Thursday, November 24, 2011

ディ・マーケティングの薦め

殆どの商品はいずれゴミになります。

紙コップの様にすぐにゴミになるものもあるし、家の様に30年くらいたってからゴミになるものもあって、そのタイムフレームはモノによって大きく変わるのだけれども、それは時間の問題であっていずれにせよ「殆ど」の商品は最終的にゴミになります。

殆どの、と但し書きをつけたのは、そうならない商品もごくたまにあるからです。例えばスタインウェイのグランド・ピアノやカルティエのライター、ライカのカメラなどといったものが捨てられてゴミになるとは、ちょっと考えにくい。恐らく世代を超えてそれを愛でる人の手の中にあり続けるのだろうと思われます。とは言え、やっぱりこういう商品はごく少数しかなくて、殆どのモノがやがて捨てられてゴミになります。

ということは、企業が一生懸命に作って売っているのは、いずれゴミになるものだということで、それを「準ゴミ」とか「ほぼゴミ」とか「まあゴミ」とか、言い方はいろいろあるのだけど、問題になるのは「どれくらいの期間でゴミになるか」という観点ではないかと思うわけです。

すぐに飽きられたり品質が劣化してゴミになるような商品を売っている会社というのは、「「ほぼゴミ」を売っている」とも言えるわけで、そういう「ゴミになるまでの時間軸」を考えた際に、どのような会社が「ほぼゴミ」を売っていて、どのような会社が「ほぼ製品」を売っているのか、というのは商品を選ぶ際の大きな基準に、本当はなるべきなんではないだろうか、と思うわけですね。出来れば、なるだけ長い間ゴミにならない商品を、本当は選びたいところです。誰だって恐らくそう思うでしょう。ところがこれがなかなかできない。

で、これが一番言いたいことなんですが、マーケティングというのは本質的には「「ほぼゴミ」をどう売るか?」という論点のもとに構築された学問、というかスキルの体系で、これはよくよく考えてみると今時こんなスキルというのは物凄く反社会的だし、少なくとも非常にカッコ悪い考え方だ、と僕は思うわけです。

よく考えてみると、職人が心をこめて丁寧に作って出来あがった製品が、世代を超えて人の手を渡っていく、というようなことが、マーケティングの発達とともに失われて行ってしまっている様な気がします。だって日夜ゴミになるような商品を作って売ることに一生懸命になっていれば、世の中を真の意味で豊かにするような製品というのは生まれるわけがないんですよね。

ジャスパー・モリソンは、大資本のスーパーやメーカーではなく、なるべく個人商店から、個人が作った様なプロダクトを買うことを自分に課していることを公言していますが、世界がゴミに覆い尽くされて、次世代に継承できるような真の意味で豊かなプロダクトが生まれないといった状況を覆すためには、20世紀後半を支配していたマーケティングのパラダイムを置き換えるような新しい考え方、ここではディ・マーケティングといっていますが、という考え方が必要になるのではないでしょうか。

Tuesday, November 22, 2011

オリンパス批判の批判

オリンパスの問題について手厳しく批判している人やメディアを最近よく見かけるけど、誰もが良くないと思っていることを更に上乗せして批判するのは時間のムダだと思うし、少なくとも僕は余りそこに意味を感じません。

スーザン・ソンタグやまあニーチェもそうだけど、批判は、「誰もが悪さに気づいていないんだけど、それを見過ごすことは大きな過誤につながる」という時に行うことでこそ意味があるわけでね。今回の様な明白なスキャンダルを批判するのはオバちゃんの会話っぽくて僕は嫌いです。時間の無駄でしょ。

ということでというわけでもないんですが、僕はむしろ「怖がる」方が健全な反応なんじゃないか、という気がします。何を怖がるのかって?僕自身が、彼ら、つまり「飛ばし」を主導した人達の様になってしまうこと、ダークサイドに落ちてしまうことを、です。

こういったスキャンダルを主導して来た人の殆どは、ごく普通に学生生活を送って、ごく普通に社会人人生を過ごして来て、ごく普通の家庭生活を営んでいる、ごく普通の人だったと思うんですが、ある状況や文脈に身を置いてしまったためにこういうことになってしまったわけで、そこに想像を巡らせれば、人間というものがいかに脆弱で多面性を持ったものか、ということに想い至ります。

「イノベーションのジレンマ」の著者であるハーバードのクリステンセンは、ビジネススクールの卒業生に向けて「監獄に入らずにキャリアを全う方法」についてアドバイスしていますね。本人自身、「どうしてそんなアドバイスをするのかと訝しがるかも知れない」と学生にも言っていますが、クリステンセンのビジネススクール時代の同期数人が、現在監獄に入っているという事実を告げられて始めて、生徒たちは「自分がそのような状況になるはずがないと考えていること自体が既に危険である」ことを意識させられるわけです。

闇に落ちた人を見て批判するのに時間をかけるより、全うな社会人として成功したキャリアを歩んで来た彼らが、なぜその闇に落ちてしまったのか?その闇に自分が落ち込まないための方策は何か?を考える方が建設的だと思います。

Wednesday, November 16, 2011

情報が増えてるって本当なんでしょうか?

