チェロ購入記 その後




このブログで「チェロ購入記」を報告したのが2010年の秋ですから、ほぼ2年後の「その後」についての報告です。

で、結論から言うと、やっぱり買って良かった、と思っています。

前回も書きましたけど、先生からの「是非、ドイツ製を」との指導を守り、色々な店で試し弾きさせてもらいましたが、作りの丁寧さ、音、表面の色合いや木目の好みなど、総合的に勘案して下倉楽器がドイツの工房に依頼して作っているオリジナルブランドのチェロを購入しました。

価格は50万円程度だったかな?ちょっと自分には高いかな、とも思ったのですが、「道具はいいものを選ばないと、どうせすぐいいものが欲しくなる」という個人的に何度もしている失敗から得られた教訓を踏まえて奮発しましたが、正しい判断だったと思っています。まだローンが残ってますけどね。トホホ。

本当にゆっくりとしたペースでしか練習が出来ていないのですが、継続は力なり、でなんだかんだ言って今はバッハの無伴奏チェロ組曲まで来ています。最初の一年くらいで苦労したのは何と言っても「右手の形」です。チェロの演奏では、弓を持つ右手をパンタグラフの様に使って、腕の動きは最小限にしながら弦の間を移動して行くのですが、これが難しい。今は出来る様になってしまったので、逆に何が難しかったのか、よく思い出せないのですが、これが安定するまでに一年半くらいかかったと思います。後は筋力かな。これはピアノも同じことですが、筋肉が出来上がらないと曲の途中で疲れちゃうんですよね。こればっかりは練習時間がとれないので何とも仕様がないのですが。

バッハの同曲は、小生がチェロをやってみたいと思ったきっかけの曲でもあるので、ついに来たか、と感慨もひとしおです。写真の楽譜は今練習している同曲の一番です。

この曲に取り組むことになったのは曲折がありまして、実は先生からは、次はベートーヴェンのチェロソナタを、と言われてしばらくそっちに取り組んだのですが、僕はまったく曲の魅力が理解できず、本当に練習が辛くなってしまって、ある日「先生、ぶっちゃけ、この曲嫌いなんですけど。バッハの無伴奏じゃダメですか?」とゴネて、曲を変更してもらいました。

チェロに関して言えば、バッハの同曲が旧約聖書、ベートーヴェンのチェロソナタは新約聖書と言われているくらいに、両曲でもってチェロ殿堂の伽藍は支えられているということになっているのですが、僕にしてみればその評価はいささか不当で、バッハの同曲に並び立つ弦楽器楽曲というのは、同じバッハのバイオリンソナタとパルティータくらいで、あとはちょっと他に並ぶものがないと思うんですよね。僕の耳が悪いだけかも知れませんが。

ということで、なんだかんだで続いているチェロの趣味に関してのご報告でした。


アクティブノンアクションの恐怖


忙しい、それなりの充実感もある、だけれどもどこかに空しさも感じている、というような場合、あなたは「アクティブ・ノンアクション」に陥っている可能性があります。

アクティブ・ノンアクションとは、ロンドン大学教授のスマントラ・ゴシャールの命名です。

厄介なのは、この罠に陥るのは、組織の中で「出来る人」と評価されている人達が多い、ということでしょう。しかもアクティブ・ノンアクションにはモメンタムがあって、一度その中に絡めとられてしまうと加速度がついてそのまま走り続け、ついにはモメンタムの中にいることすら見失ってしまう傾向があります。

つまり、そのままキャリアのピークを超えてしまい、晩生になってから「あれ?」と気づくことになる、ということです。

大好きなミハエル・エンデの傑作「モモ」には、灰色のスーツを着た「時間泥棒」に少しずつ時間を奪われていく大人たちが描かれていますね。時間泥棒と戦うモモの姿にドキドキした人達も、大人になって自分たちがアクティブ・ノンアクションの罠に絡めとられて灰色のスーツの男たちになってしまっていることに、なかなか気がつきません。

