Wednesday, August 1, 2012

学びにおける「身体性」



日本の経営学者は全般的に元気がないよね、というやりとりをここ数年、職場の仲間やクライアントとするのですが、だいたいそういう文脈において出てくるのが、日本の経営学者は研究ばかりやっていて臨床をやっていないからダメなんだよ、という話です。

あまり知られていないことなのですが、有名なハーバードのマイケル・ポーターやクレイトン・クリステンセンといった人たちは自分の会社をもっていて、そこで戦略コンサルティングファームも顔負けの高額のフィーでコンサルティング活動を行っています。つまり、大学での研究と実業界での臨床との、両方の活動をやっているわけで、これが大きな違いだと、まあそういう主張なんですが、僕もその通りだと思います。

1980年代から90年代にかけて、人工知能がホットな話題になった時期がありましたね。立花隆さんなんかが著作のなかで、早晩人間の子供くらいの知能レベルになるんじゃないか、と書いたりして、その天使的な楽天さが関係者にひんしゅくを買ったりしていた時期ですが、その後、人工知能はあまり話題にならなくなってしまいました。

一言で言うと、壁にぶつかって進歩しなくなってしまった、ということなのですが、その際、人工知能の進歩の問題を「身体性」という問題から論じている人が、僕が知る限り数人いらして、それは非常に説得力のある仮説だと思っています。つまり、人工知能というのは要するに「脳」を作る、という研究なわけですが、脳だけ作っていても知能が進化しないのは、身体がないからではないか、ということです。

脳と身体の関係は、単純に「脳=指令者」、「身体=被指令者」といった一方向的なものではありません。確かに脳は意思決定を下して身体に命令を下すわけですが、身体活動の結果得られた色々な情報が、脳にフィードバックされることで脳が進化する、という側面もまたあります。

これは小さな子供を見ているとよくわかるのですが、最初はヨタヨタしながら歩いていて、すぐ転んでしまうのが、数カ月もするとかなりうまく歩いたり走ったり出来る様になります。つまり、脳が作る「歩く」とか「走る」といった動作プログラムを、うまく歩けなかったり、転んでしまったりという体験を通じてどんどんバージョンアップさせているわけですね。子供を見ていると、人工知能が身体性をもたないが故に進化しない、という仮説は非常に納得感があるわけです。

で、最近、これもまた「頭だけで考えると、やっぱりダメなんだな」と改めて思いだされたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの話です。

ボーヴォワールは20世紀フランスの哲学者ですが、むしろそういう肩書よりもサルトルの奥さんだった人、といった方が通りがいいかも知れません。このボーヴォワールという人は、今で言うフェミニストの走りで、社会的な圧力によって押し込められる女性の可能性の解放を激烈に謳った人です。で、そういった主張がてんこ盛りになっている「第二の性」という著作があるのですが、その本の冒頭で彼女は、”On ne naît pas femme, on le devient=人は女に生まれるのではない、女になるのだ”と述べているんですね。この言葉は、アフォリズムとしても簡潔でわかりやすいこともあって、20世紀後半には様々な場所で人口に膾炙することになったわけですが、これはやっぱり、「頭だけでモノを考えた人」の言葉だなあ~、と最近しみじみと考えてしまうのですよね。

なぜかというと、ボーヴォワールには子供が、それも女性の子供がいなかったからです。

実際に女の子を育てたことがない女性が、女性がどのように女性になるのかというジェンダー論を展開していて、あの様なコメントを残しているわけですが、実際に二人の女性を子供に持つ僕からすると、ボーヴォワールのこの主張は、なんというか、痛々しく思えてしまうんですね。というのも、実際に女の子を育ててみれば、彼女たちが「女性」というステロタイプで社会的な鋳型に嵌められることで女性らしさ=いわゆるジェンダーを形成する、という側面ばかりでもないことが、皮膚感覚としてわかるからです。

すごく単純な話で、一歳の女の子は、一歳の男の子と全然違うのです。例えば、うちの下の女の子はいま一歳ですが、既に大好きなモノは「靴」、「ハンドバック」で、これはもう明確にリトル・レディなんですよね。

ボーヴォワールは大変な秀才で、上級教員試験=アグレガシオンを全国二位で通過していますが(ちなみに一位はサルトルだった)、いくら頭の良い人でも、机の上で考えるばかりでは真実は理解できない、ということをこのことは示唆しています。そしてそれは経営学の世界でも事業の世界でも、まったく同じことだと思うんですよね。これは自戒の意味も込めてここに書くのですが、本やパソコンのモニターを通じて世界を体験するということと実際にその場に行ってみたりやってみたりして、自分という楽器を思いっきり鳴らす様な体験をするということでは、学びのクオリティという点では天と地の開きがあるのです。

ということで、言葉にしちゃうと陳腐なのですが、現地現物主義、研究と臨床のバランスというのを改めて心掛けていきたいと思ったのでした。

写真はチェ・ゲバラと対談するボーヴォワール。隣はサルトルですね

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