Tuesday, October 16, 2012

曖昧さが生み出す豊穣



あまりにカッチリキッチリしているものよりも、ある種の「曖昧さ」を宿しているシステムの方が、奇跡的な豊かさを生み出せるのかも知れない、とぼーっと考えています。

例えば音楽における「記譜法」がそう。

写真は、シューマンの交響曲四番の第一楽章29小節目から、あの有名な第一主題が始まるところだけれども、同じ十六分音符の音形の繰り返しでも、オスティナートを強調して弾くのと、そうしないのとでは全く出てくる音楽は異なることを僕らは知っています。

全く同じ楽譜を演奏しても、出てくる音は結果的に非常に多様である、という事実は、記譜法というシステムにはある種の「曖昧さ」が存在することを意味しています。

この「記譜法が包含するある種の曖昧さ」故に、僕らは、作曲家が想定し得なかった様な様々な演奏のバリエーションを楽しむことが出来、また音楽家たちは自己の存在意義を、これまでに存在する膨大な「名演」を横目に見ながらも、確認することが出来ます。

記譜法が、今以上に厳密な再現性を持っていたら、クラシック音楽はこのような豊かさを持つことは出来なかったでしょう。

曖昧であるがために産まれる豊かさもある。

この様に考えてみると、企業が産み出す豊かさ=イノベーションも、意図的にルースなガバナンスを取り込んだシステムの方が、何か予想も出来ないような豊かさを生み出すのかも知れません。

ただし完全に曖昧だと、それは記譜法を持たない音楽、つまり邦楽のように、弾く人によって全く出てくる音楽が異なってしまうということになって、それはそれで何かを得られるのだけれども、少なくとも再現性は失われてしまう。

ある、絶妙な幅の「あいまいさ」が必要なのでしょうね。

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