年々歳々花相似、年々歳々企業不同

表題はもちろんパロディで、実際は

年々歳々花相似、年々歳々人不同

という唐詩選の歌です。

意味は・・・栄華は移ろいやすいものだ、という感じでしょうか。

実際には、

洛陽城東桃李花  洛陽城東 桃李の花
飛来飛去落誰家  飛び来たり飛び去って誰が家に落つる
洛陽女児好顔色  洛陽の女児 顔色好し
行逢落花長歎息  行くゆく落花に逢うて長歎息す
今年花落顔色改  今年花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在  明年花開くも復た誰か在る
已見松柏摧為薪  已に見る 松柏の摧けて薪となるを
更聞桑田変成海  更に聞く 桑田(そうでん)の変じて海と成るを
古人無復洛城東  古人無復洛城の東に無く
今人還対落花風  今人還た対す 落花の風
年々歳々花相似  年々歳々、花相い似たり
歳々年々人不同  歳々年々人同じからず
寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子
応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁

という長い詩の一部です(赤字部分)。

で、ちょっとしたことを思い出して、これは「人不同」とするよりも「企業不同」とした方が面白いな、と思ったものですから遊んでみました。

そのちょっとしたこと、というのはバブル絶頂期、1989年の時価総額世界ランキングの順位です。

これを今から見返してみると、上位20社のうち日本企業がなんと15社となっています。一位はNTT、二位が日本興業銀行となっていて、以下、日本企業がズラ~と並んでいます。

まさしく、世界最強の経済国家だったんですねえ・・・日本興行銀行の時価総額は、当時のゴールドマン・サックスのおよそ10倍となっていて、もちろん金融機関の時価総額としては断トツの世界最高額です。

巨大で稠密でパノラミックな作品で知られる写真家のAndreas Gruskyは大好きなフォトグラファーの一人ですが、彼の作品に東京証券取引所を俯瞰で取った一枚があります。


人やモノや家畜やゴミがワシャ~ッ!と集まった場所を俯瞰で撮る、というのがグルスキーの十八番だから、これもその一環で取られた一枚だと思うのですが、やっぱり一流の写真家の嗅覚というのはスゴイものだな、と改めて考えさせられるのが、この写真をグルスキーが撮ったタイミングです。

グルスキーは、まさしくバブル絶頂期の1989年にわざわざ日本を訪れてこの写真を撮っています。

日本の強さが永久に続くと、当の日本人はもちろんのこと、世界中の人が考えていた時に、なぜ、このタイミングで東京証券取引所の写真を残しておこうとグルスキーが考えたのか?

それはわかりませんが、撮るべきタイミングをやはり逃さないな、と改めて思うわけです。何かに引き寄せられたのかな?東京証券取引所を突き抜けていくリビドーの総量は、この時期が最高だったでしょうからね。

一方で、Marketgeekが先日発表した2012年3月時点での時価総額の世界ランキングを見てみると、上位20社の顔ぶれは、
米国企業=13社
中国企業=03社
あとはオランダ、英国、韓国、ブラジルが一社ずつとなっています。

日本企業はトヨタ自動車の36位が最高位ですね。

ふう・・・

たった、20年ちょっと前の話ですよ・・・

だから、年々歳々花相似、年々歳々企業不同、と思ってしまったんですよね。

でも、これって逆のことも意味していますよね。

たった20年でランキング上位の日本企業は、ランキング外に脱落するどころか、破綻したり消滅したりしている会社も多くいのですが、ということは逆に現在上位にランクインしている米国企業が、20年後にやっぱりそうなっているかも知れない、ということです。
僕らに出来ることは、昔は良かった、とノスタルジーに浸ることではなく、20年でランキングなんていくらでもひっくり返る、つまり、ファイヤーアーベント風に言えば、

Anything goes!