インターネットが普及してから、情報量が増えてるってことを色々な人が言っていて、何となくそれに違和感を覚えています。

もっともダメだなと思う意見が、現代の人間は古代の人間の○○倍の情報にさらされている、といったもので、こういう意見を言う人は恐らくイマジネーションがないんだろうな、という気がします。

例えば現代人が天気予報を見て一日の天気の行方を考えるのと、古代人が朝の空気の湿り気や雲の具合、日の出の色や草木のしなり具合、蛙や鳥の鳴き声から一日の天気の行方を考えるのとで、どちらの方が処理している情報の量が多いかと考えると議論の余地は無いように思うんですよね。

市場情報の数値や競合分析をもとにして新たなビジネスのネタを考えるのと、豚やイノシシの行動パターンを想定しながら、その日の狩りの戦略を立てるのとで、どちらの方が情報処理の方が多いかと考えると、これもまた議論の余地がないように思うわけです。

以前、宗褊流のお家元に庭を案内して頂いたことがあるのですが、その際、厚く茂った苔の上に裸足で触れたときの脳を直撃するような感覚が忘れられません。後から色々と考えてみたのですが、あれはやっぱり情報量の多さ、ということに脳がびっくりしたということに尽きるのではないかと思っています。

ここ10年くらい、クラシック音楽でも古楽と言われる、作曲された当時の姿に近い楽器で演奏したCDをよく聴いているのですが、これが最新の楽器と何が違うかというと、すごい濁りがあるんですよね、音に。で、これがさっきの苔と同じ感じがするんですね。密度が濃くて脳がザワザワとさざめくというか、そういう気持ちよさがあります。

現代人の僕らは、音でも物質でも色でも、表面を平滑でツルツルでペカペカしたものにしたがりますが、そうすることで脳に快感を与える様なリッチな情報というのはどんどん失われてしまうのではないか、という気がします。

そして、そういうものに囲まれて、自然を解釈するということをしなくなった現代人の僕らが、古代の人達に比べてずっと多くの情報を処理しているのだとは、僕はどうしても思えないんですよね。


Wednesday, November 9, 2011

iPodを使うとどんどんバカになる

最近、自分で自分の生活に合う音楽を選び出す能力がものすごく低下してきている様に感じています。

膨大な量の音楽や映画や書籍に接して、ある生活文脈の中で過去のストックから適したものを選び出して、そこに場合によってはオリジナルとは異なる意味を与えて提示する、というキュレーションの能力が自分の持ち味で、プロジェクトのアウトプットでも書籍でも、いいと言ってくれる人は恐らくその点を評価してくれているのではないかと思っているのですが、iPodを使い始めてから、あるいは読んだ書籍のメモをデジタルアーカイブにするようになってから、その能力が際立って落ちている様に思うんですよね(単に年のせい、という話もありますが)。

なんでこういうことが起こるのかというと、やっぱりこれは「選ばなくていい」ということが、どれだけ脳をダラけさせるかということの証左だと思うわけです。例えば夕食にどのCDをかけるかというのは、例えば僕の場合手元に1000枚強あるCDの中から、「これ!」という一枚を選択しなくてはいけないわけで、これはやはり脳に相応のテンションを与える行為だと思うわけです。ましてやそれが意中の女性との夕食だったりすると、CD一枚の選択、あるいは複数枚の流れの作り方次第で、起こるべきはずのことが起こらなかったり、あるいは起こると思ってもいなかったことが起こったりしてしまうこともあるわけで、これはもうトンでもないテンションがかかるわけですね。

もう少し別の角度から言うと、例えばテープに気に入った音楽を集めて自分なりのコンピレーションアルバムを創った経験って、30代半ば以上の方なら経験があると思うんですけど、これだって考えてみれば相当知的に負荷のかかる行為ですよね。自分の持っているCDのアーカイブの中から、流れと全体のテーマを考慮しつつ、一曲一曲を選んで行くわけですから・・・。

