Monday, July 26, 2010

プリンシプルとは

白洲次郎は「日本人にはプリンシプルがない」と言った。

で、プリンシプルとはなんだ、ということになるわけだが、なるほどこれはプリンシプルだな、と思った話を一つ先日読んだ。

キューバ革命の志士、カストロの盟友であったエルネスト・「チェ」・ゲバラは、CIAに拿捕され、最後に銃殺されているが、後にこの下手人は目の疾患にかかり、手術費が安い共産国であるキューバに来て、無事手術を終えて米国に帰国している。

誰もが手術を受ける権利がある、というのが、この場合キューバの掲げたプリンシプルであって、それは例え建国の英雄を銃殺した当の本人であろうとも代わりが無い、ということだ。

次郎は、軽井沢ゴルフクラブの理事長として君臨して、時の総理大臣である田中角栄が訪れてゴルフをプレーしようとした際にも、「会員でないから」という理由で追い返している。日本という国で、ここまでルールを杓子定規に当てはめて生きていくには相当な窮屈な思いをしただろう。

ここでいうプリンシプルとは、殆どルールみたいなものだ。ただ、ルールが他人との間で共有されているものであることが前提なのに対して、プリンシプルはまあ自分だけが決めればそれはそれでいいという側面が、ある。

そういう側面から言えば、日本には「ルールがあってないようで、やはりあるのかと思うとどうもないらしい」という側面があって、それを端的に表しているのが、消費者金融に課せられた過払い金の問題だ。グレーゾーン金利は、グレーゾーンといわれながらも法的には認められた金利だった。にも関わらずある日突然違法とされ、これまで課してきた金利を逆に支払えという。この件に怒ってGEファイナンスは日本の消費者金融市場から撤退してしまったわけだが、そのときのアナウンスが非常に分かりやすくて、確か「ルールのない国では金融事業はできない」というものだった。

このグレーゾーン金利の問題も、まあ金融行政側のプリンシプルの問題だろう。

じゃあお前は自らのプリンシプルを決めているのか?と言われると、実は決めていたりする。いくつか挙げると

:お年寄りには親切にする
:保身のために人(特に部下)を裏切らない
:人の善性を信じる
:他人には必ず自分より優れている点があるので、それを見つける努力をする
:「金」より「面白いかどうか」を仕事を選ぶ判断基準にする
:子どもには、常に「人生は面白くて楽しく、生きるに値するよ」といい続ける

といったところだろうか・・・・あまり思いつかない。

こういうルールが、ある程度染み付いてくると、そうそうひどいことに人生はならないのではないか、という気がする。

Tuesday, July 20, 2010

続き

とさっきはそこまで書いてきて、つまり経済学は何を言っているかというとコモディティの値段は下がり続けて利益は出なくなるだろう、ということで、では値段や給料が下がり続けるのを嫌がるのであれば「差異化」が大事だ、とこう来るわけですね。

確かに、僕は付和雷同とか、組織の論理とかが大嫌いなので、世の中の人がみんな「サイカサイカ」と唱えながら、自分らしさを追求するのはいいことなのかも知れないと思うわけですが、一方で、これは選民思想ではないということをくれぐれもわかっていただきたいのですが、そもそも「差異化」のポテンシャルがある人なんて、ほんとに一握りなんじゃないか、という気もするわけですね。

会社ならともかく、人って何千万人もいるわけで、一方で、仕事で求められる要件とかクライテリアが1万くらいしかないとすると、どうしてもあるクライテリアに関しては競争状況が発生しますよね。差異化って土俵を分けるって話なので、人間が一千万人居たら土俵も一千万必要なわけですが、世の中にはそんなに沢山の土俵はないよね、とこう思うわけです。

で、もしそれがそうなのだとすると、経済学、というか経営学もマーケティングもそうなんですが、「汝自身を差異化せよ」という福音は、これはタイヘン残酷なメッセージを送っている、ということになってしまうわけですよね。

OECD加盟国の中で日本は人口当たりの自殺数が最も多いのだけど、そこの部分と、こういう社会状況はリンクしているんじゃないかと、思うんですよね。

え?差異化が求められているのは日本だけでなく欧米でもそうだけど、欧米の自殺率はそんなに高くないじゃないかって?はい、それはその通りなんですが、何なんだろうな。

ネットって何のため

情報の非対称性が失われる完全市場では、利益は限界まで減ってしまって資本主義は崩壊するだろう、と予言したのはマルクスだったかしら?

