Tuesday, November 30, 2010

「理想の会社」はあるか?


理想の会社というのは、まあ存在しないんだな、ということを最近になってやっと皮膚感覚でわかるようになってきました。

心理学では「イニシエーション」という概念を大事にします。これは、ウィリアム・ブリッジスが指摘している「終わらせられない病」の話でもあり、まさに彼が著書「トランジット」の中で指摘している「チェンジとトランジットは違う」ということもそれなんですが、自分にとっては「理想の会社はない」とやっと思えたというのは、イニシエーションなんですね。つまり「あるかも知れない」という気持ちと決別する・・・「終わらせる」ということです。

で、これは結局は人生も恋人も家族も同じではないか、と。

理想の人生を思い浮かべて、自分の人生とのギャップにため息つく人はたくさん居ると思います。華々しい人生を送る人が居る一方で、自分は・・・・という考え方ですね。でも、そういう人生でも愛してあげて欲しい、というのが、僕自身は聖書、というかイエスが言おうとしているコアなメッセージの一つなんだと思うんですよね。あんまり大そうなことは言っていないんです。

例えばフランスにフローベルという作家が居て、この人の短編の中にこんな話があります。

ある日、雪のふる寒い日に聖人が歩いていると路端にライ病の乞食がハダカで居る。寒かろうと思って聖者は自分の外套をやると乞食はまだ寒いという。そこで上着をやる。まだ寒いという。そこでついには下着までやってしまうのですが、それでもまだ寒いからお前が抱いて暖めてくれ、という。そこでハダカの聖者が抱いて暖めてうちに、この乞食がイエスに変わった

とそういう話なんですね。遠藤周作先生は高校時代にこの短編を読んで「ばかばかしい、フローベルはアホだ」と思ったそうですが、確かに不条理ですよね。一体この話は何を伝えようとしているんでしょうか

解釈は人それぞれなんですが、この乞食というのは、僕の、または貴方の、いやこれまで地球上で生を営んで消えて行った何十億、何百億もの人々の人生なのではないか。汚れていてみすぼらしい。でも、そういうものを一生懸命に慈しんで欲しい。イエスというのはつまり「愛」ですから、そうすることによってそれはいつか「愛」に変わる。それを慈しんでくれれば、それはいずれかけがえのないものに変わるからということを伝えようとしている、というのが遠藤周作先生の解釈です。

で、これはフローベルが人生をメタファーで語ったものですが、僕らにとってはそれは会社であれ、見た目であれ、家族であれ、住んでいる場所だれ、生まれた家系であれ、みんなそうなんですよね。自分でも満足のいく完璧なものなんていうのは殆どなくて、よくてまあどっか欠けている、普通は直視したくない、まあ人に見せたくない、という感じですよね。

でも、そういったものを自分のものとして取り込んで、慈しんであげる、その慈しんで行く過程自体が人生の意味なんだよ、と最近いろいろなものから言われたり、示唆されたりしている気がします。アウシュビッツに収容されながらも運良く生き延びてその後心理学者になったV.E.フランクルも

「人生の目的何てない。生きることそれ自体が目的なんだ」
「殆どの人は、人生に何かを求めてしまう。でも本当は、貴方自身が人生から何かを求められているんですよ」

と言っていますね。これも最近引っかかっている言葉。

気になる向きには是非「夜と霧」を。

Thursday, November 25, 2010

駒沢ラン


週末。

ジビエの鹿肉に当たったりして体調を崩して以来、しばらくランニングからご無沙汰していたのですが、一ヶ月ぶりに駒沢公園を走ったら、紅葉のトンネルがすでに崩れかけていました。

惜しいことした・・・・

もう少し早かったらもっときれいだったのにな。でも十分きれいで木々を見ているだけでもずっと走れそうです。

駒沢公園のランニングコースは一周2.2キロ。自宅からの距離が300メートルくらいでしょうか?家からの行き帰りも含めて2週で5キロという感じです。夕食前にさっと走ってくるとビールが美味しいです。

