Sunday, August 30, 2009

デザイン経営力

建築家の安藤忠雄氏、イタリア人以外で初めてフェラーリのデザイナーを努めた奥山清行、アウディのデザインを刷新してブランド再興につなげた和田智、インディペンデントのデザイナーでMUJIのクリエイティブ・ディレクターも務める深澤直人などなど、「個人」という単位で見てみると、デザインの分野で世界の最先端を走っている日本人は、実は結構居ます。

これが、企業という単位で見るとからっきしダメになるのは、一体どうしたことなのか?

歴史を振り返ってみても、例えば浮世絵は当時行き詰まっていた西洋絵画に新しい地平を提示しているし、日本に寄留した建築家のブルーノ・タウトは桂離宮の美しさに泣いてしまった、というエピソードもあります。

こういうことをいろいろと考えてみると、日本人は模倣は上手だが、クリエイティビティは無いと、なんとなく漠然と共有されている風評があまり正確ではないのではないか、という気がしてきます。

ではなぜそんな評価がグローバルに、何となく根付いているのか、と考えると、恐らくそれは個人単位では発揮される世界的に最高度のクリエイティビティや美意識が、企業単位になるとなかなか発揮されず、どうも二番煎じの様なものになりがちだ、ということから来ているのではないでしょうか。

グローバルの家電製品マーケットのシェアを韓国企業に奪われてしまった日本ですが、同じ様な現象は恐らく自動車業界において中国やインドを相手に起こるだろうと僕は思っています。恐らく品質レベルでは早い段階で日本と遜色ないものを出して来ることになるでしょう。それも恐ろしく低コストで。

そうなった時に日本が対抗して行ける軸はナンなのか?通常こういった議論が行われると真っ先に言われるのが「イノベーション」という解答で、これはこれでありなのだろうけど、僕はデザインというのも、大きな競争資源になるのではないか、と考えています。

サミュエル・ハンチントンは、日本をして単一の文明圏であるとしてアジア文明とは別個のものであると位置づけていますが、日本民族が持っている美意識というのは非常にユニークで、これは差別的優位性を構築する貴重な競争資源になるのではないか?

事実、個人単位で見てみると、ユニークな美意識を武器にして世界で戦って競争優位を構築している事例は枚挙にいとまが無い。問題は、個人が持っている美意識をいかにプロダクトにつなげていくか、というマネジメントの問題だということになります。

Sunday, August 16, 2009

充実の週末

情報を売る

ソシュールは、言語が「差異の体系」であることを明らかにして袋小路に入っていた言語学の壁の向こうに広大な宇宙があることを示しました。 そして90年代に、消費もまた「差異の体系」であると指摘したのがボードリヤールでした。 機能的に十分である以上、その商品が持っているモノとしての意味は問われない。重要なのは、他の商品とどのような差異をその商品が持っているか、である、と説いたわけです。 差異とは、つまり情報です。 i-Phoneが売れたのも、絶対的な利便性という側面よりも、他の商品との差異という側面から考えた方が整理がつきやすいのかも知れません。

パソコンを隠せ アナログ発想でいこう! D.A.ノーマン

ヒドいタイトルだが読了。


■一般に人はテクノロジーの即効的な影響を過大評価して、長期的な影響を過小評価する傾向がある
:例えばグーテンベルグの活版印刷は100年かかって全欧州に広がった。歴史的な視点で見ればこれは急速な普及だが、その時代に生きている人からすれば数世代に渡る変化になる
:電話の発明は1875年で普及し始めたのは1900年代
:飛行機の原理は1800年代の終わり頃に考案され、実際に成功したのは1903年で、商業化されたのはその後30年たってから
:ファクスの発明も1800年代の中頃だが普及したのは1980年代から

■初期参入者が勝つとはかぎらない
:ドゥリエーは米国最初の自動車会社だが消えた

■インフラの標準化は事業がテイクオフする条件
:アメリカでは、政府がFMステレの標準形式を制定した結果、音響機器業界やラジオ局は栄えた
:一方、AMステレオの方式選定は市場の趨勢に任せることにした。その結果、いくつかの方式が現れたがどれも生き残らなかった。放送業界は、どの方式がスタンダードになるかを見極めてから放送開始しようとした。受信者は、ラジオ局が十分に増えてからラジオを買おうと思った。