ゴシャールの調査によれば、マネジャー層の約4割がアクティブ・ノンアクションに陥っていることがわかっています。結構な人達が灰色のスーツの男たちになってしまっているわけですね。

そういえばギリシアの哲学者セネカもアクティブ・ノンアクションの危険性を指摘していましたね。セネカはその著書「人生の短さについて」において、アクティブ・ノンアクションを絶妙に「怠惰な多忙」と表現しています。

セネカ曰く、

「多忙な人間は何事も十分に成し遂げることが出来ない。多忙な人が「よく生きる」ことは稀である」

あるいは

「諸君は永遠に生きられるように生きている。満ちあふれる湯水でも使う様に時間を浪費して」

マルクス・アウレリウスもまた、「自省」によって、よく生きる術を見いだすことを説いた人でした。

そしてまた現代においても、例えば経営者の行動を深く研究したヘンリー・ミンツバーグは「忙しい現代人に本当に必要なのは、知識やスキルを積み込むためのMBAやブート・キャンプではなく、自分を内省する経験だ」と一貫して強く主張しています。

毎日を多忙に過ごしているにも関わらず、本当に人生にとって重要で意義があり、真の充足感をもたらしてくれる何かについて、自分は見えていないな、と思われたなら、もしかして貴方もアクティブ・ノンアクションの罠に絡めとられているのかも知れません。

キャリアにおける「逆張り」のススメ

先日出版した「天職は寝て待て」にも書いたことですが、いわゆる専門家の予測というのは、実はかなり外れることがわかっています。

例えば過去に提示された、人口、石油価格、景気に関する予測は殆どが大きく外れている、ということが、先日出版された「専門家の予測はサルにも劣る」にも、これでもか、という程の豊富な事例とともに示されていますね。

で、つまり「予測というのは外れるものだ」ということなのですが、思考を「ああ、そうですか」というところで止めてしまうと、あまり面白くない。その先にさらに「外れることがわかっているのに、皆それを必死に求めようとする」ということを考えてみると、いろいろと戦略面での示唆が出てくると思うのです。

例えば、この二つを組み合わせると「逆張りせよ」というのが、回答になります。

そう言えば思い出したのですが、古巣のBCGでも、ユニークな戦略とは往々にして逆張り発想から生まれるもんだよ、と指導されていました。

そういうことを考えてみると、昨今、よく雑誌で特集されている「10年後食える仕事」とか「人気の資格ランキング」とかいうのも、逆に利用する考え方の方が面白いかも知れません。

考えてみれば、150年前の古典派経済学の時代から、報酬は雇用の需要と供給のバランスで決まる、と教えているわけで、「人気の資格」とか「食える仕事」とか言って、人がたくさん集まったら、当然給料も下がるし雇用の需給バランスも供給過多に振れるに決まっているのにな、と思うんですけどね。

僕は前著で「10年後に食える仕事」とか「将来人気が出る資格」なんて言う予測は結局外れるんだから、目の前にある面白そうな仕事に一生懸命取り組む以外にキャリアを作る方法なんてないんだよ、と述べましたけど、よりはっきりとそういった予測が外れるのであれば、むしろそういった予測の中で「10年後食えない」とか「人気が絶不調」といった職業を、敢えて選ぶというのも、ありなのかも知れませんね。

民主主義とイノベーション

組織開発の実務家という立場から、イノベーションの研究をしたり、イノベーションを加速したい企業のコンサルティングに従事したりしてひしひしと感じているのが、多数決で決まったアイデアにロクなものはない、ということです。

これは、最近出版された「イノベーションの理由」(武石彰、青島矢一、軽部大:有斐閣)にも描かれていることだけど、成功したイノベーションの多くは強烈な個性をもった人材(皆が右行くならおれは左というタイプ)によって主導されています。

つまり、イノベーションというのは集合的な意思決定のメカニズムによっては生み出せないということです。

このことはつまり、民主主義というのはイノベーションとなじみが悪い、ということでもあります。

ここで出てくるのが、いわゆる熟議制民主主義の体現国家である米国が、なぜイノベーションにおいても世界をリードしているのだろうか、という疑問でしょう。だって矛盾しているでしょう?