Saturday, November 13, 2010

幸福論と広告代理店とうつ病

世の中には様々な「三大〜」というのがありますが、幸福論にも「世界三大幸福論」というのがあります。

1:バートランド・ラッセルの「幸福論」
2:アランの「幸福論」
3:カール・ヒルティの「幸福論」

の3つなのですが、皆19世紀半ばから20世紀にかけての人物です。19世紀から20世紀にかけて「幸福とは?」という論議が出て来たのは面白いですね。というのも、19世紀というのは生活水準が産業革命によって急激に上昇した時期ですから、その前の時代に比較して遥かに「暮らしやすい」時代になっているはずですから。

マズローは人間の欲求に段階があることを指摘して、食欲・睡眠欲といった低次の欲求が満たされると、所属・承認・自己実現と高次の欲求にシフトすると説いています。

19世紀に幸福論が社会的に議論されるようになったのは、裏を返せば多くの人が「幸福がわからない。自分は幸福じゃない」と感じていた、ということです。産業革命を経て社会全体の豊かさが高まって、過去の人々があれほど望んでいた「安全で豊かな暮らし=基本的な欲求」が満たされたにも関わらず、あまり幸福を感じられないのは何故なのか?ということだったのではないでしょうか。

ここに幸福というものの有り様を考える一つの鍵があります。その鍵の一つが「仕事」です。

「世界三大幸福論」にはいくつかの共通性があって、その最たる点が「仕事の幸せ」です。どの本でも「仕事をせずに遊んで暮らすのは不幸」であって、幸福になるための大事な要件として「仕事」が挙げられています。これは何もゴージャズでかっこいい仕事、ということではなく「畑に出て6日は朝から晩まで働く」ということを推奨しているわけです。語感的にはむしろ「労働」といった方が正しいかも知れません。

三大幸福論が共通して示唆しているのは、肩書きとか会社のステータスが大事だとかいうことではなくて、恐らく「世の中に確固とした価値を提供している。誰かの役に立っている、必要とされているという実感」が、精神の健康を保つためには必要なのだ、ということだと思うんです。

それで思い出したのが、古巣の電通では最近「こころの病気」にかかってしまう若い人が多いという話なんですね。これって、上記の点になぞらえて言えば、それはそうだろうな、と思ってしまうんです。

電通にかぎらず、広告代理店ってテレビや新聞といった媒体の購入手数料で儲けるビジネスモデルですが、一方で中の人達がなんであんなにアタフタ忙しそうにしているかというと、そことは全然関係のないマーケティング関連のプランの策定とかTVCMの企画とかイベントの実施とか、要するに「媒体の取引=儲け口」とは関係のないところなんですね。で、そういった「アタフタする仕事」はほぼ無料で提供して、その代わりにものすごく儲かる媒体取引をうちにやらせて下さい、というのが基本的なビジネスモデルです。

で、そういう会社において「こころの病気」になる人が増えている、というのは、これはどういうことかと考えるとやっぱり、

自分の仕事に対して、お客様からちゃんとお金を頂く

ということが大事なのではないか、と思った次第なんですよね。広告代理店の今のビジネスモデルでは、みんなで「アタフタ」して作ったりやり遂げたことっていうのは「タダ」なわけですから、それを活用するもしないもお客さん次第なわけですし、そもそも費用が発生しないものについては人間はやっぱりアプレシエイトしないと思うんですよね。で、先述した通り「労働」がもたらす幸福感の本質が「誰かの役に立っている、価値を提供している」という実感によってもたらされるのであれば、このビジネスモデルというのは構造的に「労働による幸福の充足」というのは形成できない、ということになりますよね。

給料の額よりも、本当に「労働」をさせてくれるところを選ぶ、というのが人生を幸福に歩むためのポイントなのではないでしょうか。


Friday, November 12, 2010

グロービス堀学長とディナー

昨晩はグロービス経営大学院の堀学長と、ファカルティ数名での夕食会。題して、

「プレジデント・ディナー」。

堀さんの目線の高さに感服しました。本当に国を憂いてらっしゃるのですが、やはりアントレプレナーだな、と思わせるのが、憂いているだけでなく、実際に動いているという点です。

具体的には、CEOアジェンダになぞらえ、「国のアジェンダ」作りを財界人・政治化を巻き込んで始めている様で「日本が打つべき100の対策」というリスト作りをしているのだそうです。

