生産的な一日



先週から引きずっている風邪がイマイチなので本日は自宅に終日おりました。

ピアノとチェロの練習にそれぞれ1時間ずつ。ピアノは相変わらずバッハの平均律、チェロはベートーベンとシューマンです。チェロは大変間口が広い楽器だと思うのですが、表情をつけるのが非常に難しくて奥行きが深いですね。個人的にはピアノの方が簡単な楽器だと思います。

今日は気分が良かったので前面の蓋を外して演奏しました(上の写真)。楽器のグレードが2段階くらい上がったか、と思う程音量も音質も改善しますので、自宅にアップライトがあって外して弾いたことない、という人がいたらオススメです。

写真のピアノは1950年代の大橋ピアノです。2年程探してやっとこさ手に入れました。大橋ピアノは大きく、お父さんが中心になって作っていた初期と息子さんに代替わりして作られた後期に分けられますが、これは初期のものになります。ペダルの数が二本なら初期、ソステヌートがついた三本ペダルなら後期のものと判別出来ます。最近の新しいピアノと違って、楽器全体がしなる様な鳴り方で、1960年代のレコードの様な音がします。

ロックで言えば、例えばキャロル・キングのTapestryに収録されている「Far away」のイントロのピアノの様な、あるいはクラシックで言えばグールドが録音した「インベンションのシンフォニア」の様な音と言えば想像つきやすいでしょうか?

僕はこのピアノを大変気に入ってて、欲を言えば50〜60年代のベーゼンドルファーなどが欲しいのですが、ピアノをリビングに置くのが嫌い(自分の部屋で他人の目を気にせずに没入して弾きたい)な小生は、恐らくこのピアノをオーバーホールしながらずっと弾いて行くと思います。

ちなみに実家にあったグランドもそうなのですが、最近のピアノはやたらにボディの剛性が高くて弦だけで音を出す様な感じがして、それがまた好きだという人も居るのですが、僕はどうもダメなんですよね。古いピアノが好き、というのは結果的には安いピアノになることが多いのでまあラッキーなことなんですが。

その他には、最近また語学をちゃんとやろうと思って2時間程原書をいろいろ読んだりしました。今読んでいるのはフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」ですが、村上春樹訳で読んでみて大変面白かったので、原書にチャレンジしてみました。ものすごくファミリアな単語に実はまったく違う意味があることがわかったりして面白いです。全然進まないですけどね

ペンギンクラシックスは本の装丁が大変奇麗で、それだけでも楽しい。


テレビ化するウェブ

最近、自分にとってのウェブがテレビ化してきているなあ、と感じています。

どういうことかというと、「お気に入り」に登録してあるサイトをザッピングするだけで、殆ど新しいサイトをサーフィンしながら覗く、ということをしなくなっちゃった、ということなんですね。

90年代初頭にネットが出て来たときには、とにかく自分でアドレスを入れて行かないとどのサイトにも辿り着けない、という状態でしたよね。若い人は知らないかも知れないけど、使えるウェブサイトを集めた本が売られていて、その本のアドレスをみんな打ち込んでいたのです。

その後でヤフーが出て来て、知りたいことに応じて検索をすれば、まあ何となく関心領域にヒットするウェブサイトがいろいろと出る様になってきたわけですが、今現在は、当時に比較して遥かにまたいでいるサイトの数が少なくなっている気がします。

つまり、サイト間の競争の序列が固定化しつつあって、少なくとも僕にとってはウェブがかつてのテレビのチャンネルに近いものになってきている、ということです。

こうなるとネットワークの外部性がますます強くなって、今現在の勝者と組むしか、新参者が生き残る手はないのではないか、という気がしてきますね。結局はネットも通常のサービスと同じ様にライフサイクルカーブを描いて行くのかも知れません。少なくとも、今まではそのような奇跡を描いて来ていますね。

政府というのは、ウソをつくものです

ここ10年程チャラチャラした長めの髪と格闘していたのですが、ついにバッサリ切りました。非常にすっきりしていい。

それはそうと、東大の先生が指摘した原発関連の危険性が政府にディスカウントされたり無視されていたことが暴露されて政府の「安全です」という宣言そのもに対する疑念が広がっているらしいけど、正直「何をいまさら」と思わざるを得ません。

この国は、戦争でドンゾコの負け戦を繰り返しながら「勝ってます。V!」とアナウンスし続けていた国ですね。当時は政治システムが違うという人もいるかも知れないけど、50年体制以後を考えてみても、瞬間に思いつくだけで、サリドマイドは?水俣は?薬害エイズは?と出てくる。みんな同じことでしょう。

薬害エイズなんて非加熱製剤が外国で全て禁止されてからも、厚生省の「安全です。間違いなし。これホント」という一声で二年以上も放置されていますね。一部に危険性を指摘して早期の抜本的対策を訴える人物はいたけれどもグループダイナミクスに押しつぶされて報奨されるどころか左遷させられていたりします。

ということで日本という国には、そういう非常に悪い「癖」がある、ということをよく認識しておいた方がいい。「政府が「安全です」というとき、その声の大きさが実際のヤバさのバロメーターになるということです。

結局は政府の情報を信じずに、過去に蓄積した自分の知識と直感で判断しろ、ということになるでしょうか。

いい本が消えて行く

父が長年使っていて、自分も実にいい辞書だなと前から思っていた岩波の「Saito's Idiomological English-Japanese Dictionary」がついに絶版になったらしい。

この辞書、父が大学に居た時代から使っていたのでかれこれ50年程現役を保っていたのだと思うのですが、本当にいい辞書なんですよね。

どこが「いい辞書」なのかって?それはとりもなおさず、たたずまいですね。今時、ここまで金をかけて丁寧に作られた装丁の辞書っていうのは珍しい。僕はブックフェチなんで中身を読まずに装丁だけで嘗め回す様に本を愛したりしますが、本当にこの辞書は装丁がいい。

で、加えると、やはり英文学を読むには必須の辞書かな、と。最近、フィッツジェラルドの書籍を原書で読んでいるのですが、最新の英英辞書や英文辞書にも載っていない様な熟語が載っていて感服させれます。

それはつまり「Idiomological」という言葉からもわかる通り、「単語」の多寡よりも「熟語」の多採を目指した辞書の面目躍序するところで、例えば「With」では、11頁に渡ってその用例が記されているということを示せば、その目指すところがお分かり頂けると思います。

欧米の本屋を訪れると、その装丁のプアなことに本当に暗澹とさせられますよね?日本の出版文化は、この装丁と中身のシンクロにその骨頂があると僕は思っているのですが、最近はなかなか出版社も難しい様で、安手の装丁に身を窶すケースが多い様ですが、本当に哀しいことです。

皆さんも、是非装丁のいい、つまり「顔のいい」本に、お金を使ってあげてください。