だということではないでしょうか。

ライターから見えてくる「エラー恐怖症」の恐怖

このブログを読んでいる人の中には、僕が完全なノンスモーカーだと思っている人が多いと思うのですが、実はストレスレベルがすごく高まったり、あるいはとても気持ちのよいことがあったりすると、今でもたまに吸ったりしています。

で、この間久しぶりにタバコを吸っていて気づいたのですが、ライターの着火がとてもやりにくくなっているのです。これはどうしたことか、と思って調べてみたところ、子供が火遊びをして焼け死ぬ事故が数年前に発生してから、各社が対策として容易には着火できないようにした、ということらしいのですね。

ちなみにフランスの定番ライターであるBICも調べてみたのですが、こちらは相変わらず同じデザインで、この改良がおこなわれているのはどうも全て日本製のライターの様です。

うううううん・・・・

確かに痛ましい事件だとは思うのですが、年間3万人が自殺で死んでいるのを、のほほんとして看過している日本において、ライターの火遊びによる事故が数件あった=つまり社会的には稀有というべき事故、が発生して、メーカー各社が一斉にライターの改良(改悪?)に走るというのは、日本企業の独特の癖を表している様に思うんですよね。

それは「エラー恐怖症」ともいうべきものです。

一度こういうことがあった以上、対策を打たないと怠慢だ何だとマスコミに糾弾される。とにかく、なんとか対策を打て!ということだったと思うのですが、しかしライターに上記の様な改良を施せばコストは高まり、使い勝手は悪くなり、当然に商品としてのグローバルな競争力は低下します。

しかし、本当にそんな対策が必要なのか?

ライターなんてものはそもそも危険なものであって、子供が火遊びしないようにしっかり管理しろ、というのがまずは真っ当な対応策だろうと思うのですが、なぜか、そうならず、親が払うべき管理コストを社会全体で負担するという構図になっているわけです。

大上段に振りかぶりますが、僕はこういった「過剰なエラー対策」というのは、グローバル競争において物凄くネガティブに働くことになるだろうと考えています。

例えば米国の医療制度がいい例です。米国の国際競争力は今でも世界一ですが、「エラー恐怖症」に冒された産業だけを取りだして見てみると、実は物凄く国際競争力が低い。

例えば代表的には医療サービスがそうです。

アメリカでは医療過誤訴訟一つで病院がつぶれかねないので、訴訟を避けるためにありとあらゆる検査や治療を行う「防衛医療」が異常に発達した結果、医療費が世界最高になっています。それでも訴訟リスクが避けられない場合は患者を拒否しますしね。

つまり医療サービスを一つの産業と捉えた場合、米国のそれは全く国際競争力がないということです。これは米国のサービス産業では珍しいことですが、つまりエラー恐怖症に冒されるとそういうことになるということの格好の事例だと言えるでしょう。

ライターに話を戻せば、何十年かに一回の割合で起こった、しかも管理の問題こそ真因と糾弾されるべき事件をきっかけにして、そういったことが二度と起こらない様な対策を高コストをかけて実施し、社会全体にそれを負担させるという様なことをやっている限り、この国の様々な分野における国際競争力は全然高まらないと思います。

結局は常識の問題だと思うんですけどね。私が非常識なんでしょうかね。

お金とプライド



組織開発の実務家にとって、報酬というのは非常に扱いの難しい微妙なものだな、ということを改めて感じています。

お金は、そのもらい方によって自分そのものを変えてしまうという、非常に厄介な性質を持っています。

例えば、離婚における慰謝料。

慰謝料は多いにこしたことはない、たくさんもらった方が独立して生活を軌道に乗せるのだって早いはずだ、と浅薄な合理主義者は考えがちです。しかし、この考え方は「お金」というものの厄介さを全く理解出来ていないとても危険なものと言えます。

実は、慰謝料はもらえばもらう程、その後で離婚の傷跡を引きずってしまい、うまくトランジット出来ない、という傾向があることが知られています。

どうしてそうなるのでしょうか?

