もっと具体的なビジョンを掲げようと思いっきり逆側に目盛を振ると、今度は二つ目の過ちを犯すことになります。

それは過度に定量化されたビジョンを設定してしまうというケースですね。具体的には「○○年までに、売上高××を達成する」とか「○○年までに、海外売上高××%を達成する」といったものです。しかしながら、やはりこのステートメントにも共感はできません。

なぜ?

人間は数字に共感できないからです。じっと手を胸にあてて考えてみて欲しい(©テリー伊藤)。もし、先ほどのキング牧師の演説が「わたしの目標値としては上級管理職に就いている黒人の比率を現在の5%か17%へ、また、現在8%と低迷している大学進学率を20%へと上げることを目標に善処したいと考えております」といった内容のものであったとすれば、彼の演説が世界を変ええたでしょうか。

フォロワーを共感してリードするためには、まず視覚に訴えかける様にヴィヴィッドな「Where」が必要になります。

  • 共感出来る「Why」を示す
よいビジョンに求められる次の要件が、共感出来る「Why」です。「ここではないどこか=Where」が示せたとして、わざわざ今いる「ここ」から「ここではないどこか」に移動するには、その移動を合理化するための納得出来る理由が必要です。

なぜ?

殆どすべての人は、長くいればいるほど「ここ」に対して様々な愛着やノスタルジーを覚えるようになるからです。愛着のある「ここ」を捨てて、わざわざ未知の荒野に踏み出して「ここではないどこか」を目指すためには、どうしても強く共感出来る「理由」が必要になります。

しかし、現在の日本において、この要件を満たすビジョンを打ち出せている企業は僕が知る限り殆どないのではないでしょうか。

共感出来る理由を示されないまま、組織内の権力に基づいて無理強いの行軍を強いられている、というのが今の日本企業で働く人々の状況ではないかと。先述した通り、日本企業の多くは具体的な「Where」の明示もしていませんから、これはつまり行き先不透明な場所へ向かって、その理由も告げられないまま、泥沼の中を無理に行軍させられている様なもんです。

グローバル化の推進、企業価値の拡大、顧客提供価値の拡大、売り上げの成長、そしてイノベーションの実現。多くの企業において「ビジョン」として掲げられているこれらの標題について、では「Why=なんのために?」と問われて共感出来る「回答」を提示出来るリーダーがどれほどいるのでしょうか?

人間が陥るニヒリズムについて徹底的に考え抜いた歴史上最初の人物は恐らくニーチェでした。ニーチェは、その著書「意思の力」の中で、人間がニヒリズムに陥るのはまさにこの「なんのために?」という問いに対して答えを持てなくなったときだと指摘しています。そして、今現在の日本企業で働く多くの人が陥っているのもこのニヒリズムなのです。

高度経済成長からバブル期にかけては、組織のリーダーが、この「なんのために?」という問いに対して答える必要はありませんでした。

なぜ?

社会的に共有されたコンセンサスとして「豊かになって幸せになるために」という回答が共有されていたからです。売り上げを伸ばす、コストを下げる、辛い接待に耐える、遅くまで残業で働く、環境を汚染しても生産を優先する、家族を犠牲にしてもモーレツに働く。

なぜ?

だって「豊かになるため」に、だって「幸せになるため」に。

しかし、2013年現在の日本に生きる我々は「経済的豊かさ」と「幸福」が必ずしも相関しないという哀しい真実を既に知ってしまっています。この様な時代において「豊かになること」を「Why」に設定しても、その組織に属する人々のニヒリズムを解消することはできません。

組織のリーダーには、経済的成長以外の目的で「Why=なぜこのままではいけないのか?」という理由を提示することが求められます。

  • 納得出来る「How」を示す
よいビジョンに求められる三つ目の要件が、ではどのようにしてそれを実現するのかの基本方針=「How」です。どこに行くのか?=「Where」、なぜ行くのか?=「Why」を示すだけでは、ビジョンの実現に向けた行動は駆動されません。なぜなら、人間は実現に対して懐疑的な営みには共感できないからです。詳細な実行計画ではなくとも、少なくとも「こうやったら確かにうまく行きそうだ」というパースペクティブがあって初めてエネルギーと生まれることになります。