■カメラは記憶を邪魔し、スケッチは記憶を強化する

■これからも、新しい物は出てくるだろう
:1899年に、当時の米国の特許庁朝刊であるチャールズ・デュエルは「発明されるべきものは既に全て発明された」と宣言した
:いま現在、我々は今日のテクノロジーの世界は、歴史上のどの時代とも異なって特別である、と考えがちだが、そうではない

■フォーカスグループはもはや意味がない調査手法だ
:顧客に新しい価値を提案できる商品は参与観察とプロトタイピングから産まれるだろう
:一方で、これまで重宝されてきたフォーカスグループインタビューは、効力を失うだろう
:フォーカスグループは、様々な点で、今日の商品開発の手法にそぐわなくなっている
:まず、フォーカスグループの対象者は、意識的で合理的な回答をするが、実際の彼らの現実の毎日の行動と回答は、多くの場合一致していない
:一致していない以上、毎日の生活の中で生じる不満や不便、不利益は「実際に観察することによって」しか把握できない
:またフォーカスグループは、一般に、こころの奥底にある願望や思いを引き出すのではなく、こう答えるべきだという思い込みを引き出してしまう傾向がある
:実験心理学では、人は、自分の行動の理由を説明するときに俗説を作り上げてしまう傾向があることを明らかにしている
:こういったフォーカスグループにおける、本音ではないリクエストや不満の数々が、現在の携帯電話の無意味な機能の付加、パソコンや家電の大混乱を招いている

■顧客は誤っている
:まず、現在の顧客は、現在顧客でない人たちよりずっと数が少ない
:従って、現在の顧客に最適化していくことは、現在顧客でない人たちを、さらに遠ざけることになる
:現在顧客である人たちよりも、将来顧客になるかも知れない人たちに目を向けよう

備忘録

”私が目指すのはパックの向かう先であって、それがいまある場所ではない”

2007年のエキスポ基調講演で ウェイン・グレッキーの言葉



”平凡なアーティストは模倣する。偉大なアーティストは奪う”

パブロ・ピカソ


Friday, August 14, 2009

世界を作り変える経営

街に出て立ち止まり、グルっとその場で回ってみる。

目に入ってくるモノの殆どは企業がつくったモノです。

いま、この世界がこうあるのは、意識的にしろ無意識的にしろ、企業がそうなるように活動したから、ということになります。

ということであれば、未来の世界もまた、企業の活動次第でどうにでもなるのではないでしょうか。

なのに、多くの企業は、高額のコンサルティングフィーを払って「未来の世界はどうなるのか?」というテーマで調査分析のプロジェクトをコンサルティング・ファームに依頼します。

こちらも仕事である以上、頼まれればキチンと分析をしてアウトプットを出すのですが、ちょっと仕事を離れて考えてみると「なるほど・・・・でも、世界がどうなるのですか?という質問の前に、あなたはそもそもどういう世界を作りたいのですか?」と訊いてみたい。

だって、今の文明の殆どが企業活動の結果出来上がっているんだから、ほとんどの企業が世界を変えたいと思えば、それは確実に成就すると思うんですね。

最近はNPOやソーシャルビジネスという言葉が流行っていて、本屋にも関連の書籍が並んでいますが、現時点ではとてもじゃないけど世界を変えるようなインパクトを持った活動や成果は生まれていないと思うし、この先、そういった活動から世界を変えるだけのインパクトが生まれるかというと僕が懐疑的です。

恐らく、問題の根源は、そもそも社会的であるべきビジネスが、単にビジネスと呼ばれて「ソーシャルビジネス」とか「ソーシャルアントレプレナー」という言葉が出来てしまっていること自体にあるのだと思います。

つまり、ビジネスは、社会的な活動ではない

と多くの人が考えているからこそ、「ソーシャルビジネス」なんていう冗長な言葉が出てくるのでしょう。

この場合、ビジネスは社会的なものではない、というテーゼを支えているアンチテーゼは

ビジネスは、個人が金儲けをするための活動である

というものでしょう。

ビジネスを、個人の金儲けのための活動から、より良い世界に今の世界を変えるための活動に変えていく、ということが必要なのだと思います。

そこでボトルネックになるのが、株主資本主義という枠組みです。

今回のリーマンショックの惨禍を見て、声高に株主資本主義を悪く言う人も居ますが、そういう人はリーマンショック以前に株主資本主義が達成してきた成果についてどう考えるかもきちんと言及すべきでしょう。株主資本主義は非常に強かで有効性の高いプラットフォームなので、それ自体を否定しようは僕は思いません。なぜなら代替手段がないからです。あるプラットフォームを批判するのであれば、それに変わる代替手段の提案が必要ですが、多くの株主資本主義批判者にはその点がかけている様に思います。

