Tuesday, October 30, 2012

なぜソーシャルにハマるのか?



イノベーションに絡んで、組織論における報酬システムについていろいろと考えているのですが、ちょっとした気付きがあったので備忘録がわりに書いておきます。

なぜ、人はソーシャルメディアにハマるのか?という問いに対して、報酬系で説明が出来るかも知れない、と思ったからです。

報酬系に関する研究の嚆矢にスキナーという人がいます。大学で心理学の授業をとったことがある人はバラス・スキナーの名前を聞いたことがあるかも知れません。あの有名な、レバーを押し下げるとエサが出る箱=スキナーボックスを作って、ネズミがどういう行動をするかを研究した人です。

スキナーは、次の四つの条件を設定し、ラットがもっともレバーを押し下げる様になるのはどの条件下か、という実験を行いました。

1:レバーの押し下げに関係なく、一定時間間隔でエサが出る=固定間隔スケジュール
2:レバーの押し下げに関係なく、不定期間隔でエサが出る=変動間隔スケジュール
3:レバーを押すと、必ずエサが出る=固定比率スケジュール
4:レバーを押すと、不確実にエサが出る=変動比率スケジュール

さあ、貴方はどれが答えだと思いますか?

スキナーの実験によると、レバーを押し下げる回数は、上記の4→3→2→1の順で減少することがわかっています。

これはいわゆる「行為の強化」に関する実験ですが、行為は、その行為による報酬が必ず与えられるとわかっている時よりも、不確実に与えられる時の方がより効果的に強化される、ということです。

翻って、この実験結果を人間に当てはめて考えてみると、「不確実なもの程ハマりやすい」という生理的傾向が、社会の様々な側面に応用されていることがわかります。

まずわかりやすいのがギャンブルです。ラスヴェガスのスロットマシンも日本のパチンコも確率を変動させながら報酬を与える仕組みになっていて、これにハマる人が後を絶たない。

最近問題になったコンプガチャも、まさに変動比率スケジュールによってレアなガチャが出る、という仕組みになっているわけで、こういう領域で色々とサービスを開発している人の鋭さには本当に呆れるというか、まあ感服させられますね。

そして最後に思いつくのがツイッターやフェースブック等のソーシャルメディアです。もしかしたら「ソーシャルメディアが報酬系」と言われて違和感を覚える方も多いかも知れません。スロットマシンやパチンコはお金や景品という報酬があるけど、ソーシャルメディアにはどんな報酬があるの?という疑問ですね。確かにソーシャルメディアは金銭的報酬を与えてくれません。

ソーシャルメディアが人に与えてくれる報酬はドーパミンです。

気がつくとツイッターやフェースブックばかり見ている。メール受信の通知を見ると中身を確認せずにはいられない。こういった行為はドーパミンのなせる技だと考えられています。ドーパミンは、もともとはスウェーデン国立心臓研究所のアルビド・カールソンとニルスオーケ・ヒラルプが1958年に発見した物質です。

長いこと、ドーパミンは快楽物質であると考えられてきました。しかし、最近の研究では、ドーパミンの効果は人に快楽を感じさせることよりも、何かを求めたり、欲したり、探させたりすることであることがわかってきています。ドーパミンが駆動するのは覚醒、意欲、目標志向行動などで、その対象には食べ物、異性などの物質的欲求だけでなく、抽象的な概念、つまりすばらしいアイデアや新しい知見といったものも含まれます。

ちなみに最近の研究では快楽に関与しているのはドーパミンよりオピオイドであることがわかっています。ケント・バートリッジの研究によれば、この二つの系=欲求系ドーパミンと快楽系オピオイドは相補的に働くらしい。つまり人をコントロールするエンジンとブレーキの様な役割ということです。欲求系=ドーパミンにより特定の行動に駆り立てられ、快感系=オピオイドが満足を感じさせて追求行動を停止する。

そしてここが重要な点なのですが、一般に欲求系は快楽系より強く働くため、多くの人は常に何らかの欲求を感じて追求行動に駆り立てられているのです。

ドーパミンシステムは、予測出来ない出来事に直面したときに刺激されます。予測出来ない出来事、つまりスキナーボックスの実験条件=4の場合、ということです。

ツイッターやフェースブック、メールは予測出来ません。これらのメディアは変動比率スケジュールで動いているため、人の行動を強化する(繰り返しそれを行わせる)効果が非常に強いのです。

なぜソーシャルにはまるのか?それは「予測不可能だから」というのが、近年の学習理論の知見がもたらせてくれる答えだということになります。

一番上の絵はテオドール・ジェリコーの「賭博狂いの女」。ルーヴルを訪れたら是非見てみて下さい。何かにとり憑かれた人に特有の虚ろな目つきの表現がスゴいでしょ。こんな目にならない様に、みんなも気をつけてね。

Thursday, October 25, 2012

経営学はゴミ以外のモノを残せるか?