ところが、この点についても日本企業の多くは、ビジョン(らしきもの)を出すだけ出して実現方法の考察は現場におまかせ、という状況のように思います。

するとどうなるか?先述した通り、多くの企業で打ち出されているビジョンは「過度に抽象的なもの」か「過度に定量的なもの」のどちらかですから、前者のケースであれば、結局何をすればいいのかわからないということになって変化は起きず、後者であれば、売上やシェアの増分だけ余計に働けというメッセージなのね、と受け取られることになります。

ビジョンを実現させるということが「ここではないどこか」に向かうという営みである以上、必然的に組織の構成員は、量と質の両面で「今までとは違う行動」が求められることになります。つまり、ビジョンの実現は最終的には必ず何らかの行動の変化が伴うわけですが、では何をどのように変えていくのかという指針が与えられなければ、彼らは最初の一方を踏み出すことが出来ません。この「最初の一歩」を踏み出すための大きな方向性を規定するのが、ではどのようにして=「How」なのです。

  • よいビジョンの例
これまで、よいビジョンとは共感出来るものであること、共感を形成するためには「Where」「Why」「How」の三つの要素が必要であることを説明してきました。実際に多くの人の心を捉え、行動を変え、結果的に歴史を動かすことになったプロジェクトや組織のビジョンの実例から、上記の三要素の打ち出され方について確認してみましょう。

まずは、ケネディが1961年に打ち出したアポロ計画です。アポロ計画において、ケネディは主にスピーチという形をとって様々な関係者に対して継続的に下記の様なコミュニケーションを行っています。

Where   
1960年代中に人類を月に立たせる

Why     
現在の人類が挑戦しうるミッションの中で最も困難なものであり、であるが故にこの計画の遂行によって米国および人類にとっての新しい知識と発展が得られる

How     
民間/政府を問わず、領域横断的に米国の科学技術と頭脳を総動員して最高レベルの人材、機材、体制をととのえる

アポロ計画は、ビジョンそのものが移動にまつわるものであるため「Where」はそのまま「月」という場所で示されています。後の要素についてもパイオニアスピリットを刺激しつつも極めて簡潔にポイントを押さえていますね。ちなみに米国民に向けてこの計画を最初に発表した際、多くのNASA職員は宇宙計画の縮小を覚悟していたと言われています。その様な状況下で、このスピーチを初めて聞いた時の彼らの驚きと興奮を是非想像してみて下さい。

歴史を振り返ってみれば、大きく社会を動かすことになったムーブメントというのは、明示的か非明示的かを問わず、上記の枠組みにそって人を共感させる理由をはらんでいるように思うんですよね。例えば、中世において度々実施された十字軍は、騎士や諸侯だけでなく民衆まで熱狂させましたが、この営みのビジョンについては下記の様に整理出来るかなあ、と。

Where   
聖都エルサレムを異教徒の手から奪回する

Why     
我々の神がそれを望んでおられる

How     
神の免罪を与えることで最も勇敢な騎士を集め、遠征させる

中世から近世まで、この「Why=神がそれを望んでいる」はいろいろな社会的なムーブメントにおいて「Why」を形成するために都合良く使われていますよね。十字軍は結果的に各地でさんざっぱら極悪非道な所行を繰り返していくので、関係者が本当にこの様な理想を胸に秘めていたかどうかは疑わしいのですが、少なくとも「人集め」の段階では、参加を募る側にも参加する側にも上記の様な合理化が働いていました。


