読了

「マズローの心理学」と「イエスという男」を読了。

大変面白かったです。

実はここ2年程読書はハズレが多かったのですが、今から考えると「自分がこの先なにをテーマにやっていくのか?自分の興味と自分の仕事を、どう重ね合わせていくのか?」がまったく見えていなかったことがその原因なのではないか、と思われます。興味深いと思っても、自分とその本の関わりがよくわかっていないと、やっぱり本から「引き出せ」ないように思えます。ここ半年程で、また「自分が掘り下げるべきでない領域」と「掘り下げて行くべき領域」というのが少し見えて来て、それが読書の実りを豊かにしてくれているのだと思います。もう少しキザな言い方をすると、広い意味で「希望」がないと、読書から実りを得られない、ということなのだと思います。

マズローの心理学
フロイトは病的な人ばっかり研究したので、「病的な人の心のシステム」を構築したけど、この領域の研究をいくらやっても「自己実現」への道は見えない。ということで、「病んでいる人」よりも「自己実現」した人を研究すべきであって、この「自己実現した人」をいろいろと調べると、共通項が見えて来て、それってこういうことんだよね、という本です。

フロイトの「精神分析入門」を初めて読んだのは中学生のときです。かなり変な中学生ですが、そのときに覚えたフロイトの学説に対する非常に強い違和感の原因を初めて他者から解説された気がしました。フロイトは、なぜかくも有名かつ高名なのか?恐らく「無意識」というものの影響の大きさを初めて指摘した、という点が大きかったのではないでしょうか。パイオニアというのは、全体としての作品の完成度や思想を別にして、往々特別扱いされるものですよね。これは美術史でも同じで、例えばジョン・ケージとかクセナキスなんかは手法そのものが革命的に新しかったので人口に膾炙するようになりましたが、作品そのものの完成度はそれほど高くないですよね。

マズローは、心理学のフロンティアを切り開いた巨人=フロイトのアプローチを「壊れた時計ばかり見て、時計がどう動くのかを研究しようとしている」と論難し、人が幸せな人生を生きるのに資する様な心理学を打ち立てようとすれば、研究の対象は「自己実現した人」であるべきだ、と指摘します。そして、このアプローチから見えてくる人間性の地平は、フロイトがえぐり出した残酷で露悪的な本性とは全く異なります。フロイトについては、僕は子供のときから「こいつは正直、ホンモノなのか?」と思ってたのですが(要するに、人間性の本性が残酷で動物的なんじゃなくて、アナタが残酷で露悪的なんじゃないの?と思っていた)、マズローだけでなく、フロイト後の心理学者の多くがフロイトの理論をこきおろしているのを読んで30年来の溜飲を下げました。

イエスという男
新約聖書の福音書は、イエスと親交があったりなかったりした人が、ビミョーに人の話を訊いたり、教会の都合を考えたり、ローマ政府のご機嫌を損ねないように気を使いながら、いろいろと工夫して作った物語です。で、このビミョーに、物語の内容を左右している部分を、タマネギの皮をむくように歴史学の手法を用いてハガしていったときに、史実として「人間イエス」が何をどのように考え、どのように発言したのか、ということが見えてくる。

これもフロイトじゃないけど、新約聖書の記述も、そのまま飲み込めばいいのかも知れないけど、僕は昔からそれができなくて、咀嚼して理解しようと思うとどうしても筋が通らないところが、実はものすごく多いんですよね。

漱石の「それから」に、こういうやりとりがありますね。

代介:「お父さんは金の延べ棒ばかり呑んでいるからそういうことをおっしゃるんです」
父:「金の延べ棒とは?」
代介:「延べ棒のまま呑むから、延べ棒のまま出て来るんです」

帝大を出ていい年に成っているにもかかわらず相変わらず働こうとしない代介に対して、古人の名言をもって説教する父に対して、代介が言う「金の延べ棒」とは、孔子や老子の著作に書いてある文言、つまり「金言」を、自分の立場なりに咀嚼せず、そのまま反射している、つまり「金言を砂金に噛み砕くことをせず、延べ棒のまま、丸呑みしている」ので、人に説教するときにも、その人也にアドバイスすることが出来ない、つまり「自分が読んだまま、訊いたままのことを言う=延べ棒のまま出てくる」ことを揶揄しているわけですが、多くの聖書の文言にもこれは当てはまります。聖書も、延べ棒のまま呑んでいる人が多い。