インターネットは企業から市民へのパワーシフトを促した、とよく言われて、そういう文脈において例えばスティーブ・ジョブズやグーグルがかつての西海岸カルチャーがなしえなかった革命を達成するかも知れない、と期待を込めて言及されることが多い。

確かに、情報が広く、速く流布することで企業は超過利潤を得る機会を減らすことになる。なんでこんなことを考えたかというと、先日家の荷物を大量に運送する機会があって、見積もりをネットで取ったら簡単に合い見積もりが取れた、ということがあって、あ、これはネットが出てきたせいで世の中は全般的に完全市場に近くなっているのかも知れないな、と思った次第なんですが、そのことと僕個人が、世の中はこうあるべきだ、と感覚的に思っていることに、やっぱりなんか齟齬があるな、と皮膚感覚として実感したから、ということなんです。

それは何かと言うと、荷物の梱包をやってくれたのが、もういい年をしたおばあちゃんたちだったのですが、この人たちに払うお給金は、ネットがもたらす革命的な情報流通力によって、限界まで下がり続けるのだろうな、ということなんです。

僕は、ネットで何社かの運送業者に声をかけて、其々から見積もりをもらう。
そして最も安いところに決める。

このこと自体、何ら責められるいわれはないんですけどね・・・・

ネットは確かに便利なんですが、より完全市場に近くなる、つまり情報流通の量とスピードが高まることによって、本当につらい思いをせざるを得ない状況に追い込まれるのは資本家よりも、その人たちに使われる労働者なんではないか、とふと思ったわけです。

これが、今日未明にふっと目がさめてなぜか思ったことの次第。

Sunday, July 11, 2010

残る勉強と残らない勉強と

最近はビジネス書を殆ど読まなくなってしまっているのですが、戦略コンサルティングという職業をやっていくにあたって、これはいいことなのか悪いことなのか、ということをたまに考えます。

自分が顧客の前で話すことの殆どは、どこかで読んだり聴いたりしたことがネタになっているので、ビジネス関連の書籍を殆ど読まなくなっているというのは、これは発酵の材料になるコメや麦を供給していないということなので、どうもマズいのではないかしらん、というのが考え方の一つ目。

一方で、これは何で最近読まなくなっちゃったか、ということとも関係があるのですが、最近書店に並んでいる本の殆どが、ここ1〜2年しか読まれなくてすぐに世の中から必要とされなくなるような本だという気がしていて、それは典型的には一時期流行したセカンドライフとか、今だとツイッターとか電子書籍に関連する本とか、そういうものですが、こんなものを読んで「今、ここだけ」でしか有用でない知識の習得のために貴重な読書時間を投下するというのは、ROIとしてはいかがなものなのだろうか、という気もするんですよね。

以前にもこのブログで書きましたが、エルネスト・チェ・ゲバラが、コンゴに居る自分に送って欲しいと妻にリクエストした書籍のリストは殆どが古典、それもギリシア時代の本であって、現代の本って殆ど入っていないんですよね。何か根本的にモノを考えるとか、変えるとかという時って、やっぱり普遍的なもの、つまりその世界である程度古典として成立しているもの、これは何もギリシア神話だけでなくってビジネスの世界で言えば、産業組織論とか、そういった基本的なものをちゃんと勉強する、という方がいいのじゃないか、という気もするんですよね。といいつつ、じゃあそういう本を読んでいるのか、と訊かれると「まったく読んでません」というのが答えなんですけどね。