「慰謝料の額面が、自分のプライドの値段なんだ」

と無意識に認めてしまうからです。

ところが本人としては、自分の傷ついた体験というのはこんなものじゃない、こんな金額で私の気持ちをリセットなんて出来ない、とも思っているわけですから、これは大変混乱することになるわけです。

京大名誉教授の臨床心理学者である東山紘久さんも、その著書で「離婚からなかなか立ち上がれない、次のステージにトランジット出来ない人は、慰謝料をふんだくることに一生懸命だった人が多い」と指摘していますが、これも同じことでしょう。

朝鮮戦争の時、米国の捕虜が悉く赤化(共産主義に洗脳される)されて帰って来るのに米国の心理学者は愕然として、どうやったらこんなに上手に人の「こころ」を操作できるのか、という論点で様々な研究を行いました。

で、その結果は色々な意味で大変面白いのですが、こと報酬に関しては

洗脳においては報酬は有効である。しかし決して大きい報酬を与えてはいけない

という学びが非常に深い。

捕虜収容所では、共産主義に関する作文のコンテストが行われていました。強制ではありません。あくまで自発的に参加したい人は参加してもいい、というコンテストです。この作文コンテストにおいて「共産主義のここがいい」といったポジティブで説得力のある作文を提出した人には、タバコや葉巻程度の「ちょっとした報酬」が与えられてしました。

この「ちょっとした報酬」というのがポイントです。

一週間労働免除とか、ビール付きの豪華ディナーといった「大きい報酬」を与えると、「自分の本心で書いたのではない、この報酬のためだったらああいうコトを書いてもしょうがないさ」と自分で合理化してしまうのです。

一方、タバコ程度のちょっとした報酬のために、何度も何度も「いかに共産主義が優れていてアメリカ流資本主義が腐っているか」ということを書いているとなると、そういった「報酬のために、本心ではなく書いているんだ」という合理化は成立しません。

これを繰り返しているうちに、これは報酬をもらっているからではなく、自分が本当にそう考えているからなのだ、という統合を行ってしまい、そのうち筋金入りの共産主義者が出来上がる、というのが大まかに言うと中国共産党の戦略でした。頭いい。

人があって、それに対して報酬がある。
過失があって、それに対して賠償がある。

と浅薄な合理主義では考えますが、人間はその様には出来ていません。

報酬があって、人が報酬なりに出来上がる。
賠償があって、それに対して過失と心の傷の大きさが決まる。

という側面もあるのだということを、我々は意識しておく必要があります。


小さなリーダーシップが世界を変える





多くの人は、自分が世界の変革に影響を与えられる、とは考えていません。

世界を変えるなんていうことが出来るのは、大統領か大企業経営者か革命家であって、毎日会社勤めしながら世知辛い悩みに身をやつしている自分に、そんなことできるわけがないでしょ、という考え方です。

つまり、世界を変えるのは「大きなリーダーシップだ」という考え方です。

これはこれでわかるのですが、実は世界という船が大きく舵を切るきっかけになるのは、意外や「小さなリーダーシップ」だったりするんじゃないか、というのが最近考えていることです。

例えば米国の公民権運動のきっかけになったのは、たった一人の黒人女性=ローザ・パークスが、バスの白人優先席を空ける様に命じられた際、これを断って投獄された、という小さな小さな事件がきっかけになっています。

いわゆるバス・ボイコット事件ですね。

ローザは当時工場に勤める女工さんで別に運動家だったわけでははありません。この事件も、別に革命を起こそうとか公民権運動を主導しようといった意図があって起こしたわけではなく、ただ単に「疲れていたから立ちたくなかった」と彼女は述懐しています。ただし、席を立て、と言われた時に、自分の中の価値観やルールに照らして理不尽だと感じた彼女は、それに従わなかった、ということです。ここで発揮されているのはごくごく小さなリーダーシップでしかありませんが、その小さなリーダーシップがやがてアメリカの歴史そのものを変えていく様な大きなうねりになって全米の運動につながっていくことになります。