さて、現代に目を転じて、この構造は同様にイノベーティブな民間企業においても観察される構造だといえます。例えばグーグルのビジョンを分析してみましょう。グーグルは時期やメディアによって様々なビジョンやミッションステートメントを出していますが、それらを総合してみると下記の様なメッセージになるかと思います。

Where   
世界中の情報を整理し、誰もがアクセスできるようにする

Why     
情報の格差は民主主義を危うくするものであり、根絶させられなければならない

How     
世界中から最高度の頭脳をもつユニークなタレントを集め、コンピューターとWEBの力を最大限に活用する

なんとも壮大な「Where」ですよね。また「Why」も極めて米国的な「絶対善」の概念に根ざしていてわかりやすく、「How」も具体的です。グーグルのマーケティングや採用活動は極めてユニークなことで知られていますが、このシンプルな「Where」「Why」「How」と個別の企業活動がちゃんとアライン出来ているという点からも、このビジョンが極めて組織成員に対して共感され、浸透していることが伺われます。


最後にお約束ですがアップルを見てみましょうか。アップルも、グーグルと同様に時期やメディアによって様々なビジョンやミッションステートメントを出していて、明示的に「これ」といったかたちでまとめるのは難しいのですが、ここはやや恣意的に僕の好きなコメントをまとめて整理すると下記のようにまとめられるかなあと思います。

Where   
人類の知性にとって自転車になるような道具をつくり、それを普通の人々に提供する

Why     
知は自由にする

How     
テクノロジーとリベラルアートの交差点をレバレッジする

スティーブ・ジョブズが上記の「Where」を打ち出したのは初代マッキントッシュの発表時でしたから(現在でもYoutubeで動画を確認出来ます)、かれこれ30年が経過しているわけですが、いまだに「人を共感させる」という側面で色褪せていませんよね。なぜ色褪せていないかというと普遍的な価値観をそこに含んでいるからです。

二足歩行する人間の移動効率は他の動物と比べてそれほど高いものではありません。しかし、この人間が自転車に乗るとその移動効率はコンドルやチーターばかりか航空機や自動車をも凌ぐことになり、地球上でもっとも効率のよい移動物体になります。あれほどシンプルで安価な、つまりだれでも手に入れることが出来る機械を得るだけで、人間は飛躍的に「ここではないどこか」へ移動する能力を向上させることが可能になるのです。

そしてスティーブ・ジョブズは、コンピュータを、人間の知性にとって同様のことを可能にするものにしたいと考え、それをすべての人に提供しようと企んだわけです。しみじみと、これは本当に人を奮い立たせる様な革命的な「Where」だよなあと思われるのです。

ということで、「よいビジョンの三要件」でした。


Thursday, June 20, 2013

サンダーバードからみえてくる「情報の国、英国」


友人の多くは既にご存知のことと思いますが、サンダーバードのテーマが死ぬほど好きです。

で、先日もいい具合に酔っぱらって、どれどれと思ってもう何十回と観たあの映像、つまりカウントダウンに合わせてサンダーバード五号から一号までを順番に紹介するあのイントロを、あらためてYoutubeで眺めていたのですが、そこでハタと気付くところがあってこのメモを書いています。


気付いたことというのは、サンダーバード五号の存在意義についてです。これ、劇中の映像をよく見てみると「SPACE MONITOR」と書いてあるんですよね。つまり、サンダーバード=国際救助隊の活動を支援するために宇宙から地球上のさまざまな活動やデータをモニターして、それを救助隊に連絡するという情報サービス機能を担っているんですよね。

でですね、子供向け番組に登場する主役級メカの、五台のうちの一台が情報サービスを担うスペースモニターであるということを知って、やっぱりイギリスというのは「情報」に対する感性が日本と違うのかも知れないなあ、と考えこんでしまったんですよね(注:よく誤解されていますがサンダーバードは米国ではなく英国のテレビ番組です!)。