新約聖書には、多くの「イエスが語ったとされる文句」が出てきますが、実際に本人が語ったことが明確になっているものは、そのうちのごく一部であって、また実際にそれが語られた文脈が、聖書に記載されているものとは異なることも多い様なんですね。

僕は前から聖書に興味があって、ずっとこの長編の大河ドラマを読んでいますが、やっぱり「不自然だな、なんでこういう対応になんのかな」、「この台詞と解説だとまったく論理的に整合がつかないな、どうしてこういう解説になっちゃうのかな」と思って悩むことが、多かったんですよね。で、それをどう考えたらいいのか、と長いこと悩んでいたのですが、そのポイントのことごとくに、「それって、後の福音書作者が教会の権力を増すため、ないしは当時社会を支配していたローマの検閲をくぐるために、こういう表現にしたのであって、実際の意味は、こういうことですよ」という解説を加えていて、これがまた死ぬ程納得感があるんですよね。

この本を読んで、ずっとイエスという「人間」が立体的に、親近感を持って浮かび上がるようになりました。おすすめです。

キャリアについて


最近、あるきっかけがあってキャリアについていろいろと考えています。

まず、古典的な大家の話から。

心理学者で組織開発のグールーでもあるエドガー・シャインは、仕事選びのポイントとして下記の3つを考えろ、と言っています。

1:自分は何が得意か?
2:自分は何がやりたいか?
3:社会的意義がある、と感じるのはどのような活動か?

で、同様にこちらも有名人ですが、マイケル・アーサーはどう言っているか、というと

1:自分ならではの強みはどこにある?
2:自分が何かをしたいと思うとき、なぜそれがしたいのか?
3:自分はこれまで誰とつながり、どのような関係を築いてきたか?

の3つなのですが・・・

普通に仕事人生を生きて来た人にとって、これらの問いは答えることは率直に言って非常に難しいですよね。例えばエドガー・シャインの問いの2なんて、それがそもそもわかっていたらキャリア論なんて考えないし、マイケル・アーサーの問い2に至っては、それを本気で考え始めたら深すぎて働いてなんていられないよ、ってくらい深遠な問いですよね。この問いを答えるために仕事を犠牲にするのであれば哲学者にはなれるかもしれませんが、仕事で何事かなすのは難しそうです。まあそれはそれでいいキャリアなのかも知れませんが。

ということで、古典的な大家の宣う「キャリアの考え方」に非常に違和感を感じていたところ、なるほどな、と思う論考に出会いました。それがジョン・クランボルツの「プランド・ハップスタンス」という理論です。これ、簡単に言えば

「人生で重要なことは偶然で決まる。だから偶然をまず受け入れよう」

という考え方です。漠としたものであっても自らに望む大きな方向性がなんとなくあるのであれば、自分にとって都合のいい偶然を起こせる様な、何らかの準備や働きかけは出来る、ということです。これは先日紹介した書籍(してないか??書いた気がするけど)である「その幸運は偶然ではないんです」(原題:Luck is no accident)でも同じ主張が展開されていました。

クランボルツは、このPlanned Happenstance Theoryを実際に展開する上で、重要なポイントとして下記を挙げています。

1:好奇心
自分の関心を、狭い範囲にとどめないこと。ある程度関心のある領域に沿って、広く好奇心を持つこと
2:こだわり
自分にとって譲れない点や信念は大事に
3:柔軟性
当初の計画よりずれていても、それが自分の興味や価値観の範囲内であれば、受け入れてみる
4:楽観
どのような結果になっても、得るものはあった、と考えるようにすること
5:リスク
受け身でもリスクは向こうから来る。であればこちらから迎撃せよ

ということで、殆ど精神論なのですが、個人的には「なるほど」と思える点が多いです。これは日本における組織論/人的資源の大家である神戸大の金井先生もほぼ同様のことを指摘されてらっしゃいますね。

キャリア論を勉強して気づいたのですが、キャリアを勝ち負けで捉え、艱難辛苦を乗り越えて理想の仕事を手にしようと思って頑張るというのは実は非常に危険だ、ということです。こういうアプローチで実際に「勝ち」を手に出来る人はほんのごく一部であって、殆どの人はむしろそのような態度を取ることによって「挫折感」のみを残すことになる。この挫折感が、せっかくつかんだ中程度の成功や幸せを、そうと感じさせなくしてしまっている、という側面があるように思います。勝間和代さんが煽る様なキャリアの考え方、というのは非常に危険なんですよね。