社会福祉のミニマム化、公務員の大幅削減、憲法9条の改正等、アジェンダはなかなか刺激的でした。とにかく衰退をとめないと、とお考えの様ですね。

日本の衰退が叫ばれてもう10年ほどになりますが、過去の歴史をひもとくかぎり 「歴史上、衰退論が叫ばれている国で、実際に衰退した国はない」 と、政治学者の中西輝政先生は言っています。

曰く、

古くは18世紀のスペインが、近世では19世紀末のイギリスでは盛んに衰退論が議論されましたが、その時点では実は衰退していなかった。

衰退が実際に始まるのは、逆に「衰退論がタブーになるとき」。スペインでもイギリスでも衰退論を述べる人が叩かれる様になり、誰も衰退論を叫ばなくなってから、実際の衰退が急加速で進んでいった。

ということのようです。

今の日本ではまだまだ衰退論がかまびすしいですが、一部には「ネガティブなことを言うな!」と能天気なことを言う財界人・政治家も出てきています。

「本当の衰退」が始まるまでの時間はあまり残されていないようです。

Thursday, November 11, 2010

Don't settle!

(写真は勝海舟)

スタンフォード大学でアップルのCEOスティーブ・ジョブズが行ったスピーチが一時期話題になりました。僕も何度か聴いたのですが、その中で特に印象に残ったのが

Don't settle!

というメッセージです。

これは、日本語にすると「定住するな」ということになりますが、文脈を踏まえて意訳すれば、「丸くおさまるな、落ち着くな」といったようなことになるかと思います。

では「落ち着くな」というメッセージを、キャリア上の問題としてどう考えてみればいいのでしょうか?僕は、この言葉は「自分の人生を変化させる様な機会があったら変化する方向へ積極的に舵を切れ」といった意味で捉えるといいのではないかと思います。つまり「オープンで居る」ということです。

しかしそうなると、これはなかなか心理的にはしんどいということになりますね。オープンということは、未知の領域に踏み出していくことも多々あるということになるわけですが、未知の領域に踏み出すのはやっぱり不安だし、踏み出してみると強いストレスがかかることは容易に想像できます。

なので、この

Don't Settle

というメッセージを実現するためには、「未知の領域に踏み出すことの不安に耐えられる、もしくはそもそも不安にならない」様にしないといけないわけです。

では不安にならないために何が必要なのか、というと、これがいわゆる「スキル」になるわけですね。世の中で仕事を成し遂げていくために求められるファンダメンタルなスキルセットが、もしその人にあるのであれば、その人はオープンな状況を楽しめるようになるはずです。

この「スキルセットがあるからオープンな状態を楽しめる」という人物の典型像が坂本龍馬と勝海舟ですね。

この二人は二人そろって非常にオープンな人ですよね。人と出合ったり、人を出会わせたりすることに躊躇なく突進していきます。自分を憎んでいたり、嫌っていたりする人にも平気で会いに行っちゃう。何でこんなに躊躇なくオープンで居られたのか、ということを考えてみると、やっぱり剣術の達人であったということが、非常に大きく利いていると思うんですよね。

龍馬は、よく知られているように千葉道場で北辰一刀流の免許皆伝を取っていますね。ものすごく強いわけです。なので、人に会いにいくときに「乱暴な人だったらどうしよう・・・斬りかかって来たら、こうやって逃げるか・・・?」といった様なことは、恐らくあまり考えずに、パッパッパとフィーリングで会いに行っちゃっていると思うんですよね。なぜなら無茶苦茶強いから。これは、よくわかる話ですね。

では勝海舟は?ということになるのですが、こちらは実はあまり知られていないのですが、勝も直心影流の免許皆伝なんですよね。実は無茶苦茶強い。人を斬るかどうかはともかく、人から「絶対に斬られない自信」はあるわけです。だからあんなにオープンに、自分を殺そうとしているかも知れない人とも、どんどん会っちゃうわけですね。

勝海舟は、自分が直心影流の免許皆伝でありながら、自分の刀の「つば」と「さや」を和紙をよってつくった「こより」で結んでいました。強く刀を抜こうとすればこよりは切れます。ただ、そこに一瞬の心のブレーキがかかる。斬ればさらなる恨みを買って敵を作る。斬って目の前の敵をねじ伏せても日本の問題は解決しない。斬るより逃げる、説得する。心にそう決めて自分の免許皆伝の腕を封印したんですね。ただ、いざとなれば少なくとも「斬られない自信」はある。その自身が彼のオープンさの礎になっているのだと、僕は思うんですよね。