サイエンスライターのマーク・ブキャナンは、その著書=歴史は「べき乗則」で動く、の中で第一次大戦ン勃発の原因となったオーストリア皇太子の暗殺が、皇太子を乗せた自動車の運転手の道間違いによって発生している事例を取りあげて、歴史というのは大きな意思決定よりも、どこかで毎日行われているようなちょっとした行為や発言がきっかけになって大きく流れを変えるという、カオス理論で言及されるところのバタフライ効果について論じていますが、バス・ボイコット事件もバタフライ効果の発露と言えるかも知れません。

世界を変える?そんなのは政治家や大企業経営者の考えることだよね。僕にそんなこと出来るわけじゃいじゃない、と殆どの人は思っているかも知れません。

ですが、このローザ・パークスの話は、もしかしたら、あなたのオリジナルな価値観に基づく行動や発言が、100年後の世界のあり様を「それがなかった時」とは大きく変えることになるかも知れないということを示唆しています。そう考えると「自分の中のルール」に従って、世の中に対してアンチテーゼを提案して行く、というのが僕らの発揮できる「小さなリーダーシップ」の第一歩なのかも知れません。

写真はローザ・パークス氏。

キャリアのピークをどこに持ってくるか?

キャリアのピークをどこに持ってくるか?という論点を立ててるけど、そもそもそんなもの自分でコントロールできるのか?ということについても僕は確信をもっていないのですが、それは横に置いておいて。

最近、改めてその作品をザーっと横に並べてみて、これは面白い、と思ったのが、以下の三人です。

1:バッハ
2:ベートーベン
3:ラヴェル

皆、音楽史の転換点において、その曲がり角の行き先を指し示してくれた巨人ですが、彼らの人生の年代譜にそってその作品を並べてみると、「傑作」と後世呼ばれることになる作品を人生のどのタイミングで生み出していたかがそれぞれ違って中々面白い。

で、ものすごく端折ってまとめると、こうなっています。

1:バッハ(65歳で死去)
→30代~60代まで、一貫して最高レベルの作品を生み出し続けている

2:ベートーベン(57歳で死去)
→50代の人生最後の数年間に飛躍的に作品の深みが増している

3:ラヴェル(62歳で死去) 
→30代でほぼ傑作は出揃い、50代~死去までは殆どまともな作品を残していない(ボレロくらい)

自分の年齢が今42歳なので、30歳がキャリアのピークだったラヴェルのことを考えると空恐ろしい気もするのですが、5年前の自分と比較して今の自分が創造性や知的生産のレベルで劣っているとはとても考えられず、まあ今のところ坂を上っている状態ではあるのかなと思ったりもしながら、いやいや、もしかして裸の王様になっているんじゃないかと危惧したり・・・・ふう。

以前、このブログでもビートルズのジョージ・ハリソンを取り上げて、成長カーブの傾きとピークポイントの絶対的な高さは必ずしも相関しない、ということを書きました。ジョージの成長カーブは明らかにポールやジョンのそれよりも緩やかだったわけで、本当に初期の2~3枚のアルバムは聞けたものじゃないですけど、それがリボルバーとかホワイトアルバムの頃からやっとキックし始めて、最後のアビーロードでレノン・マッカートニーと本当に並ぶレベルになった。

だから、そう考えるとビートルズというバンドが本当の意味で完成したのは皮肉にも最後のアルバムを出したアビーロードの時期だったんじゃないか、という話ですが、今回取り上げた三人の音楽キャリアは、傾きのカーブとピークポイントの高さ以外に、キャリアのピークをどれくらい高原状態で保てるかは、人によって大きな開きがある、ということを示唆しています。

で、この差は何に起因しているのか?という論点が出てくるわけですが、僕はこれは

「贈与」

の問題にもしかしたら行きつくのかも知れない、と思っています。

贈与論は、もともとはフランスの文化人類学者のマルセル・モースが打ち出したものですが、一言で言えば、人の行動は贈与によって起動されるものであって、それは経済学が言っている様な「等価交換」とは異なる、ということです。経済学は、この年齢になってみて改めて本当にダメな学問だなと思うのですが、それは贈与の問題をまったくフレームに取り込めていないからです。労働価値説とか効用価値説とか言っているけど、人間の活動を全く説明できていないでしょう?