完璧でも美しくもないものだけれども、それを慈しんでいるとそれはいつの間にかかけがえのないものに変わる、という話を、以前にもフローベルの短編を題材にして、人生とはそういうものなのではないか、と書きましたが、仕事もまたそういう側面があるのではないでしょうかね。

※:イメージはジョルジュ・ド・ラトゥールの「大工の聖ヨセフ」です。そうヨセフも、そしてイエスも大工だったんですよね。でもヨセフは大工としての人生を全うし、イエスは途中で大工としての活動から宣教活動に入りました。イエスは、大工から宗教家にキャリア・チェンジしたわけです。

Merry Christmas


子を失った母親、伴侶の病気に苦しむ人、親から暴力を受けている子どもたち、仕事を失った父、将来の不安に苛まれている人、・・・・世界はまだまだ切なくなる様な哀しみに満ちているけれども、希望を失わずに生きていくことが、このような時代だからこそ大事なのではないでしょうか。

イエス・キリスト誕生の下りは新約聖書の中ではマタイ伝とルカ伝の二つに、よく似ているけれども細部が異なるエピソードとして記録されています。

「恐れるな。私は民全体に与えられた大きな慶びを告げる。今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ伝2.8)

古代のパレスチナの状況が、現代とどう違っていたかを細かく考えることは、意味があるとも言えるし意味がないとも言えます。もちろん新約聖書の記述やイエスの言葉を深く理解しようと思えば、当時の風俗や社会状況に関する理解は必須ですが、しかし世界を覆っている嘆きや哀しみの種類について言えば、それは今とほとんど変わりがないとも言えるのです。

僕は新約聖書を読んでいて、2000年という時間を感じさせない「哀しみのビビッドさ」に心打たれることが、よくあります。そういう意味では、当時の人々も今の我々と同じ様な葛藤や悩み、哀しみを抱えていたのだと思います。

そのような時代にあって、先述した天使の言葉「恐れるな・・・」が、どのように人々の心に響いたのだろうか、ということを考えてみたりするのも、クリスマスイブならではですね。

メリークリスマス

WIKIPEDIAへ寄付しますか?



最近、ウィキペディアが盛んに寄付を募っています。

ファウンダーであるジミー・ウェールズさんのお願いの文章も掲載されています。驚くべきことに創立者を始め、運営に携わる全ての人がボランティアであって、対価を受け取らずに運営しているのだそうです。これを読むと、ウィキペディアから多大なる恩恵を蒙っている僕みたいな人は「1000円くらいだったらいいかな」と思ってしまうのですが・・・・

ちょっとよく考えてみよう。

WIKIPEDIAがどんどん成長して、いろいろな情報が全部タダで手に入るようになると誠実に図鑑や辞典を出版している出版社は経営に行き詰ってしまうでしょう。そして、こういう会社の経営が行き詰ってしまえば、中長期的にはWIKIPEDIAに供給される「新しい情報のフロー」は止まらないまでも、非常に細ってしまって、世界は「情報のフロー」から「情報のストック」に軸足を移していかざるを得なくなります。

ここまで考える必要はないのかも知れませんが、WIKIPEDIAに寄付する、ということは「社会が高コストをかけて新しい情報が生み出すよりも、低コストで既にある情報を自由に使えるようにするほうがいい」ということの意見表明である、とも言えます。

ストックの情報が誰でも自由にアクセスできる、というのは非常にリベラルな社会に聞こえるかも知れませんが、一方で、新しい情報を生み出す、ということを生業として成立させなくする(させにくくさせる)というのは、結果としてはナチが行ったような焚書と同じような事態を招く可能性があります。

つまり、一見リベラルな活動に見えるけれどもWIKIPEDIAが大きな情報を蓄えるようになればなるほど、新しい情報を社会に送り出す、というプラットフォームとしての出版という産業はどんどん衰退していってしまうわけですね。

ここまで論を進めると、でも出版というプラットフォームにウェブがとって代わるわけだからいいのではないか?という意見も出てくるかも知れません。この点を考えるには「市場には”知性”を生み出す力があるのか?」という問いに向き合わざるを得ません。