勝のオープンさを支えた剣術の技術は、現在では語学であったり、問題解決の技術やマーケティングの知識だったりします。そういう、どこの会社に行っても自分が発揮できる「自分の剣」を持つことが、この時代においてオープンで居続けることの、やっぱり必須の条件なんだなと思う次第なわけです。

Tuesday, November 9, 2010

残すバブルと残さないバブル

90年のバブル崩壊以後、日本人は自信を失ってしまった、という物言いには、多分に「過去=是、現在=非」というノスタルジーが含まれている様に感じます。ウィリアム・ブリッジズは、「人が何か新しいことを始められない、という時、それは「始まり」の問題ではなく、実は「終わらせられない」という問題なのである」と言っていますが、このもの言いもそう。分かれた女のことをグジグジ言うのと同じですね。

しかし、ここでよく考えてみて欲しいのですが、日本にあの80年代末のバブル期の狂乱が再度やってくることは、我々が豊かで幸せな人生を過ごす、ということに照らして、本当にプラスなのでしょうか?そもそも、日本人がバブル崩壊以後、失ってしまったという「自信」とやらは、本当に自信と言える程のものなのでしょうか? そんなものが本当にあったんでしょうかね??

さて、人類はその歴史の中において、数多くのバブルを経験しています。狭義で言えば代表的には17世紀のオランダのチューリップバブルや、18〜19世紀の鉄道熱やゴールドラッシュがそれに当たるでしょうが、すこし間尺を拡げ、資本の流動性が過剰に高まっている状態をバブル前期と考えてみると、例えばルネッサンス前期や19世紀、ヴィクトリア期の英国もそれに当たるでしょう。

こういった時代と日本の80年代末のバブルを比較すると愕然となる事実があります。これらの時代が、例えばルネサンスがレオナルドやミケランジェロを、ヴィクトリア期がターナーを生み出したことと比較して、なぜ日本のバブルは、ああも無惨なものしか残せなかったのでしょうか?

実に不思議なことに、政治学も経済学も経営学もまったくこの問題について無頓着に見えます。多少問題意識を絡めて発信をしているのがアートの世界ですが、残念なことにアーティスとの殆どは、今の現実世界を構成しているルールやシステムの強かさをよく分かっていないので、提言が非常にナイーブであったり的外れになってしまい、実際に世の中を動かす側の人たちを動かす程の力を持ち得ていないのが現状です。

なぜ、日本のバブルは、人類にとって、「バブルはよくなかったって?でも○○を生み出したんだからいいじゃない」と言えるものを、残せなかったんでしょうか?

ここで鋭い方は、もしかしたらこの質問そのものに違和感を感じたかも知れません。 そう。そもそも経営の目的は「残す」ことなのか?「残せなかった」ということを、そもそも経営の失策として考えるべきなのか?という疑念です。

実はここにこそ、我々の周囲の風景の無惨さと、経営という、20世紀から現在にかけて、我々が人生や自然資源を莫大につぎ込んでいる営みの折り合わなさがあります。

ぶっちゃけて言えば、経営というのは「残させない」というのが目的の営みであって、「残す」ということのアンチテーゼなのです。

「残す」より「残させない」のが経営の神髄、と言われて「?」と思われる方も多いでしょう。このことを分かりやすく説明する事例を、一つ紹介しましょう。

私が以前在籍していた電通に、「鬼十則」という一種の行動規範が存在しました。電通中興の粗である四代目社長の吉田秀雄が自らを律するために書き起こしたもので、私が電通に在籍していた時代には、多くの社員がほぼ全文を暗記していて、ことあるごとに取り上げられるほど社員には浸透していました。

一方、その同じ電通社内に、1970年に「戦略十訓」なるものが存在していたことは、余り知られていません。鬼十則が行動規範なら、こちらは一種の戦略ツールとでも言えばいいのでしょうか?広告主のキャンペーンを成功させるための、「考え方の切り口」を例示しているものですが、ここに、なぜ経営という営みが、モノを残せないのか、ということのヒントがあります。