記憶を外部化して、それを丸ごとポータブルに持ち歩くことが出来る様になる。これは80年代から言われて来た一つの未来像の実現ではあるのですが、そうなることによって得られたものにばかり光が当たっている昨今、そうなることで失ってしまったものにも僕らは注意をするべきなのかも知れません。

そして、完全に新しいものが生み出しにくい世の中で、キュレーションという行為の重要性が高まっている中、僕らは日常生活の中ではむしろキュレーションのための基礎筋力をどんどん失って行く方向に傾いていっていること、いわば知的に怠惰になっているんだということ、を認識した上で、その筋力の低下をどういうエクササイズによって鍛えて行くのか、ということを考えて行かなければいけないのかも知れませんね。すいません、例によって答えはなく、問いかけだけなんですが。

Sunday, November 6, 2011

絶対君主がイノベーションを加速する

「スティーブ・ジョブズ 下巻」を読了し、同時期に読んでいた「チャーチル 危機のリーダーシップ」と併せて思ったのですが、イノベーションというのは絶対君主型の組織でないと実現できないのかも知れません。

ジョブズの本を読むと、いかに彼が無理難題を押し付けて組織を限界までストレッチし、イノベーションを実現してきたかがよくわかりますし、チャーチルの本を読むと、彼が第一次世界大戦に際して海軍大臣という「海軍しか動かせない立場」のために、いかに苦労したか、一方で第二次世界大戦の際には首相と国防大臣を兼務したことで、軍事、経済、政治の三つを統合的に動かすことでスピードと戦略的整合性を維持できたかということがよくわかります。

日本でイノベーションの上手な企業と(かつて)言われたのはソニーやホンダですが、これも強烈な個性を持つ創業者に引っ張られてのものですよね。よく知られるようにウォークマンは技術者やマーケティングセクションの人間が「まったく売れないからやめとけ」と考えていたのに、創業者の盛田昭夫が「こういうのが欲しい」と頼んで生まれたものですし、ホンダについても、まだ四輪車作ったことないのに「F1で優勝する」と宣言するとか、まあそういう引っ張り方をするわけですね。

と、こういうわけで、イノベーションは強烈なリーダーのもとでないと加速しない、という仮説をサポートするファクトが沢山集まってきてしまっていて、こうなるとどうも独裁的でビジョナリーなリーダーの元でないとイノベーションは加速しないのではないか、と思わざるを得ないわけです。

これはつまり、逆に言えば、90年代以降に流行ったカンパニー制や権限委譲は、イノベーションをむしろ停滞させる要素になるということです。確かにカンパニー制をいち早く導入して経営学者の礼賛を浴びたソニーで、それまでの様なイノベーションが一気に停滞していますし、グーグルでもそういう傾向が(外から見ると)ある様に感じられます。事業部制の組織にして権限を委譲すると、横串を通して各事業のシナジーを生み出すのは経営トップの仕事になるわけですが、当時の出井社長の様な求心力のないサラリーマン社長だとそれも難しかった、ということなのでしょう。

これは組織は民主的でフラットであるべきだという、論理を超えた哲学を持っている僕の様な人間には大変残念なことなのですが、少なくとも世の中の事実を集めればイノベーションというのは一定程度軍隊的な機能別組織でないと加速できないのかも知れません。

Friday, November 4, 2011

多重人格生活が携帯に邪魔される



携帯電話が普及したことで僕らの行動は大きく変わったけれども、最近は心の持ち様みたいなものも変わって来てしまっているのではないか、ということを考えたりします。

これは、待ち合わせのときに詳細に時間と場所を決めないとか、そういうことではありません。

人間が、ある程度心地よく行きて行こうとすると、一種の多重人格性が必要なのではないか、という気がしていて、携帯が、それを持ち得ない様な息苦しい方向に世の中を変えて来ている様に思うんですよね。

人は、所属する会社や学校、家庭や友人関係、SMクラブや自治会といった組織やコミュニティの中に、いろいろな立場や役回りを持っているわけですが、それらは必ずしも一貫したアイデンティティを有しているわけではありません。昼間は強面で鳴らすおっかない管理職が夜には新宿でムチで打たれて喜んだりしているわけで、そこに(一見すると)通底したキャラクターを見いだすことはなかなか難しい。

でも、それでいいと思うんですよね。

立場や役回りを縦のサイロと考えた場合、そのサイロに横串は通さない方がいい。サイロそのものは自分で建てようと思って建てるケースもあれば、人生の流れでいつの間にか建ってしまったものもあって、必ずしも全てのサイロを納得づく持っているわけでもないんですが、全体としてはそのサイロのポートフォリオによって多くの人は人格のバランスを維持していると思うんです。