この違いは、おそらく両国にとっての「外交の重さ」の違いから出てるんじゃないかと思うんですよね。

中世以来、イギリスは常に、フランスやスペインといった欧州の大国に怯えながら、針の穴を通す様な緻密で戦略的な外交によって生きながらえてきた、という側面があります。ものすごく単純化して言えば、イギリスというのは常にフランスとスペインという大国間の微妙なパワーバランスの拮抗によって延命してきた国ですよね。従って、どちらかが優勢になると必ずイギリスは弱者側について「ビミョ~」に支援し、パワーバランスの回復を図る様に動いています。

典型的には次の様な事例ですね。

1567年、欧州随一の猛将と謳われたアルバ公に率いられたスペイン陸軍の精鋭五万人がイギリスの対岸ネーデルランド(いわゆる低地地方)に進駐しました。これはもちろんイギリスにとって大きな脅威ですが、イギリスが低地に直接進出してこれを撃退することは国力的に無理があります。当時の国力を考えれば、これが出来るのはまあフランスぐらいしかないわけですが、フランスは当時ユグノー戦争(カトリック対プロテスタントの宗教内線)の真っ最中で、それどころじゃありません。

イギリスとしては、フランスを支援して内戦を一日も早く終わらせ、フランスをプロテスタント国家に仕立てなおした上でスペインに対抗させるというアイデアもありえたのですが、皮肉なことにイギリスにとって宗教的に支援しやすいプロテスタント勢力(ユグノー派)は、一貫して低地地方進出への野心を示しており、これはこれでどうも油断がならないし、そもそも国力の大きいフランスがスペインに代わって低地に居座るようなことになれば、イギリスにとってはより大きい脅威となります。

ということで、結果的にイギリスは下記のような「ビミョ~」な対策を打ちます。
1:スペイン王との個人的な関係(フェリペはエリザベスに惚れてた)を利用した撤退の説得
2:オランダのレジスタンスに対する秘密裏の支援(資金及び武器の提供)
3:海賊へ支援し、駐留スペイン軍への補給を妨害
4:それらしい「噂」を流して金融市場でスペインの信用を傷つけ、軍事資金調達を妨害

なんというか、ほかに言い様がないのですが、やっぱりものすごく「ビミョ〜」ですよね。イギリスの外交政策は、中世から近代にかけていろいろな原則からの逸脱や例外を含んでいますが、一点だけ「低地が軍事大国によって支配されることを許さない」という点については通底しています。

その原則を守るためにこそ、ギリッギリまで耐えながらも最終的にはフェリペ二世のスペインと、あるいはルイ十四世やナポレオンのフランス軍とも戦い、1914年にはドイツによるベルギー侵入を契機に第一次世界大戦への参戦を決めています。これは地政学の問題ですが、要するに「低地」がバッファとして空白地帯になっていることがイギリスにとっての安全保障だったということです。

ということなので、いくら同盟を結んだからといってフランスと共同してスペインと戦うなどというのはエリザベスにとっては悪夢でしかありません。フランスかスペイン、どちらか一方に急激にパワーバランスが傾くことは、そのままイギリスにとっての「死」を意味したからです。前述した通りですが、イギリスの生存要件の基本は、フランスとスペインという隣接する二つの超大国がつねに勢力を均衡させ、緩衝地帯でベクトルが打ち消しあってゼロになっている、という点にかかっていたからです。

つまりイギリスという国は「軍事力」よりも「外交力」によってこそ生き残ってきた国だということです。そして、この様な「精妙な外交力」を支えたのが、英国が保有する高度な「情報サービス機能」でした。英国の情報サービス機能の最大のポイントは、必ず外交官組織とは別系統の情報組織を作って情報をダブルチェックする体制を確保してきた、という点にあります。この基本方針は、現実に外交政策を立案する立場にあるパワーエリートは自己の政策的立場に有利になる様に情報をねじ曲げる傾向がある、という過去からの反省に基づいています。

内閣が直接に情報を取得するために設立されたのが英国情報局、つまりジェームズ・ボンドが勤務している MI6だって知っていました?やってはいけないよと諭すのではなく、人間とはそういうものだ、というシニカルな諦めの上にダブルチェックする体制を整えるというところがいかにも英国らしいですよね。

こういう「民族的な学び」を、子供向けの番組にもちゃんと反映させて、一種の啓蒙活動を行っているということに空恐ろしさを感じるんですよね。だって、子供たちが集まってサンダーバードごっこやったら、五人のうちの一人は「モニタリング=情報収集」の役になるんですよ!