つまり、これまでの人類の歴史の中でプロ編集者が担ってきた、「知性を生み出す人を見出し、それを磨き、世の中に喧伝し、送り出していく」という機能を、マス市場が代替しうるのだろうか?という問いですね。

で、この点に、僕は悲観的なんですよね。ケータイ小説とかは出てくるのかも知れないけど、プロ編集者による「選択・研磨・提示」というプロセスがなくなるとドストエフスキイもキルケゴールも夏目漱石も、生まれてこないんじゃないか、という気がします。でも、WIKIPEDIAがあらゆる情報を提供するようになれば、編集者を食わすプラットフォームは崩壊しちゃいますよね。

ということで、

1:ストック情報は、(ネット環境にある限り)誰でもアクセスし、無料で利用できるけれども、新しい知性は生まれにくい社会

2:ストック情報は、「知」を購える人々にのみ解放されるのみだが、継続的に新しい「知」が、選択・研磨・提示のPFは維持され続ける社会

の、どちらがいいのでしょうか?ということかと思いますが・・・悩ましい・・・

23年



高校生のときに参加した短期留学のプログラムの同窓会が、なんと23年たって初めて開催されることになって参加してきました。

日本からの参加者は25名ほどだったでしょうか?殆どが慶応義塾高と慶応女子高からの参加で、そのうち15名程が懐かしの再会を果たしました。

衝撃的だったのが、見た目については殆どみんな変わりがないということ。ちなみに僕は「ものすごく痩せた」と言われたのですが、はて、そんなに体重変わっていないのですが、顔の肉が落ちたのかしら・・・?

慶応高校から引率のために参加されたシャペロンの松原先生もいらっしゃいました。これまた変わらない・・・・なぜなんだ?

僕はずーっと自分が所属する組織、かつて所属した組織に対する愛着が薄いタイプだ、と思ってたのですが、このときは心底「慶応ってやっぱりいい学校なんだな」と思いました。こういう体験、つまり17歳の高校生を集めてハワイに一ヶ月間送り込んで向こうの家族と生活をさせながら、韓国やタヒチその他の高校生と一緒に学校に通う、という体験をする機会を与えてくれた慶応に感謝したいと思います。

最近、いろいろなことが「節目」を感じさせるんですよね。年齢とか家のこととか仕事のこととか。今回の同窓会も、いつもと違う「脳の別の部分」を刺激されるような不思議な余韻がずっと続いていて、とてもいい刺激になりました。

あと感じたのはいい意味で年を取った、ということかな。10年前にこの会があったとしたら、きっと楽しかったかも知れないけど、色々な感情、それは劣等感とか虚勢とか偏見がないまぜになって心底解放できなかったんじゃないかと思います。40歳という年齢だからこそ、肩肘張らずにため口でバカを言い合えるんだと思うんですよね。

本当に、久しぶりに心底楽しいな〜と思えた時間でした。幹事に感謝です。



神学と理論物理学

ヒッポのアウグスティヌスは「神と格闘すること」の中に、純粋な知的興奮を見いだしました。
彼は、理性のエロス、つまり神の本質とそのあり方についてもっと良く理解しようと欲する「あこがれ」、「よろこび」について語っています。

一方で、アインシュタインは、違う言葉をつかいながら、ほぼ同様のことを言っています。曰く、

わたしは、神のパズルを解きたい

と。

この両者は、目に見えないシステムを理解することに情熱を傾け、そして何よりその行為を愛したということで紙一重なんじゃないでしょうかね。

建築家の本はなぜつまらないのか?


建築家やデザイナーが著した書籍って、世の中にごまんとあって、僕もかなりの数を読んできたと思うのですが、その都度、不思議の思うことがあったんですね。

なんで、面白いと思ったのに、読後に何も残らないんだろう?

という疑問です。

読後に何も残らない、というのは現象的な言い方で、もうちょっと厳しい言い方をすると、なにも学びがなかった、ということです。

これは、自分が建築家でないから、ということではないと思うんですね。歴史家や政治家の書いたものでも、面白いものはやっぱり面白いし、学べるところがたくさんあるんですけど・・・

まだ答えが出ていないのですが、多分大事な「問い」なので備忘録と思ってここに記しておきます。誰か、仮説があったら教えてください〜