大事なのは、株主資本主義に変わるプラットフォームを探すことよりも、株主の教養だと思います。

どの企業にお金を出すか出さないか、どの様な成果を期待するか。

金も必要だが、よりよい世界を求めるリテラシー、つまり全人格的な意味での教養が必要なのだと思います。

ルールの書き換え

電通マン必読の本リスト、というのが電通の社内にあって、今はどうなったか知らないけど、その中でもっとも強力に薦められていた本に「マーケティング 22の法則」というのがありました。

確か20冊くらいの本のお勧めのリストの中で、他の本については簡単な解説とそれがなぜ電通マンにとって必要なのかという理由が書かれていたのですが、「マーケティング 22の法則」については、「読んでない人は今すぐに読んでください」と書かれているくらい、本当に必読中の必読の書という位置づけでした。

このブログを見ている僕の友人の多くにもお勧めしたし、事実僕自身も長いことすばらしい本だと思っているのですが、最近になってこの本に書かれているルールの多くが、書き換えられる時期に来ているな、と感じています。

例えば、22のルールの一番目に上げられている「一番手の法則」というのがあります。

これは、市場参入の一番手を果たす、というのが勝つためのもっとも有効な方策である、という考え方です。

このルールの有効性の証左として、著者は「大西洋無着陸飛行の一番目の成功者はリンドバーグとして誰にでも知られているのに、二番目の成功者は誰も知らない。二番目の方が早く、燃料消費も少なかったのに関わらず」という事例を挙げています。

そのころの僕は20台の純真な青年だったので、上記の様なインチキ証明にコロリとだまされてしまって、何度かクライアントの前でもそういった事例を引き合いに出して初期参入の有効性を説いていたのは実に恥ずかしい思い出です。

上記の証左って、考えてみればぜんぜん証明になっていないですよね。

事業として成功するのと名前が知られているのは別のことです。今、大西洋を横断しようという人はおそらくはノースウェストとかユナイテッドとか、まあどこでもいいのですが最新鋭のジェットを使いたがるわけで、リンドバーグの操縦するスピリットオブセントルイスに乗って横断したいと思う人はいないだろうし、たとえリンドバーグが航空会社を起こしていてリンドバーグエアウェイズというのがあったとしてても、リンドバーグが大西洋無着陸飛行を行ったのと、航空会社を選定するのに「何の関係もない」と言う人がほとんどでしょう。

つまり、

一番最初に大西洋無着陸横断飛行をやったのはリンドバーグで誰もが知っている。二番目にやった人の名前はぜんぜん知られていない

という弁に対しては、

そのとおり、だから何?それが市場に最初に参入するのが正しいということの証明にはなりませんよ。
なぜならリンドバーグはなんら事業を起こさなかったから。それを正しいというには、リンドバーグが航空会社を設立し、それが今現在もトップ企業であることが必要です。

というのが正しい答えになります。

あと、余計かも知れませんが、この証明がいかにも気持ち悪いのは、そもそも大西洋無着陸横断飛行をやったのが、リンドバーグである、という話そのものに齟齬があるからです。大西洋無着陸飛行を最初にやったのはジョン・オルコットとアーサー・ブラウンの二人でリンドバーグではありません。リンドバーグが最初にやったのは、大西洋無着陸「単独」飛行で、要するにカッコつきなんです。だからある意味ではリンドバーグ自体が二番手なんですよね。

二番手なのに、なぜここまでヒーローになったのか、ということを考えると要するに二人で出来たことを始めて一人でやった、というのがいかに人心に作用するか、ということだと思いますが、そっちを深く考えるほうがはるかに得られるものがあるような気がします。

こういった重箱のすみをつつくようなことをしなくても、例えば世界最初のゲーム会社はアタリで、任天堂やソニーは後発でしたし、アメリカ最初の自動車会社はデュリアで今は影も形もない。だいたい今世界をひっくり返すような騒ぎを起こしているグーグルも検索エンジンとしては最後発の会社ですし、アップルのi-Phoneも携帯電話メーカーとして考えれば最後発です。

