Thursday, May 24, 2012

僕らは全てハンディキャップトである


英語では障害者のことを「handicapped」といいますね。

「ハンディを負った人」ということですが、しかし、そういう言い方をすれば、そもそもハンディなんて程度問題であり、ハンディのない人なんてこの世に居ない、とも言えます。

要するに障害者は、Significantly handicappedということで、まあ普通の人はFairly handicapped、恵まれた人ではSlightly handicappedということになるのではないでしょうか。

例えば、どうしようもなく顔が悪い、メチャクチャ足が遅い、極端に脚が短い、ド短気、そばによりたくない程の汗っかき、信じがたいほどの口下手、救いようがないほど服のセンスが悪い、目つきがゴルゴなみに悪い・・・こういったことは全部、そうでない人に比べて

Handicapped

と言えるのではないかということです。

で、そう考えてみて、自分にとっての意味合いが変わって来るのが「パラリンピック」です。

あれは、大きなハンディを負った人が尚、そのハンディを乗り越えてパフォーマンスを発揮しようという意欲を持って挑戦する場であるけれども、彼らと比較して僕たちの多くが、なんとまあハンディを「しょうがないよ~」と言って安易に受けて入れてしまっているか・・・

We are all handicappedなんですよね、だって僕らは人間で神様じゃないんだから。そういう「欠けたもの」だからこそ、神は僕らを愛おしんでくれる、というのが聖書の教えだしね。でも、そのハンディを乗り越える勇気を、あのイベントは与えてくれるんですよね。

パラリンピック、是非日本で見てみたいものです。



Thursday, May 17, 2012

「生きにくさ」と「多様性」と「コンビニ」

昨今、生物多様性がよく取り上げられますが、イルカとかクジラとかも大事かも知んないけど、生物の中でも最も喫緊に多様性を回復すべきなのは「日本人」じゃないか、という気がしています。

多様性が許容されるということは「あなたがあなたらしくある状態の、そのままでいいんだよ」ということですよね。ところがここ何十年も、日本はどんどん「個人が個人らしくあること」を許容できる社会ではなくなっていて、ある特定の科目や領域が得意な人だけが他者や社会から認められて、その他の人は、その「認められる人」の様になれ、という圧力を、子供のころからずっと受け続けるという状態になっています。圧力を受けている当人も、認められる人の仕事のやり方を真似る様なマニュアル本を買って、一生懸命ないものねだりをしていたりして、本当になんだかなあ、という気にさせられます。

この閉塞感が、日本の自殺率の高さにもつながっていると思うんですよね。

日本の自殺率はOECD諸国の中でも最高位に高く、絶対数値としては年間で3万人の人が自ら命を絶つという、実に痛ましい状況がずっと続いています。

これがどれくらいの人数なのか、みんな感覚がマヒしているんじゃないかと思うのですが、例えば政令指定都市の人口は、那覇が30万人、鹿児島が60万人なので、10年で「那覇市の人口の全員が自殺して街が消滅」、20年で「鹿児島市の人口の全員が自殺して消滅」という状況なんです。とんでもないですよね・・・

で、すぐには解消できない問題なのかも知れないけど、個人的には、いろいろな個性を持った人が、その個性なりに幸せや人生のやりがいを追求できるような社会にすることで、この問題の解決の一助にしたいと思っていて、そのために、「人格多様性礼賛」を、いろいろなところで書いたり発言したりしている昨今です。

僕自身、相当イレギュラーな人格で、子供のころからはみ出してばかりいたせいで、殆どの学校の先生からは蛇蝎の様に嫌われていたのですが、幸いに非常に鈍感だったり、たま~に認めてくれたりする人がいたせいで、なんとか角を丸められずに生きて来られたという実感があります。で、多くの人にもそうあって欲しいな、と。

社会全体で価値観の多様性を回復させようとした時、大きく問題になって来ると思っているのがコンビニです。コンビニの棚をご覧になればすぐわかる通り、いろいろなジャンルの商品の中でも、基本的に一位、まれに二位までの商品が入っているだけですよね。これはつまり、ある商品カテゴリーについて「一位」と「二位」以外の存在は認めない、というシステムです。

例えばオレンジジュースを取り上げて考えてみると、いろいろな人が居て、いろいろなオレンジジュースの好みがあって、いろいろなオレンジジュースをつくる、いろいろな人が居る、というのが健全な姿だと思うのですが、コンビニにはオレンジジュースは一種類か二種類しかありません。現在のコンビニの飲料流通におけるシェアは大変高いので、コンビニに入らないということは既にその時点で飲料メーカーとして、そのブランドを存続させることは難しいということなんですよね。