ところが携帯電話というものが出て来たことによって、このサイロに強烈な横串が通り始めている気がします。例えばイジメというのは恐らく古代からあったことだと思うのですが、いまになって問題の深刻度が増しているのは、子どもたちが学校と家庭という二つのサイロを使い分けられなくなってきていることに理由があると思っています。いじめられっ子は、学校でどんなにつらいイジメにあったとして家に帰ってくれば物理的にも心理的にも学校とは一旦距離を置くことが求められるわけですが、携帯電話というバーチャルな横串は学校というサイロから心理的に分離することをいじめられっ子に対して許容しません。

これはサラリーマンが家庭と職場と個人という三つの人格要素、ユング的に言えばまさに「仮面=ペルソナ」ですが、を使い分けることが難しくなって来ていることにもつながっています。物理的にどのような場所に居ようと、どのような社会的な立場(例:地元の釣りコミュニティの幹事、変態クラブのVIP客、湾岸の夜の帝王等)にあろうと、会社人としてのペルソナや家庭人としてのペルソナがついて回ることになります。こうなるとサイロのポートフォリオでうまくバランスをとって行きていく、という人類が古代からやってきた生きる戦略そのものが機能しないことになるわけで、これは実は多くの人が考えているよりずっと大変な問題なのではないか、という気がしているんですよね。

もしそういう方向に流れて行くのだとすると、結論は単純でサイロのポートフォリオでバランスをとる戦略はもう機能しないので、一つ一つのサイロそのもののスクラップ&ビルド、つまり気に入らないサイロ、ストレスレベルの高いサイロは避けるということになるわけですが、このサイロが一つしか作れなかった、というケースがまさに「引きこもり」ということなので、なかなかこれは厳しいんですよね。すいません、結論はないんですが。

Wednesday, November 2, 2011

CM礼賛

最近、テレビは全く見なくなってしまったのでどんなテレビCMが流れているかも全く知らないのですが、そんな僕にとっての、CM礼賛論です。

結論から言えば、これは「残らないものの力を借りて、残るものを作る」プラットフォームだ、ということです。

例えば大好きな坂本龍一「Dear Liz」や「Floating Along」といった曲は、もともとは百貨店や自動車の宣伝で使われたものです。前者は確かPARCOの、後者はセドリックのCMだったと思います。そしてセドリックはもうなくなってしまったけど、恐らくFloating Alongは、永遠とは言わないまでも、セドリックよりかなり長く残って、多くの人の耳を楽しませてくれると思うんですよね。

ここでは主客が逆転しています。

もともと、広告というのは商品という主に対する客の立場であって、であるからこそ、長いこと広告会社の地位は低かったわけですが、それは経済活動を短期に見ているからそうなのであって、それをもっと長いスパンで見てみると、実は殆どの商品というのは消えていってしまう一方、CMによって生み出された音楽や景色や感性というのはずっと残る上、その残ったものを苗床にしてさらに新しい文化を生み出していくとことになります。

僕はもともと音楽を作ることを生業にしたくて音大の作曲科を受験したりしていたわけですが、最後に電通という会社をわりと感覚的にしっくり来て選んだのも、直感的にその主客逆転の構造を見越していたんだろうな、という気が今はします。つまり、大企業の潤沢な予算を、どうせいずれ消える商品をダシにして使って残したい音楽や映像や感性を生み出す、ということです。

こう考えていくと、最近の広告会社の就職ランキングや転職マーケットでの地位の低下もむべなるかな、という気がします。本質的な魅力が主客逆転の構図であったのに、最近はクソまじめに主である商品の経済的成功をサポートすることに向き合いすぎていると思うんですよね。

残らないものの力を使って、やはり残らないものを作っている。

こんな仕事は世界で一番むなしいと、誰もが思うんじゃないでしょうか。

やはり、残らないものの力を使って、残るものを作るという矜持を、広告関係の人たちには持っていてほしいですね。

Tuesday, November 1, 2011

スティーブ・ジョブズくを読んで

話題の「スティーブ・ジョブズ」を読んでみました。

全二巻のうちの上巻しか読んでいないので、下巻を読むとまた印象が変わるのかも知れませんが、まず持った印象が、スティーブ・ジョブズという人は完全な人格破綻者だな、ということです。恐らく周りも大変だったでしょうが、何より本人自身が本人に悩まされたのではないかな、と。会社にこんな人居たらとてもじゃないけど(僕は)一緒に仕事できないな、と思います。