つまり、こうやって眺めてみると「一番手」というのは本当に有効なのか?という疑念がわいてくるわけです。

では、なぜ一番手の有効性がなくなってしまったのか?まあそもそも有効だったのか、という疑念もないわけではないですが、仮に昔はあったとしてなぜなくなってしまったのか、ということを考えてみるとどうも二つの理由がある様に思います。

1:ブランドイメージ占有の有効性の低下
2:技術を内部に持つことの優位性の低下

1は、つまり「安全といえばメルセデス」というようなイメージ(認知心理学の用語ではパーセプションと言ったりします。広告業界ではこっちの方が用いられているかも知れません)を、最初に参入したメーカーほど昔は占有しやすかったのが、ここになって参入時期は関係なくなってしまった、ということです。

その理由は、これは前著にも書きましたが、昔は企業がパーセプションを形成するために使えるコミュニケーションツールはほとんどマスメディアだったのに、今は消費者の多くがパーセプションを形成するためにネットを使うようになったから、ということがあります。

つまり、刷り込み=インプリンティングがしにくくなってきているんだと思います。刷り込み、というのは生物が、特定の対象について短期に強い記憶を持ち、それが長期間持続するという学習現象の一種です。マーケティングに援用して考えれば、消費者が、例えばメルセデスという対象について、コミュニケーションの結果「メルセデスは安全である」という認識=パーセプションを持ち、それが長期に持続したらそれは一種の刷り込みだと考えられます。

一昔前は、その刷り込みに対して「他の自動車の方が安全である」とか「メルセデスは大して安全ではない」という情報は、あまり入ってきません。こういった情報を取得するには、それなりのエキスパートに接したり、実際にメルセデスに乗って追突される必要がありますから、まあなかなか難しいわけです。

ところがネットが出てきて、エキスパートの情報を簡単に集められるようになったり、実際に事故にあった人の体験談を聞いたりすることが出来るようになってきた。こうすると、初期に形成されたパーセプションは、メルセデスと言うブランドのイメージを保護するための防壁としては機能しません。

その結果、最初に参入してパーセプションを占有する、ということの有効性が減少しているのだと考えられます。


次に2:技術を内部に持つことの優位性の低下

というのは、まあ読んで字のごとくなんですが、最初期に市場に参入すると技術(技術だけでもないんですが)に関する知識が誰よりも早く蓄積されて、安くていいものを作れるようになります。類似の概念としてはBCGが発見した経験曲線(累積生産量が倍になると生産コストが2割程度下がるという経験則)がありますが、これも経験の量が増えていくことによって競争力が向上するということでは同じことでしょう。

ところが、ここにきてこの構図も崩れつつあるんじゃないか、と思っています。

先ほどにもあげた任天堂やアップルは、自分たちで技術を囲い込むことをしていません。Wiiもi-Phoneも内部の技術よりも、世の中に存在する技術の寄せ集め、それも決して最先端ではない、わりと「枯れた」技術の組み合わせによって出来ています。いわばプロデュースしているだけでインベントはしていないんですね。

技術のロードマップを設定して着実にそれをこなしていく、というのは先にゲームを始めた会社ほど有利ですが、そこにあまり競争上の意味がなくなってきてしまっている、ということです。

これは更に言えば、技術力よりも、それを組み合わせてプロダクトやサービスとしてのシステムを作る能力の方が、はるかに競争にとって意味が大きいということを示唆しています。

そろそろ「一番手の法則」は見直されてもいいのではないでしょうか。

Sunday, August 9, 2009

書籍用ネタの備忘録

週末はボリショイサーカスと逗子の海水浴で150%エネルギーを消費。

寸暇を惜しんで思考したネタの備忘録。

■定石破りが必要
二宮清純は、「勝者の思考」の中で、サッカーのフォワードで成功するにはルールを型破りする強烈な個性が必要と説いています。そのココロとして、敵のディフェンスは当たり前の攻撃には高度に訓練されているので型を破らなければ絶対に点は取れない、ということを指摘しています。言われてみれば当たり前のことです。これを経営学になぞらえれば、教科書で習ったことをやっても予選突破はできない、ということになります。

教科書を習っても勝てないなら教科書に意味はないのか?