つまり、コンビニの棚に一位と二位のオレンジジュースしか入らない、ということは、極端に言えば「世の中にあるオレンジジュースは二種類でいい。それ以外の存在は許さん」とコンビニが規定しているということです。これは何もオレンジジュースに限ったことではなく、あらゆる商品カテゴリーにおいてそうなっています。これは「世界における多様性の回復」という点から考えた場合、まさにトンデモない事態だと思うわけです。

コンビニが一位と二位の商品しか基本的に扱わないというのは、狭い店舗に様々な商品カテゴリーの商品を機会損失をミニマムにしつつ置こうとするからで、これを解決するにはコンビニの店舗そのもののスタンダードサイズをデカくするか、あるいは商品カテゴリーごとに専門店舗をつくって、それを集積させることで利便性は維持する、ということが考えられます。

店舗サイズを大きくすると土地の面積も建設費も、サイズの増分に比例してリニアに増加しますが、一方、収穫逓増の法則が働くため、サイズが大きくなって品ぞろえが増加した分ほどには売上はリニアには増加しません(三位、四位の商品を置くための棚を設けても一位、二位の商品ほどには売れない、ということ)。従って、店舗サイズを大きくすると恐らく企業全体の収益性は悪化するので、この方法は上場企業が多いコンビニには難しいでしょう。

そうなると、後者に是非トライしてもらいということなのですが、いかがでしょうかね・・・
少なくとも僕は、なるべくコンビニで買わないで、いろいろなものを地元の専門店で買う様にしています。ささやかな反逆ですけどね。

Wednesday, May 16, 2012

KYのすすめ

いま、ある消費財企業のお客様と、イノベーションの推進というテーマでプロジェクトを行っているのですが、ひしひしと感じているのが、
「止める勇気」
についてです。
社会学を学ばれた方は、聞いたことがあるかもしれませんが、グループダイナミクスという概念があります。
全体の議論がある方向に流れ始めると、そこにイナーシャが生まれて少数の反対意見が呑み込まれてしまう、あるいは反対意見を云える雰囲気すらなくなってしまい、全体が持っている思考の多様性が、組織運営に活かされなくなってしまう、という考え方です。
で、僕は常々、日本人はグループダイナミクスに対して脆弱だと思っていて、これが日本企業の成長を阻害する大きな要因になっていると考えています。
空気が読めない、というのは一時期ダメサラリーマンの特徴みたいに言われたことがありますが、空気を読む、というのはまさにグループダイナミクスを理解するということなので、空気を読むのが得意な人ばっかりになったら、とてもじゃないけどイノベーションなんて起こせません。
空気を読む、ということの弊害を一番強く感じるのが「開発中止」の局面です。誰がどう見てもうまくいかないだろうという商品が、なぜか開発されてしまう。関わった人に後になって聞いてみると「いやあ、うまくいかないだろうと思ってました」と、異口同音に言う。ではなぜ、開発のストップを上申しなかったのか、ということになるのですが、ここで出てくるのが「空気」なんですよね。皆さん、グループダイナミクスに支配されてしまって、本当に言いたいことが言えなくなってしまう。
これはかつての日本軍で起こったのと同じことです。
是非、皆さんも、空気など読まず、ひどいと思った企画には「なにこれ、ヒドイね。誰が買うの?あり得ないでしょ」と、堂々と主張しましょう。その行動について、僕は責任取れませんが、皆さんがそのように行動することで、確実に日本は少しだけ、強くなりますから。

Tuesday, May 15, 2012

安易病の蔓延

最近、ますます「安易病」が蔓延しているように思います。
例えば、本屋をぶらついていると、やたらと「一日で身につく論理思考」とか「英語はたった四つの単語で話せる」といった、「すぐに出来ますよ」系の本が目に付きませんか?
これらの本の著者にとって、論理思考が出来るとか、英語が話せるというのが、どのレベルのことを差しているのかわからないのですが、日常の仕事で論理思考を使いながら、海外のお客さんや同僚と英語で仕事をしている人にとっては、そんなことがあり得ないのはお日様が西から昇らないのと同じくらいに自明なことであって、こういった書籍を買って読む人は本当に気の毒だな、と思ってしまいます。
英語も論理思考も地道な修練を長年積み重ねることで初めて使いこなせるようになるもので、それを避けて手っ取り早い要領ばかり学んでも結局は時間の無駄になるだけでしょう。
この場合、罪作りだと思うのが、こういった「安易系」の知識やノウハウをいくら小口で勉強しても、それが積み重なって高いビルになることは決してない、という点です。小説やビジネス書を原書で読む、映画を英語字幕で見る、といったことは、とても小さな学習効果しかないかも知れませんが、繰り返していればやがてそれが積み重なって大きなビルになります。しかし、こういった安易系の小さな努力ではそれを期待できないのが哀しいところです。
軍事においては、戦略資源の逐次分散投入は最も忌避されるものですが、こういった安易系の努力はまさに、自分の時間と頭脳という戦略資源を逐次分散投入し、無為に浪費していることに他なりません。