バッハは、自分の音楽を神を賛美するために書いていました。自分の中にあるものとか自分の効用ではなく、純粋に音楽を神に「贈与」していたんですね。

ベートーヴェンは、自分の音楽をより高い人間性を賛美するために書いていました。バッハとその対象は異なりますが、やはり自分の中にあるものとか自分の効用ではなく、音楽を「贈与」していたわけです。

ところが、こういった「贈与」の態度が、ラヴェルには見られません。彼は近代人ですから、世の中のルールに従って作曲活動をしてお金を稼いでいい暮らしをしていたわけですが、音楽を作るという行為に関連して「贈与」のパッションというものが感じられない。

で、これは、やっぱり弱いな、と思うわけです。

最近は年収を高める、あるいは起業して一攫千金を掴む、というのが非常に定型化されたゲームみたいになっていて、そのゲームの勝ち方を学校で勉強して一生懸命やっている人も多くて本当に辟易させられるわけですが、そういう方向性を追求しても本質的な意味でキャリアのピークを高原状態に保つことは出来ないと、僕は思っています。

キャリアのピークを長く続けるには、一言で言うと「大きなアジェンダ」が必要なのです。

大きなアジェンダ、それは神を賛美したいとか、人間性の高貴さを訴えたいとか、理不尽な世界を変えたいとか、貧困をなくしたいとか、なんでもいいんですけど、そういった大きなアジェンダをもっていない人は、やっぱり長持ちしないんじゃないでしょうか。

ということで、よりビジネスマンとして、息長く、キャリアを楽しみたいと思ったら、なんでもいいので、他者から与えられたゲームのルールや価値観に従うのではなく、自分なりに取り組める「大きなアジェンダ」をもつことが大事だ、という話でした。










説得と納得

広告業界に身を置いていた人に共通の性癖として、

「説得が嫌い」

というのがあると思う。

実際のところ、僕も説得なんていうのは最もダメな行為の一つだと思っています。

なぜかというと、説得されても人は100%のポテンシャルを発揮して動くことはないからです。

人が100%のポテンシャルを発揮して動くには「説得」ではなく「納得」が必要になります。

平たく言えば「共感」が必要になるんですね。

考えてみれば、全てのコミュニケーションの目的は、この「共感を形成する」という点にある、と言えるかも知れません。

では共感の形成には何が必要かというと、それは「物語」になると思うんですね。

残念ながら「論理」ではなく。

ここが、コンサルティングファームで華々しく活躍した多くの人が卒業後、実社会に大きなインパクトを出せずに評論家や大学教員といった「実際のとこ」が試されない場に逃げ込まざるを得ない状況になってしまう大きな要因があると思うのです。

ロジカルシンキングも大事だけど、物語を歴史や社会性を踏まえて形成する思考力、いわばナレティブシンキングといったものが、本当は物凄く大事なんだと、思うのですよね。

学びにおける「身体性」



日本の経営学者は全般的に元気がないよね、というやりとりをここ数年、職場の仲間やクライアントとするのですが、だいたいそういう文脈において出てくるのが、日本の経営学者は研究ばかりやっていて臨床をやっていないからダメなんだよ、という話です。

あまり知られていないことなのですが、有名なハーバードのマイケル・ポーターやクレイトン・クリステンセンといった人たちは自分の会社をもっていて、そこで戦略コンサルティングファームも顔負けの高額のフィーでコンサルティング活動を行っています。つまり、大学での研究と実業界での臨床との、両方の活動をやっているわけで、これが大きな違いだと、まあそういう主張なんですが、僕もその通りだと思います。

1980年代から90年代にかけて、人工知能がホットな話題になった時期がありましたね。立花隆さんなんかが著作のなかで、早晩人間の子供くらいの知能レベルになるんじゃないか、と書いたりして、その天使的な楽天さが関係者にひんしゅくを買ったりしていた時期ですが、その後、人工知能はあまり話題にならなくなってしまいました。