で、そうなると出てくる疑問が、なぜこんな人と一緒に仕事をしてられるのだろう、ということです。

結局のところ、柔和な人格者と一緒に当り障りのない仕事をやって人生を無為に過ごすよりも、底意地の悪い人格破綻者と一緒でも、歴史を捻じ曲げるような大きな仕事を選ぶ人が少なくない、ということなのでしょう。

これは僕個人にとっても思い当たる節があります。社会人になってそろそろ20年になるかという年ですが、自分があの時期に伸びたな、とかいい仕事が出来たな、と思えるのはやっぱり強烈な個性を持った上司の下で思いっきりストレッチしていた時期だった様に思います。

非常に難しいのは、そうやって僕自身を鍛えてくれた人の多くは、そのエッジーな性格が災いして組織の中では結局は余り偉くなれなかったということです。これは、ジョブズが(最終的には返り咲いたものの)アップルにおいて閑職に回され、最終的に追放されたのと同じことです。

イノベーションを先導するのは偏執狂的な人物だけれども、そういった人物は組織の中で長い間主導権を持つ立場に居続けられない。これは、リーダーシップ論、組織開発論、イノベーションを研究している僕の様な立場の人間にとっては大変悩ましいパラドックスです。

Sunday, July 10, 2011


最近になってケネディをディスクレジットする歴史学者が増えて来た、というBBCのニュースを聞いた雑感。

ケネディ大統領の演説は頻繁に名演説の代名詞みたいに扱われるけど、僕は高校生の教科書で始めてケネディの演説を読んでから、こんなにひどい演説を聴いて喜んでいというのはどういう人達なんだろう、と不思議に思っていました。

理由はまったくビジョンがないから。

ビジョンというのは、今はこういう状態だけど、こういう状態に変えます、という絵姿を示すことですね?ところが、ケネディの演説というのは、例えば「国に何をしてくれるかより、国に何が出来るかを問うて欲しい」、「なぜ月を目指すのか?と人は問う。答えよう。なぜならそれが最も困難な目標だからだ」って・・・・おいおい、と思わないんですかね・・・。つまりコピーとしてはかっこいいんだけど実直なビジョンとか計画というのは全然示していないんですよね。

一方で、実は新約聖書を読めばイエスも、あるいは資本論を読めばマルクスも、結局は「新しい世界が訪れるだろう」と言っているだけで、その次の世界の具体的な絵姿を示していないんですよね。新しい世界の具体像は受け手に委ねる、というのがコツなのかも知れませんね。

Saturday, May 7, 2011

生産的な一日



先週から引きずっている風邪がイマイチなので本日は自宅に終日おりました。

ピアノとチェロの練習にそれぞれ1時間ずつ。ピアノは相変わらずバッハの平均律、チェロはベートーベンとシューマンです。チェロは大変間口が広い楽器だと思うのですが、表情をつけるのが非常に難しくて奥行きが深いですね。個人的にはピアノの方が簡単な楽器だと思います。

今日は気分が良かったので前面の蓋を外して演奏しました(上の写真)。楽器のグレードが2段階くらい上がったか、と思う程音量も音質も改善しますので、自宅にアップライトがあって外して弾いたことない、という人がいたらオススメです。

写真のピアノは1950年代の大橋ピアノです。2年程探してやっとこさ手に入れました。大橋ピアノは大きく、お父さんが中心になって作っていた初期と息子さんに代替わりして作られた後期に分けられますが、これは初期のものになります。ペダルの数が二本なら初期、ソステヌートがついた三本ペダルなら後期のものと判別出来ます。最近の新しいピアノと違って、楽器全体がしなる様な鳴り方で、1960年代のレコードの様な音がします。

ロックで言えば、例えばキャロル・キングのTapestryに収録されている「Far away」のイントロのピアノの様な、あるいはクラシックで言えばグールドが録音した「インベンションのシンフォニア」の様な音と言えば想像つきやすいでしょうか?