電通 戦略十訓
1:もっと使わせろ
2:捨てさせろ
3:無駄使いさせろ
4:季節を忘れさせろ
5:贈り物をさせろ
6:組み合わせで買わせろ
7:きっかけを投じろ
8:流行遅れにさせろ
9:気安く買わせろ
10:混乱をつくり出せ

パっと見て分かる通り、これは米国の社会学者のヴァンス・パッカードが1960年代に、消費者にモノをどんどん買わせるために米国企業が行っている手法であるとして分析、批判した内容とほぼ同様のものです。いわば米国の学者の物言いを、批判を転換してポジティブな手法としてパクったわけで、今の電通には考えられない話ですが、1960年代という時代故に許された、または殆どの人に気づかれなかったということなのでしょう。

電通というのは毀誉褒貶する会社ですが、一種の空恐ろしさを感じるのは、21世紀の今という時代になって初めて見えてきた20世紀型マーケティングの本質が、ほぼこの10のルールの中に入っているということです。1970年代の段階で、その是非は置いておくとして「現代のマーケティングの本質」を彼らは気づいていた、ということなのでしょう。構成はともかく、その内容には端倪すべからざるシャープさがあると思います。

ここに、経営という営みがモノを残せなかった理由があります。ひと言で言えば、経営のパラダイムに置いては、モノは「残ってもらっては困る」のです。

Sunday, November 7, 2010

旧約聖書のすすめ

最近、旧約聖書を一度ちゃんと読まないとな、と思い、ゆっくりとしたペースながら少しずつ読み進んでいます。

以前から「キリスト教徒かどうかの如何を問わない。一度は読まないとダメ」と、様々な人から言われていたので、ようやく重い腰を上げたという感じですね。

「一度は読まないと」の理由は大きく二つあります。

一つ目。キリスト教にまつわる筋で言えば、新約聖書の内容が、そもそも旧約聖書と一種の対構造をなすものであって、本当に新約を理解しようと思ったら、旧約聖書を読んでおかないとわからない、ということがあります。

読み始めて200頁程ですが(旧約聖書は続編も含めると何と2000頁の大部です)、たしかにこれは読んでみるとそこかしこに、「ああ、だからイエスはああいうことを言ったんだな」というのがわかる文脈になっていることがわかります。

例えば、新約においてイエスは十字架刑で処刑されますが、これは「人類全体の罪を背負う生け贄として神に捧げられた」という神学的な解釈がなされています。で、旧約を読んでみると、この「何かの罪を背負って生け贄になる」というコンセプトは、これでもか〜という程、よく出てくる考え方なんですね。例えばレビ記の16節には、そのまま「こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う」とあります。

また、新約においてイエスは、現代のマザーテレサがまさにそうであった様に、当時の社会において忌み嫌われ、排斥された人々にこそ、むしろ積極的に手を差し伸べて接触しようとしたことが語られています。そういった排斥された人々の中に「長く血漏をわずらった女」を触れることで治癒する、というエピソードが出てきます。

血漏というのは僕自身は知らない病気なのですが「きっとつらく苦しい病気だったのだろうな」とか「触れて直すっつーのはいわゆる、こりゃ「気」だな、うむ」とか思うわけですが、このエピソードが言い表そうとしている本質的なポイントは、やっぱり新約だけ読んでいるのでは伝わっていなかったんだな、と思うんです。

というのも、旧約を読むと「血漏の女は汚れている。その女に触れた者も、また汚れている」。ということで、従って触れた者は「浄められなければいけない」とする律法が、ガシっと書かれているわけですね。つまり「直した」ということよりもむしろ「触った」ことの意味が大きいわけです。共同体のルールの中で、タブーと言われていることを積極的に犯していく、信念に従って動く、というのがイエスの特徴です。

一方で、旧約聖書に書かれているこの「病気の人に触れると汚れる」と主張する点は、日本人が宗教という言葉からイメージされる寛容さとずいぶん乖離があるように思えますが、旧約聖書は「差別ルールのオンパレード」と言える部分があって、とにかく「あの病気のやつは汚れている、この病気をしているヤツは汚れている、あれに触ったヤツは汚れている、これを食ったヤツは汚れている」ということで、とにかく「汚れた人」をいっぱい生み出しちゃうルールというか、律法なんですね。