一言で言うと、壁にぶつかって進歩しなくなってしまった、ということなのですが、その際、人工知能の進歩の問題を「身体性」という問題から論じている人が、僕が知る限り数人いらして、それは非常に説得力のある仮説だと思っています。つまり、人工知能というのは要するに「脳」を作る、という研究なわけですが、脳だけ作っていても知能が進化しないのは、身体がないからではないか、ということです。

脳と身体の関係は、単純に「脳=指令者」、「身体=被指令者」といった一方向的なものではありません。確かに脳は意思決定を下して身体に命令を下すわけですが、身体活動の結果得られた色々な情報が、脳にフィードバックされることで脳が進化する、という側面もまたあります。

これは小さな子供を見ているとよくわかるのですが、最初はヨタヨタしながら歩いていて、すぐ転んでしまうのが、数カ月もするとかなりうまく歩いたり走ったり出来る様になります。つまり、脳が作る「歩く」とか「走る」といった動作プログラムを、うまく歩けなかったり、転んでしまったりという体験を通じてどんどんバージョンアップさせているわけですね。子供を見ていると、人工知能が身体性をもたないが故に進化しない、という仮説は非常に納得感があるわけです。

で、最近、これもまた「頭だけで考えると、やっぱりダメなんだな」と改めて思いだされたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの話です。

ボーヴォワールは20世紀フランスの哲学者ですが、むしろそういう肩書よりもサルトルの奥さんだった人、といった方が通りがいいかも知れません。このボーヴォワールという人は、今で言うフェミニストの走りで、社会的な圧力によって押し込められる女性の可能性の解放を激烈に謳った人です。で、そういった主張がてんこ盛りになっている「第二の性」という著作があるのですが、その本の冒頭で彼女は、”On ne naît pas femme, on le devient=人は女に生まれるのではない、女になるのだ”と述べているんですね。この言葉は、アフォリズムとしても簡潔でわかりやすいこともあって、20世紀後半には様々な場所で人口に膾炙することになったわけですが、これはやっぱり、「頭だけでモノを考えた人」の言葉だなあ~、と最近しみじみと考えてしまうのですよね。

なぜかというと、ボーヴォワールには子供が、それも女性の子供がいなかったからです。

実際に女の子を育てたことがない女性が、女性がどのように女性になるのかというジェンダー論を展開していて、あの様なコメントを残しているわけですが、実際に二人の女性を子供に持つ僕からすると、ボーヴォワールのこの主張は、なんというか、痛々しく思えてしまうんですね。というのも、実際に女の子を育ててみれば、彼女たちが「女性」というステロタイプで社会的な鋳型に嵌められることで女性らしさ=いわゆるジェンダーを形成する、という側面ばかりでもないことが、皮膚感覚としてわかるからです。

すごく単純な話で、一歳の女の子は、一歳の男の子と全然違うのです。例えば、うちの下の女の子はいま一歳ですが、既に大好きなモノは「靴」、「ハンドバック」で、これはもう明確にリトル・レディなんですよね。

ボーヴォワールは大変な秀才で、上級教員試験=アグレガシオンを全国二位で通過していますが(ちなみに一位はサルトルだった)、いくら頭の良い人でも、机の上で考えるばかりでは真実は理解できない、ということをこのことは示唆しています。そしてそれは経営学の世界でも事業の世界でも、まったく同じことだと思うんですよね。これは自戒の意味も込めてここに書くのですが、本やパソコンのモニターを通じて世界を体験するということと実際にその場に行ってみたりやってみたりして、自分という楽器を思いっきり鳴らす様な体験をするということでは、学びのクオリティという点では天と地の開きがあるのです。

ということで、言葉にしちゃうと陳腐なのですが、現地現物主義、研究と臨床のバランスというのを改めて心掛けていきたいと思ったのでした。

写真はチェ・ゲバラと対談するボーヴォワール。隣はサルトルですね