僕はこのピアノを大変気に入ってて、欲を言えば50〜60年代のベーゼンドルファーなどが欲しいのですが、ピアノをリビングに置くのが嫌い(自分の部屋で他人の目を気にせずに没入して弾きたい)な小生は、恐らくこのピアノをオーバーホールしながらずっと弾いて行くと思います。

ちなみに実家にあったグランドもそうなのですが、最近のピアノはやたらにボディの剛性が高くて弦だけで音を出す様な感じがして、それがまた好きだという人も居るのですが、僕はどうもダメなんですよね。古いピアノが好き、というのは結果的には安いピアノになることが多いのでまあラッキーなことなんですが。

その他には、最近また語学をちゃんとやろうと思って2時間程原書をいろいろ読んだりしました。今読んでいるのはフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」ですが、村上春樹訳で読んでみて大変面白かったので、原書にチャレンジしてみました。ものすごくファミリアな単語に実はまったく違う意味があることがわかったりして面白いです。全然進まないですけどね

ペンギンクラシックスは本の装丁が大変奇麗で、それだけでも楽しい。


Friday, May 6, 2011

テレビ化するウェブ

最近、自分にとってのウェブがテレビ化してきているなあ、と感じています。

どういうことかというと、「お気に入り」に登録してあるサイトをザッピングするだけで、殆ど新しいサイトをサーフィンしながら覗く、ということをしなくなっちゃった、ということなんですね。

90年代初頭にネットが出て来たときには、とにかく自分でアドレスを入れて行かないとどのサイトにも辿り着けない、という状態でしたよね。若い人は知らないかも知れないけど、使えるウェブサイトを集めた本が売られていて、その本のアドレスをみんな打ち込んでいたのです。

その後でヤフーが出て来て、知りたいことに応じて検索をすれば、まあ何となく関心領域にヒットするウェブサイトがいろいろと出る様になってきたわけですが、今現在は、当時に比較して遥かにまたいでいるサイトの数が少なくなっている気がします。

つまり、サイト間の競争の序列が固定化しつつあって、少なくとも僕にとってはウェブがかつてのテレビのチャンネルに近いものになってきている、ということです。

こうなるとネットワークの外部性がますます強くなって、今現在の勝者と組むしか、新参者が生き残る手はないのではないか、という気がしてきますね。結局はネットも通常のサービスと同じ様にライフサイクルカーブを描いて行くのかも知れません。少なくとも、今まではそのような奇跡を描いて来ていますね。

Thursday, May 5, 2011

政府というのは、ウソをつくものです

ここ10年程チャラチャラした長めの髪と格闘していたのですが、ついにバッサリ切りました。非常にすっきりしていい。

それはそうと、東大の先生が指摘した原発関連の危険性が政府にディスカウントされたり無視されていたことが暴露されて政府の「安全です」という宣言そのもに対する疑念が広がっているらしいけど、正直「何をいまさら」と思わざるを得ません。

この国は、戦争でドンゾコの負け戦を繰り返しながら「勝ってます。V!」とアナウンスし続けていた国ですね。当時は政治システムが違うという人もいるかも知れないけど、50年体制以後を考えてみても、瞬間に思いつくだけで、サリドマイドは?水俣は?薬害エイズは?と出てくる。みんな同じことでしょう。

薬害エイズなんて非加熱製剤が外国で全て禁止されてからも、厚生省の「安全です。間違いなし。これホント」という一声で二年以上も放置されていますね。一部に危険性を指摘して早期の抜本的対策を訴える人物はいたけれどもグループダイナミクスに押しつぶされて報奨されるどころか左遷させられていたりします。

ということで日本という国には、そういう非常に悪い「癖」がある、ということをよく認識しておいた方がいい。「政府が「安全です」というとき、その声の大きさが実際のヤバさのバロメーターになるということです。

結局は政府の情報を信じずに、過去に蓄積した自分の知識と直感で判断しろ、ということになるでしょうか。

Sunday, May 1, 2011

いい本が消えて行く

父が長年使っていて、自分も実にいい辞書だなと前から思っていた岩波の「Saito's Idiomological English-Japanese Dictionary」がついに絶版になったらしい。

この辞書、父が大学に居た時代から使っていたのでかれこれ50年程現役を保っていたのだと思うのですが、本当にいい辞書なんですよね。

どこが「いい辞書」なのかって?それはとりもなおさず、たたずまいですね。今時、ここまで金をかけて丁寧に作られた装丁の辞書っていうのは珍しい。僕はブックフェチなんで中身を読まずに装丁だけで嘗め回す様に本を愛したりしますが、本当にこの辞書は装丁がいい。

で、加えると、やはり英文学を読むには必須の辞書かな、と。最近、フィッツジェラルドの書籍を原書で読んでいるのですが、最新の英英辞書や英文辞書にも載っていない様な熟語が載っていて感服させれます。