ちなみにサンダーバードには、五号以外にも、人的ネットワークを使って様々な情報を集めてくるレディペネロープという諜報員も準主役キャラとして出てくるのでした。



ロンドン・エージェントだって。恐るべし英国。


Tuesday, June 11, 2013

ベンチャーキャピタルの衰退とアメリカの自浄作用

先日手元に届いたHarvard Business Reviewをパラパラとめくっていたら、興味深い記事を見つけ、いろいろと思うところがあったので備忘録代りに書いておきます。

記事の内容を一言で言えば、米国のベンチャーキャピタル(以下VC)がライフサイクルカーブでいう衰退期に入りつつある、というものです。曰く、

After peaking in the late 1990s, the number of active VC firms fell from 744 to 526 in the decade 2001–2011, and the amount of venture capital raised was just under $19 billion in 2011, down from $39 billion in 2001, according to the National Venture Capital Association.

まあ2001年といえばネットバブルの最盛期だったので、基準点の取り方の問題もあるのかもしれませんが、とはいえ10年で規模が半分以下になっているというのはかなりショッキングな数字ですよね。で、この数値を聞くと、スタートアップ企業への資金供給が難しくなっているのかなあ、と思われるわけですが、どうも事態は逆らしいんですよね。この記事によると、

But less venture capital doesn’t mean less start-up capital. Non-VC sources of financing are growing rapidly and giving entrepreneurs many more choices than in the past. Angel investors—affluent individuals who invest smaller amounts of capital at an earlier stage than VCs do—fund more than 16 times as many companies as VCs do, and their share is growing.

だったり、

Another new source of start-up investment is crowdfunding, whereby entrepreneurs raise small amounts of capital from large numbers of people in exchange for nonequity rewards such as products from the newly funded company.

だというわけです。

加えて、投資規模と並ぶKPIである運用についても状況は厳しいらしく、公表されている範囲内でも9割の VCの運用成績は株式市場の平均パフォーマンスを下回っていて、結果、

Industry's persistent underperfomance is finally causing institutional investors to think twice before investing in venture capital.

だというのですね。

ううむ。

で、ここまで読んで、VCの人にはとても申し訳ないんですけど、これはこれでいいことなのかも知れないなあ、と思ったんですよね。

もともと僕のVCに対する態度は微妙で、功罪が相半ばするよなあ、というものです。この場合、功は「スタートアップに資金供給を行うことで産業の新陳代謝を促す」というもので、一方の罪は「金持ちが金をエサにして情報を集め、その情報をもとに更に金持ちになることで格差を拡大している」というものです。

言ってみれば、生理的に嫌いだけどまあ仕方ないよな、というもので一種の「必要悪」だと思って諦めていたんですね。

ところが、この記事を読む限り、産業の新陳代謝を促す「功」の部分は急速に他の資金調達手段に代替されている。しかも、ここが重要なポイントなんですけど、その代替を担っているのがエンジェルやクラウドファンディングだということで、これはつまり「分散化」が進行しているということなんですよね。資金調達源が分散化するということは情報も分散化するということですから、これは情報の独占による富裕層の拡大再生産というメカニズムの破壊にも寄与することになるんじゃないかと思うんです。

一方、こういうことになると功罪相半ばしていたVCの存在の罪の部分だけが相対的にクローズアップされることになるわけで、今後はいろいろな側面で厳しい局面を迎えることになるのかも知れません。実際に同記事はかなり断定的に、

VCs will continue to play a significant, but most likely smaller, role in channeling capital to disruptive start-ups.