で、当のイエスは、そういうことを、一見無視して手を差し伸べているように見える。

じゃあ、旧約に規定された律法を否定しているのか、ということに、当然なるわけですが、ところがどうもそうではないらしいんですね。

例えば新約聖書のマタイ福音書の第五章で、イエス本人は

「わたしが来たのは律法を廃止するためではない。それを完成させるためである」

と言った上で、

「律法に書かれている言葉で、一つもムダになるものはない」

とまで言ってるんですよね。これはヘーゲルが言うところの「止揚」なのかも知れませんが、何ともよくわからない。よくわからない、というのはつまり形式論理学を否定している、ということです。触れると汚れる、と言いながら触れる、で律法は間違っていない、と説くのは形式論理学的には成立しません。これは、よく考えてみると、例えば仏教における「禅」も同じことが言えますね。例えば有名な禅の公案である狗子仏性。この問題は「狗に仏性はあるか、ないか」という問いで、形式論理学的には「ある」か「ない」かのどちらか、ということに答えはなるわけですが、実際には「あってない」し「ないがある」ということで、これを心底「わかった」と思えるのが、いわゆる「悟り」になる(ちょっと乱暴な解説ですが)わけで、もしかしたら似た様な思考の構造なのかも知れませんね。

ただ、こういう「よくわからん」というところが、僕は聖書の魅力だなと思っていて、やっぱりこれは新約を読んで、で旧約を読んで、で「え?え?え?どいうこと??」と考えるところに、やっぱり蘊奥があるのではないか、と。

で、前段が長くなりましたが、二つ目の「キリスト教にまつわらない」話で言えば、これは単純に美術史の勉強をしていたので、旧約を読んでいないと、「絵のモチーフがわからない」ということです。

例えば典型的なのはミケランジェロのダビデ像でしょうか。フィレンツェでご覧になった方も多いかも知れませんが、あれは右手に小石を、左手に布を持っていますね。あれを何に使ったのか、というのを文脈も含めて知っておかないと、美学はできないでしょ?ってそりゃそうだわな、と。

ということで、楽しみながらゆっくりと読み進んでいます。

あと加えるとしたら、旧約でものすごく違和感を感じるのは「血」に対する嫌悪かな。とにかく血を呑んだり食ったりするのをものすごく厳しく戒めているんですよね。これはどういう理由なのかわからないんだけど。不思議に思うのはフランスでもイギリスでも血を使った料理ってありますよね?フランスだとブーダン・ノワールが、イギリスだとハギスが、それぞれ内蔵に血をつめたものですから、これ旧約的にはアウトなんじゃないかと思うんですが、その辺はどうなんでしょうかね??

なかなか奥深いです。



Wednesday, November 3, 2010

エクストリームなことをやろう

高校時代の同級生で今は外資系の金融機関に勤めている大親友の大山君と広尾のイルブッテロ で夕食。

3ヶ月ぶりの情報交換だったのですが、その間に彼が「24時間の制限時間で72キロ走る」というマラソンに参加し、見事完走したことを聴く。

細かい話は割愛しますが、72キロ走るっつーのは、それだけで他の人には得られないユニークな体験ということで、ここから得られる学びも、やっぱり聴いていて実に面白くて、ユニークなものなんですよね。

最近になってよく考えるのですが、何でもいいからエクストリームにやってみると、その人なりの輝き、というのが出て来るのではないか、と思っています。人に深みを与えるのは何であれ極端な体験、エクストリームな体験なのではないかと思うんですよね。

逆に言うと、エクストリームな体験をあまりしてこなかった人って、よほど頭のいい人でない限り、どんどん話がつまらなくなりますよね。

40代のエクストリームな体験を、どうデザインするか、しっかり考えないとな、と思わされた夜でした。


Monday, November 1, 2010

Happy Halloween




今日はハロウィン。家の近所の瀬田の丘ではインターナショナルスクールが複数校集まっている関係で外国人の居住者が多く、多くの家がハロウィンパーティをやっています。

その瀬田の丘を、夕食前に子供たちと一緒に街を回ってきました。

写真は衣装に身を包んだ子供たち。長女用のドレスはバーバが苦労して丈を詰めたもの。長男はなんかメキシコ人みたいな感じですが、両人はご満悦で今日は朝からずっと家でこの格好でした。かご一杯のお菓子をもらって大満足の一日だった様です。