それはつまり「Idiomological」という言葉からもわかる通り、「単語」の多寡よりも「熟語」の多採を目指した辞書の面目躍序するところで、例えば「With」では、11頁に渡ってその用例が記されているということを示せば、その目指すところがお分かり頂けると思います。

欧米の本屋を訪れると、その装丁のプアなことに本当に暗澹とさせられますよね?日本の出版文化は、この装丁と中身のシンクロにその骨頂があると僕は思っているのですが、最近はなかなか出版社も難しい様で、安手の装丁に身を窶すケースが多い様ですが、本当に哀しいことです。

皆さんも、是非装丁のいい、つまり「顔のいい」本に、お金を使ってあげてください。


Saturday, April 30, 2011

成長カーブ

一ヶ月間、ネット環境の貧弱な京都で中世の暮らしをしていましたが、先日東京に戻ってきました。それはともかく、一昨日にサイクリングしながら思ったこと。

人材育成の議論においては、よく「成長カーブは人それぞれ。急に立ち上がる人もいるけど、すぐには立ち上がらず、後になって急激に伸びる人もいる」ということが言われます。コンサルティング会社でも、これはよく言われることなのですが、現実にはなかなか立ち上がらない人は、やはり結局は難しいことになる、というのがコンサルティング業界での真実でもあります。例えば戦略系コンサルティング会社では、待てるのはせいぜい2年という実体があります。

「栴檀は双葉より芳し」と言うことで、活躍するコンサルタントは最初からその片鱗を見せるものだ、という認識があるのかも知れません。一方で、「大器晩生」と言う言葉もあるのですが、なかなか将来の大器の予感を信じてじっと成長を待つ、というのが難しいのが現在の企業環境でもあります。

で、以前から、「このテーゼは本当なのかな」と考えていたのですが、サドルの上で自転車をシャカシャカ漕ぎながら急遽思いついたのが

ジョージ・ハリスン

の例です。ビートルズに詳しい人にはあまり言う必要もないのですが、初期のビートルの楽曲は圧倒的にポールとジョンの曲が秀でていて、ジョージの曲というのは、なんというかその、つまんないのが多いですよね。ポールとジョンに乗っかったコバンザメ戦法で売れているという感じだったのですが、先日、久しぶりにアビーロードを通しで聞いてみて、

これはつまり完全に、ポールとジョンの水準に、ジョージが追いついたアルバムだな

と思ったわけです。具体的には「Something」と「Here comes the sun」の二曲なんですが、これを聞くと完全にポール、ジョン、ジョージの楽曲のレベルがバランスされたな、という気がするんですね。

アビーロードはビートルズ最後のアルバム(発売はレットイットビーの方が後だけど、録音はアビーロードの方が後で、そもそもメンバー自身が、このアルバムが最後だと思っているのが大事)だけど、そのまさにVery lastのアルバムで、メンバー自身のポテンシャルとパースペクティブが叩き付ける様に出てきていることに震撼すると、これはむしろ本当のビートルズのデビューアルバムだったのではないか、という気さえしてしまう。

ビートルズのデビューは、まあ1963年前後ということになっているけど(今の様に、レコード会社がコントロールしていないのではっきりしない)、その頃から数えて、ポールとジョンは自分の明確な個性を曲に炙り出すのに3年くらいかかっているけどジョージは7年程かかったということですね。

でも、これがコンサルティング会社だったら7年は待てないのが実情。きっと、ものすごくいい個性を発揮してくれる宝石の様な若手を「立ち上がりが遅い」という理由だけで、たくさん切ってしまっているんだろうな、という気がするんですよね。

成長を待てない自分を発見したら、Somethingを聴くといいんじゃないでしょうか。

Sunday, February 6, 2011

冬の空




窓際のソファで本を読んでいて、ふと外を見上げると空が銀色に染まって樹木のシルエットが影絵の様に浮かんでいたのでパシャリと一枚取りました。

後は、玄関が散らかっていると運が逃げるよ、という友人の占い師のアドバイスに従い、玄関用のベンチを購入しました。靴が隠れて散らかっていない様に見えるでしょ?