と結んでいます。

ということで、ここまでが記事内容の紹介なんですが、最後に、この記事を読んで少し考えたことを共有しておこうと思います。僕は、もしこの記事の結びに書かれた様なファンディングの多様化が起こるのであれば、それはもしかしたらアメリカという国が本当の意味で自浄作用を持っていることの証拠なのかも知れないと考えています。

かつてのポルトガルやスペイン、イギリス等の経済大国が衰退していく歴史的メカニズムを研究し、その大きな要因の一つを「富裕層の固定化である」と指摘したのは経済学者のキンドルバーガーでした。



彼は、それら「かつての経済大国」の勃興と衰退を精査し、その衰退要因の一つを「金持ちが社会システムを活用して金持ちを再生産する様になり、結果社会全体のバイタリティが低下した」ためだと指摘しています(ただし、例えば歴史家のトインビーはまったく違う要因を指摘してます)。そして、今現在のアメリカは、ジニ係数(=OECD諸国内で四位)や相対貧困率(=OECD諸国内で一位)等の各種の経済指標を見る限り、かつてのポルトガルやスペインと同じ様な「富裕層の固定化」という局面を迎えつつある可能性があります(厳密には格差と固定化は別の問題ですが)。

こういった「決定的な時期」に、政府というリバイアサンに頼ることなく富の再分配あるいは流動化を促すような社会的な変化が起きてきているということは、この国の自浄システムが非常に健全に機能しているということの証左なのかも知れないなあと、思うんですよね。もしそうなのだとすれば、これは本当にスゴいことだと、奇妙に興奮しています。








Monday, June 10, 2013

「現代のベートーヴェン」を聴きたいという心性


今日の午後、母校の経営大学院で「アートと経営学」というテーマで講演してきました。で、講演後にいただいた、個人的にはショッキングな質問について帰路ずっと考えるところがあって、ぜんぜん答えは出ていないのですが、その考察のプロセスをシェアしようかな、と。

どっから始めようかな。。。。

固有名詞を出すといささか刺があるので差し控えたいと思いますが、「現代のベートーヴェン」と言われる作曲家が、最近話題になっていますよね。

以前からその方の作品については一応知ってはいるのですが、個人的な評価については、うーん、なんというか、まあ保留とさせて下さい。僕に歴史的な審判を下す様な審美眼があるとは思えないし、時間というのは便利なもので恐らくあと10年も経たないうちに歴史が勝手に答えを出してくれると思うのでそれを待てばいいと思います。

ただ、最近ちょっと面倒くさいなと思う様になったのは、そういう曖昧な態度をとっている僕のことを「クラシック音楽に詳しい人」と誤解して、講演会やワークショップの後で、評価を求める人が多くなってきた、ということです。曰く「聴いてみたいんですけど、先生はどう思いますか?」と。大学院が美学美術史学専攻だからって専門はキュレーションだし、そもそもこの講演の主題は「イノベーションの起こし方」で全然関係ないはずなんですけど。。。

なんというか、聴いてみればエクリチュールも旋律の作り方も、確かにああなるほどベートーヴェンに似ているかも知れないなあと思うのですが、ただね「現代のベートーヴェン」と言われる作曲家に興味を抱くあなたは、ではまず、どれだけオリジナルのベートーヴェンの曲を知っているんですか?と聴くと、まあ想像通りの答えしか帰ってこないわけですね。せいぜい交響曲の数曲と、有名どころのピアノソナタだけしか聴いたことがないという、まあそういう状況なわけです。

でね、本当に、心の底から不思議だなあと思うんですよね。

ベートーヴェンは生涯で130余りの曲を残していますが、そのうちの片手で数えられるくらいの曲しか知らない人が、「現代のベートーヴェン」とマスコミで吹聴される人の曲を新たに聴いてみようかと思う心性が、すいませんそう思って居る人には本当に申し訳ないのですが、全く理解出来なくて、であればまずは当のベートーヴェンの曲をもっと聴いてみたらどうですか?と思うんです。だって歴史のヤスリにかけられて残っている以上、あっちの方がヒューリスティックに考えてクオリティが高いのは明白でしょう?