熟議とはつまり、議論をつくす、ということですね。敵対的な意見をもった他者とでも議論をつくすことで、全体にとってよりよい意思決定をやっていく、というのが熟議制民主主義の考え方ですが、イノベーションというのはそういうプロセスで生み出されるものではないことが、これまた様々な研究からわかっています。

一方で、熟議を尽くす事が苦手で、いまだに未成熟な民主主義でなんとなく社会を動かしている日本では、イノベーションがうまく起こせていない。

つまり、民主主義とイノベーションは折り合いが悪い、というのは外形的にわかっているのだけど、世界を見渡してみると、バカ正直に民主主義を信奉してマジにやっている国=米国においてこそ、い野ベーションは活性化していて、なんちゃって民主主義でこなしている国=日本では、なぜかイノベーションが停滞している、とこういう構図になっているわけです。

これはどういうことなのだ、と。

一つカギになるのが、意見の多様性と意思決定のリーダーシップという問題ではないかと考えています。熟議制民主主義では、自分の思ったことを「口に出す」ことが求められます。スピークアップしろ、ということですね。これがあって初めて、様々な立場にある人の様々な意見が表出し、その情報をもとにすることで、多数決でもクオリティの高い意思決定が出来るということですが、これは実はイノベーションにおいても同じことが言えるのかも知れません。

イノベーションにおいては、多様な意見の表出がカギになることがわかっています。要するに民主主義とイノベーションの違いは、後半の決めるところ、つまり民主主義は多数決で決める、イノベーションは誰かが一人が決める、という点での違いだけであって、前半の「議論を尽くす、スピークアップする」という点では求められるものが似ているのかも知れません。

すいません、全然まとまっていないんですけどね・・・・

コレクティブパワーは権威を凌駕するって本当?


個々の力は弱くても、集合すればすごい力になる、というのがcollective powerの考え方で、このアイデアは、ネットが登場して以来、とても人気がある。

で、その事例として、食物連鎖の中で劣位にある鳥類の群れが、上位にある捕食者を駆逐する映像を用いたプレゼンテーションがTEDに流れていた。

http://www.ted.com/talks/don_tapscott_four_principles_for_the_open_world_1.html

これは、映像的には大変美しく、また弱い鳥が捕食者を駆逐する様は非常に印象的でもあるのですが、本当に鳥の群れの様な集合的力が、大きなパワーや権威に打ち勝てるのかどうか、となるとなかなかこれは難しいよ、というのが僕の考え方です。

というのも、もともと鳥の群れは、

1. 他の鳥が多くいる方向に移動する=Cohesion
2. 障害物や他の鳥とは一定の距離を保つ=Separation
3. 近くにいる鳥の向かうのと同じ方向とスピードを保って飛ぶ=Alignment

という条件付けでシミュレーション出来ることがわかっています。

クレイグ・レイノルズは、1986年に開発した群れの行動をシミュレーションするプログラム=Birdoid(鳥モドキ)で、上記の条件付けでコンピューター上に鳥の群れを再生させたわけですが、しかし、こんな条件を組織の成員に対して課したら、それこそ全体主義になってしまいます。

同じところに皆がどっと集まる、同じ方向に向かって飛ぶ、というのはそれこそ戦前の日本やドイツで起こったことで、つまりファシズムです。

カモメのジョナサンじゃないけど、群れがあっちに飛ぶならオイラはこちら、という個性がイノベーションには必要わけで、鳥の群れの様な行動を組織に課しても日本の停滞を止めることにはならないと思う。

上記のプレゼンテーションは大変人気があるみたいで、色々なところで引用されていますが、映像の美しさや印象の深さと、その群れを動かしている実際の意思決定の仕組みとそれがもたらす影響については分けて考える必要がありますね。