あとこれは競争戦略論の話なんですが、よくキャリアアップするためにビジネス書読んでいる人居るんですけど、これも程度問題であって、人と同じ本読んでいたら人と同じ結果にしかならないんですよね、当たり前ですけど。この辺、世の中の人はみんな何考えているのかホント不思議なんですけどね。人と同じ本読んでいたら、人と同じものしか出来ないし、出せない。僕はこの世界の中では相当変わった角度でアウトプットを出す人だと自他ともに認めていますけど、それって何が違うのかというと単純にインプットしているものが違うから、ということなんだと思います。まあ多少プロセッシングが違う、ということもあるのかも知れないけど、プロセッシング自体がなぜ違うのかというと、これも結局はインプットしているものが違うからプロセッシングも違うということになるわけで、畢竟、「必読のビジネス書特集」とかにリストアップされている本を一つ一つ読んで行くっていうのは、これは一体どう考えるとそういうことになっちゃうのかな、という気もするんですよね。

常識として最先端の知識を押さえておく、ということと、人と違うインプットを心がけることで差別化を図って行く、というのは、なかなかバランスが難しいですね。まあ最終的には、どこで自分の強みを出すか、それはつまり「あの人は常に最新動向を知っている」というポジションか、「あの人は常に根源的にモノを考えてアウトプットを出す」というポジションかということなんですが・・・・最後は向き不向きということなんでしょうけど、恐らくもっとも狙ってはいけないのは、「両方のポジションを狙う」ということなんでしょうね。

ココロします

サステナビリティについて



ここでのサステナビリティというのは、最近よく言われる「環境との共生」の意味ではなく、人生についてです。

前々から、戦略コンサルティングの仕事は面白いし、世間一般水準から比べれば待遇も恵まれているのですが、体力的・精神的に負荷が大きく、いつまで続けられるかな〜という気持ちが、まああります。

で、この仕事をやめるとするとやりたいことは山ほどあって、それは

:ラジオ番組のDJ
:雑誌編集者
:著述業
:八ヶ岳で街道レーサーがあつまるカフェオーナー
:講師

・・・などなどなのですが、こういうことをやりながら食うっていうのは「サステナブル」なのかな、と思っている次第です。

で、あるきっかけがあってやっぱり厳しいのかな、と。

そのきっかけっていうのが、ある出版業界の友人から聴いた「勝間さんの本が、最近1万部くらいしか売れなくなって来ているんですよね」という声なんです。

僕は勝間さんの本殆ど読んだことないのですが、あれだけの売れっ子でもやっぱり売れ続けていられる時期ってせいぜい3年なんだな、と思うとモノ書いてお金稼ぐって言うのを一生続けるのは、恐らくホント大変ってことなんですよね。

僕も一昨年に本出したからニュアンスわかるんですよね。ビジネス書としては「かなり売れた」と言われましたけど、それで2万部。印税は10%なので750円の本だと150万円。一般的な高給取りの職業でいう月給の手取り分くらいにしかならないわけですね。ということは月一回のペースで、こういう本を出し続けて行かなければいけないわけで、それってやっぱりサステナブルじゃないよな...と思った次第なのです。

うーん・・・悩ましいですね


Friday, July 2, 2010

日本がダメと言いたがる人々

最近よく、

「なぜ日本企業はアップルになれないのか」

とか

「日本にアップルが生まれない理由」

といったタイトルの本や記事や主張を見かける。

では、そういう人たちに聞き返したい。

「なぜ、アメリカには”第二のアップル”が生まれないのか?」

と。

アップルというのは確かにすごい会社だと思うが、アメリカにおいてさえも特殊な会社であって、この一社と日本の企業を比較することに意味があるとは思えない。

冒頭に記したようなことを言っている人たちの主張は、アメリカにたった一本だけ生えている木を取り上げて、その木が日本に生えていないことを論拠に、土壌の違いや育て方がダメだ、といったことを論じているのに等しい。

なぜアメリカのほかの地域にはその木が育たないのか?ということは論点にならない。

この人たちは、なぜかくも幼稚で不毛なことを主張しているのだろうか?色々と理由はあるのだろうけど、僕が思うにこういったことを言う人々は、ある「病気」に侵されているように思う。どういう病かと言うと「日本をダメだダメだダメだダメだと言いたくてしょうがなくなる」病である。そういう病に冒されてしまうと、上記の様な不毛でイロジカルな主張を口から垂れ流すようになってしまう。

気をつけよう。