と、ここまで書いちゃってますが、メンと向かっては、まあそうは言わないで「ああ面白いかも知れませんね、いいんじゃないですか?」と適当にごまかしてます。

考えてみれば、「現代のベートーヴェン」と同様の構造をもつ「~の○○」というメタファーって、確かに沢山ありますよね。例えば南米のパリ=ブエノスアイレス、田園都市線の学習院=森村学院、森のキャビア=とんぶり、東洋のマイアミビーチ=藤沢市南部海岸(笑)等。

これらの構造を列挙した上で、そこに成り立っている関係性をここに解説する勇気を僕は持ちません。ただ指摘しておきたいのは「現代のベートーヴェン」という言い方が、ここに列挙した構造と同じものになっているんじゃないかなあ、という「感想」は確かにもっています。感想なので人それぞれということで、まあ反論は勘弁して下さい。

ということで、結論はないんですが「現代のベートーヴェン」と言われて、そういう音楽を聴きたがる人の心性が本当に不思議だなあ、だったら最初から古典にいった方が効率も喜びも高まるはずなのになあという気持ちと、これを知っているのはごく一部だけで、だからこそ情報格差が維持できているのかもなあ、と思う気持ちの両方が、焼酎に解けていく初夏の夜なのでした。






Tuesday, June 4, 2013

イノベーションにおける「意思決定2.0」の可能性

最近いろいろな場所でイノベーションに関する講演をやってて、その都度、イノベーションに関する意思決定は、杓子定規なルールや手続きに則るのではなく、リーダーによる「全人格的」な直観によって行われるべきだ、という話をしているんですが、将来的には、この「リーダーの直観」に変わる新しい意思決定のあり様が可能になるかもしれないよなあ、とぼんやり考えています。

それは、組織成員全員による集合的な意思決定の仕組みの可能性です。

こう書くと、おいおい例えばピッグス湾事件等の「集団浅慮」の問題を知らないのか?と思われる方もいらっしゃるかも知れません。確かに、一般に同質性の高いエリートが集まると「おバカな意思決定」をやってしまうという傾向があることは数多くの実証例で明らかにされていて否めませんよね。しかし、次の事例を読めば集合的な知性がもつ潜在的な力を認めざるを得ないのではないでしょうか?

19685月、アメリカ海軍所属の原子力潜水艦スコーピオンは、地中海で実施されていた軍事演習を終えてニューポートニューズへの母港へ帰る途中、1968521日夕方の定時連絡を最後に、消息を絶ちました。ノーフォークへの入港予定日は527日でしたがスコーピオンは同日になっても姿を見せず、アメリカ海軍はスコーピオンの遭難を発表するとともに捜索を開始しました。

さて、捜索する以上、まずは沈没場所を特定しなければいけないわけですが、これが悩ましい。というのも、海軍は、最後に報告をした際のスコーピオンの位置については把握していたものの、実際に沈没するまでにどれだけの距離を進んだかについてはまったく手がかりをもっていなかったのです。結局のところ、深さ数千メートルの海底を、30キロ四方に渡ってあたりをつけて捜索するという、途方にくれそうな捜索活動を開始します。

この捜索活動を推進するに当たって、捜索活動の指揮をとった元海軍士官のジョン・クレーブンは、確率論を応用した手法によって沈没位置を特定するというアプローチを採用しました。クレーブンは、スコーピオンに起こった可能性のある出来事を反映させたシナリオをいくつか作成し、数学者、潜水艦の専門家、海難救助隊などいろいろな分野の知識をもった人たちを集め、こうした専門家で意見交換を行った上で、「一つの結論を出してもらう」代わりに、各人にそれぞれのシナリオの蓋然性を個別に判断してもらいました。