1月からの読書は既に50冊を突破。読書日記を書く時間を読書に充ててしまっている。これをやるとストックにならないんだけど・・・後でまとめてサマリーを書きます。書かないと・・・

Friday, January 7, 2011

「ひこうき雲」でわかるユーミンの天才

いまさらですが、ユーミンに関する考察です。

松任谷由実(発表した当時は荒井由美だけど)の「ひこうき雲」は、この曲を聴くためだけにでも生まれてくる価値がある、というくらいの名曲だと思うんですが、一方で、音楽を本格的に勉強してきた人にとっては理解出来ないようなコードが多用されていて、しかもそれが完璧に曲に合っているという、実に不思議な曲でもあります。

もっと言えば、本格的に和声とか対位法とか、クラシックの作曲法を勉強した人にとっては、この曲は挫折という傷に塩を塗り込める様なすごみがある曲なのです。

殆どの人に理解して頂けないと思いながら、思いのタケを綴りますと・・・

サビの出だしの「そら~にぃ、あこがれて~」の所は F→Am7→Dm というもので、ここはまあそれほど珍しいもんでもありません。機能和声で言えばⅠ→Ⅲ→Ⅵの偽終止でT→D→Tの運用です。リフレインが叫んでるとか、ユーミンの定番の運びですね。

しかし、ここから続く 「そら~を~かけってゆく~」の所に、いきなりAm→Cm→B♭ と来るんですよね。末尾がB♭つまりⅣなので、普通に考えると変終止なんですが、その前の和音がCmだしな・・・・

すいません、わからない人にはまったくわからないと思うんですが、この曲、長がへ長調なんですよねえ。へ長調であれば、ポイントはとにかく主和音であるF。そこにもっていくに当たって普通はB♭かCを使うということですが、ここでは両方使われていなくて、Am→Cm→B♭・・・・・・

なんじゃこりゃ・・・・・・・

それでいて、このコードで完璧な「着地感」を作るんですよね・・・・・負けた。

実はそう思った人は多いようで、荒井由美と結婚したプロデューサーの松任谷正隆は「僕は、ひこうき雲のサビに彼女が何気なくコードを合わせるのを聴いた瞬間にショックを受け、結婚を決意しました」とインタビューで言ってたので、インパクトの表出の仕方はいろいろだと思いますが、やはりすごいと思うんですよね。

実は、音楽って建築に似ていてものすごく科学的で、そうそうエキセントリックなことやって人の心に響くものって出来ないんですよね。作曲って言うのは、「こうすればウケるのはわかっている」というのと「こうするとアリキタリだよね」っていうのの二つのバランスをどう抜いていくか、という問題であって、人が「こころ」をゆさぶられる音の運びのパターンって、そんなにたくさんあるわけではないんです。その組み合わせをユニークに作れるのが「天才」っていうことなんですよね。

例えばモーツァルト。 天才の代名詞のようによく言われますが、その譜面を読んでいて「意味がわからない!?」と思うところは実はほとんどないんですよね。これは敬愛するバッハでもそうですね。建築のアナロジーで考えると、どこにどういう素材を用いてどういうデザインで仕上げようとしているのか、その強度や特性を知っていれば、譜面を読んでどういう曲にしたいのか、という意図は100年という時間と、ヨーロッパと日本という空間を超えてビビッドに対話することが可能なんです。

要するにモーツァルトやバッハの譜面を読むと、殆ど戸惑うことがなくて「見事だな」とは思うけれども、解そのものに至るプロセスにはまったく違和感がないんですね。これが、松任谷由実になると、かえってその知識が邪魔になってしまって戸惑っちゃうんです。

ふふふ、つまらないもん学んじまったな、とタバコをすいながら(もうやめたけど)コートの襟を立てながら口笛吹きつつ去りたい感じですが・・・

ああああああ、このすごさ、音楽の不思議さを感じて頂くためには個人的にレクチャさしあげたいので、ご希望の方は仰ってください。数人まとまればピアノのあるカラオケボックスかなんかで「ユーミンはなんで天才なのか?それまでのポップスとどこが違うのか?」という講座をやりたいと思います、はい。

Monday, January 3, 2011

美意識に従って生きる

いきなりですが・・・

地球温暖化論では、地球の平均気温の算出方法の妥当性とか、そもそも地球の平均気温と二酸化炭素濃度との因果関係についての議論がかまびすしいのですが、最近思うのは、これはそういう問題ではなくて、

美意識の問題

ではないか、ということです。

これはすなわち、エネルギーを垂れ流し、大量消費しながら飽食し、そのうえ鈍麻しているという自分に対する違和感、さらに言えば嫌悪感、もっと言えば「そうでない生活を送っている人に対する憧れ」によって形成されている様に思えます。

この「美意識に従って生きる」という流れは、ここ数年で顕著になってきたトレンドだと思うのですが、2011年はさらに加速していくのではないかと思います。

自分自身はどっちに与するかというと、やはり「美意識」に従って生きる流れを加速したいと思っています。その為に技を鍛え、徳を積む一年でありたいと思っています。