20世紀が終わって、21世紀も最初の10年を経過しましたが、さて21世紀は「人類の遺産」と言える様なものをどれだけ残せるだろうか?と考えるとなかなか暗澹とした気持ちになってしまいます。

米国で生みだされた経営学が世界を席巻することで、人類はますます「何も残せない社会」になっていくだろうなあと、改めて思うからです。

ファイナンス理論を勉強した人はよくご存知の通り(勉強というか、本を2〜3冊読めば十分理解出来る程度の奥行きですが)、企業価値は、なるべく短期間に商品を陳腐化させ、再購買してもらうことで大きくなる、という性格を持っています。

再購買、つまり一度買ったものを、いかに速く「ゴミ」にさせるか、という論点です。

例えばアップルとスタインウェイを比べてみるといい。スタインウェイのグランドピアノは、未だに50年前に製造されたものが高額な値を付けて中古マーケットで取引されています。スタインウェイのピアノが提供する実質的な便益は恐らく100年経っても殆ど変わらない、どころかむしろアンティークとして高まっていくことさえある。

一方で、現在世界最高の時価総額を謳歌しているアップルの製品の100%は、間違いなく50年後には、粉砕されてゴミ処理場に埋められて環境汚染の元凶になっているでしょう。

こう書くと「でも殆どの商品はいずれゴミになるわけで、スタインウェイの様な会社が特殊なんじゃないの?」という疑問が呈されるかも知れません。

そうその通りなのです。

スタインウェイも含めて、僕らが膨大な英知と労力を注いで日々生み出している商品は、長い目で見れば全てゴミになります。結局僕らは、究極のところ「いずれゴミになる、今現在は○○と呼ばれるモノ」を作って売っているに過ぎません。

問題は、それがどれくらいの時間でゴミになるか?ということです。

この点について僕が指摘しているのは、

1:アップルの製品は10年でほぼ100%ゴミになるけど、スタインウェイのピアノは10年後もほぼ100%、新品時と同じ便益を維持している

ということと

2:1の結果として、アップルの時価総額はスタインウェイより大きい

ということです。

つまり、ファイナンス理論に則って抽象化すれば、

3:パッと見、ものすごくクールに見えたり格好良く見えたりするものを作り
4:実はすぐに価値がなくなってゴミになるものを作って売る

というのを繰り返すことが、時価総額を大きくするには大事だ、ということです。

ゴミになる期間を短くすればする程、企業価値は大きくなり経営者は礼賛される。

そしてそういうテクニック=経営学をしっかり学んでいる人ほど、転職市場で高く評価される。

こういった現状を鑑みると、21世紀の世界が、人類にとっての遺産と言える様なものを残せるとは、とても思えないわけです。

20世紀において経済活動の規模は歴史上最大になったけれども、人類にとって本当に豊かな遺産を、その経済規模に見合った量だけ残せたか?と聞かれて、貴方はどう思いますか?

あるいは20世紀の100年間を通じて、一貫して最大の経済規模を誇った米国が、人類にとって本当に宝と言える様な文化やプロダクト、それはつまり平安文化やルネサンスやロマン主義が僕らに残してくれたような音楽や絵画や文物ということですが、をどれくらいその「規模に見合ったかたち」で残せているのか?と聞かれて、貴方はどう思いますか?

別に解があるわけではないですし、自分もその米国流の経営学の枠組みに則って日々コンサルティング業務を行っているので、忸怩たるものがあるのですが、少なくとも自分が立脚してる、あるパラダイムが、上述した様な極めて重大な問題をその構造に孕んでいるということに、我々は意識的であるべきだと、僕は思っています。

この根本的な構造的矛盾をなんとかしない限り、あまり明るい未来は人類にはないんじゃないか、と思うんですけどね。。。。

Tuesday, October 16, 2012

曖昧さが生み出す豊穣



あまりにカッチリキッチリしているものよりも、ある種の「曖昧さ」を宿しているシステムの方が、奇跡的な豊かさを生み出せるのかも知れない、とぼーっと考えています。

例えば音楽における「記譜法」がそう。

写真は、シューマンの交響曲四番の第一楽章29小節目から、あの有名な第一主題が始まるところだけれども、同じ十六分音符の音形の繰り返しでも、オスティナートを強調して弾くのと、そうしないのとでは全く出てくる音楽は異なることを僕らは知っています。

全く同じ楽譜を演奏しても、出てくる音は結果的に非常に多様である、という事実は、記譜法というシステムにはある種の「曖昧さ」が存在することを意味しています。

この「記譜法が包含するある種の曖昧さ」故に、僕らは、作曲家が想定し得なかった様な様々な演奏のバリエーションを楽しむことが出来、また音楽家たちは自己の存在意義を、これまでに存在する膨大な「名演」を横目に見ながらも、確認することが出来ます。

記譜法が、今以上に厳密な再現性を持っていたら、クラシック音楽はこのような豊かさを持つことは出来なかったでしょう。

曖昧であるがために産まれる豊かさもある。

この様に考えてみると、企業が産み出す豊かさ=イノベーションも、意図的にルースなガバナンスを取り込んだシステムの方が、何か予想も出来ないような豊かさを生み出すのかも知れません。

ただし完全に曖昧だと、それは記譜法を持たない音楽、つまり邦楽のように、弾く人によって全く出てくる音楽が異なってしまうということになって、それはそれで何かを得られるのだけれども、少なくとも再現性は失われてしまう。

ある、絶妙な幅の「あいまいさ」が必要なのでしょうね。