クレーブンは、参加者の関心を引き付けるために「かたちだけでも」ということで賞品にシーバス・リーガルのボトルを用意し、参加者はスコーピオンにどんなトラブルが発生し、その結果、どのようにして沈降し、海底に衝突したかについて予測し、それを賭けさせました。こうして集まった断片的な予測を、クレーブンはそれぞれベイズ確立を用いて重ね合わせていき、最も濃い点となるポイントを推測沈没地点としました。

賭けに参加したメンバーのなかで、クレーブンが最終的に算出した地点を選んだ者は誰も居ませんでした。これはつまり、最終的に描き出された推測沈没地点は、純粋に集合的なものであって、集団の中の「誰か」の予測に収斂したわけではない、ということです。

結果は果たして、この集合的な推測は極めて正確だったんですね。スコーピオンが消息をたってから五ヶ月後、圧壊した潜水艦が海底に確認されますが、これはクレーブンが作成した推測沈没地点とわずか200メートルしかずれていなかったのです。

このエピソードは、集団の意思決定がうまく機能すると、その集団の中にいる最も賢い人よりもクオリティの高い意思決定をすることが可能になる、ということをよく示しています。そしてこの集合的知性の持つ可能性が、企業に新しい意思決定のあり方をもたらしてくれるかも知れない、と僕は考えているんです。

「消息を絶った潜水艦の沈没位置を特定する」という絶望的に不確実性の高い問題には、論理思考等のアルゴリズミックな問題解決アプローチはまったく通用しません。そしてそれは「未来においてどのようなサービスや商品がイノベーションとして普及することになるのか?」という問いについても同じではないかと思うんです。この様な問いに対して論理思考を用いてロジカルに回答しようとするのは不毛を通り越して滑稽というべきで、だからこそクレーブンはきわめてヒューリスティックなアプローチを採用していますよね。

ここで注意しておくべきなのは、集団による意思決定がきちんと機能するケースとそうでないケースがある、ということを認識しておくことでしょう。クレーブンが用いた意思決定のプロセスでは、「賢い意思決定を行う集団」に見られる四つの特性である、「多様性(バックグラウンドの異なる人々の集まり)」、「独立性(他者の意見に左右されない)」、「分散性(自分なりに情報を取得する手段がある)」、「集約性(意見を一つにまとめるメカニズムの存在)」の全てが、きっちりと押さえられていることがわかります。

僕が、いまこのタイミングで集合的な意思決定の仕組みを、イノベーションの実現という文脈において注目するようになったのは、ITの進化によって、上記の四つの条件を満たしながら、大きな負荷をかけることなく組織成員が意思決定に参画する、ということが可能になってきたからです。ルソーは社会契約論の中で、国民の意思が選良による代理を経ずにそのままダイレクトに政治に反映される「一般意思」の概念について述べていますが、僕が考えているのはまさにこの「一般意思」の企業版(パワードバイIT)だということです


これまで「経営管理=マネジメント」の世界では、手足を動かす大勢の人と、意思決定を行うごく一部の人、という構造が100年以上に渡って所与のものとされてきており、世の中の殆どの人はそれが当たり前だと思っています。しかし僕は、近代社会が標榜する「自由と平等」という絶対善に対して、社会の中でもっとも大きな影響力をもっている組織である企業が、真っ向から対立するシステムによって駆動されていることについてかねがね非常な違和感を覚えているんですよね。ITを通じた集合的知性の可能性は、経営管理のこういった「旧式のあり方」を破壊し、会社や組織の新しいあり方を可能にすることで社会における真の「自由と平等」の実現に寄与してくれるかも知れないなあ、などと考えています。