恐らくそうではないでしょう。教科書を習わなくては勝負にすらならない。しかし、勝負に勝つには教科書をマスターして忘れる、ということが必要なのでしょう。

つまり、武道で言う「守破離」です。

またビジネスの世界では、

第一段階:知っていないことを、知らない
第二段階:知っていないことを、知っている
第三段階:知っていることを、知っている
第四段階:知っていることを、知らない

という訓でも語られることがあります。
(余談ですが、だからこそエースに対して、コツは何か、と問うインタビューは意味が無く、実際に彼らがビジネスを実行する現場に行ってつぶさに横から観察すること、つまり文化人類学で言う参与観察が有効なのでしょう)

要するに、教科書で語られていることは常識論として必要なのであって、それを知った上で何が出来るか、が勝負ということです。

先に書いた二宮清純さんは、それまでのフォーメーション練習や教科書を離れて実戦で成果を出すには想像力が必要だと説いています。

実に説得力がありますね。

これをあえて二つの要素に分解するとすると、それは

:インスピレーション
:イマジネーション

の二つになると思います。要するに「ひらめき」ですね。

想像力といってしまうと、それはほとんどイマジネーションと同義なんですがビジネスや、ましてやサッカーの現場で必要になる要件としてはどうしても時間軸の定義が必要なのではないかと思います。

縦軸に時間をとって、横軸に思考の深さを取る。瞬間的な時間で、極めて深い思考を極める、というのが、サッカーで求められる想像力でしょう。であるとすれば、それは英語で言うインスピレーションに近い物なのではないかと思います。

僕が大好きな歴史学者で一橋大学の学長を努められた阿部謹也先生は、著書「歴史家の自画像」の中で「思考というのは一瞬のことであって、その一瞬の密度が勝負。一時間考えた、というようなことを言う人が居るけど、そんなことは不可能」ということをおっしゃっていますが、これも同じこと、つまりインスピレーションとイマジネーションが、何か新しいことをやる、ということの本質なのだということを説いているのだと思います。

同様のことを将棋の羽生さんも仰っていますね。定石で勝てる時代ではない。情報量で勝てる時代ではない。では何が勝負の鍵なのか?そこからいかに外れるか、ということです。


■分析より統合
コンサルティングファームに居て実にやばいな、と思うのは「分析」ばっかりやっているということです。分析というのは、読んで字のごとく「分けて」「折る」、つまり一塊のものをいくつかのピースに分解して、それを検証してみるという作業です。昔からみんなやってきたことなんですが、改めて文字でまとめたのはデカルトで、その著書「方法序説」の中で、「もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうる」という、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めています。
  1. 明証的にであると認めたもの以外、決して受け入れない。(明証)
  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析
  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合
  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)

しかし、最近はこんなことやって本当に意味があるのか、と思うことが多いのです。

例えばわかりやすい例で言って、ある産業が分析から産まれたとは考えられない、ということです。自動車産業は鉄道や馬車の分析から演繹的に導かれるわけがない。音楽産業が、消費者の嗜好の分析から出て来るわけがない。マイケル・ジャクソンが、ブラックミュージックの問題分析から出てくるわけがない。

分析というのは、基本的に「いまあるルールで戦っていて、それをBetterに戦う術」を考えるヒントを与えてくれるだけで、違うゲームを作るヒントについては、ごくごく断片的な情報を与えてくれるだけです(全く役に立たない、とも思わないのです)。

ここまでは実は殆どの人が皮膚感覚でわかっていることです。いくら分析なんてしたって新しいビジネスなんて生まれねーよ、と。

では、なぜ分析は未来を「クリエート」するための武器にならないのか?

それは、分析という行為の本質を考えてみれば自ずと見えて来るのではないかと思います。

分析の本質?

と理系の方は思うかも知れません。僕はごりごりの文系で大学院まで美術をやっていたという人間ですが、極北の彼岸から分析の大陸を眺めてみてその文化のエッセンスは、「分析=比較」であると、考えています。

つまり「比べるというのが分析の本質だと言うことです。

例えば、背が伸びたね、というのは分析の一種ですが、これは自分×現在⇔自分×過去の比較です。これを、なぜ自分は背が低いのか、という分析で考えると、まずファクトとして自分×現在⇔他人×現在の比較があって、例えば自分の食べ物×過去⇔他人の食べ物×過去や自分の両親の身長×現在⇔他人の両親の身長×現在、という項目で比較して行くことになります。

ここで重要になって来るのが、分析の本質が比較である、とすると、未来は常に比較できない、ということがあります。なぜならビジネスにおいては競争のルールが常に変わっていくからです。

恐らく、分析が最も強力なツールとして機能していたのは競争のルールがほぼ出来上がった70年代〜80年代前半の時代だったのではないでしょうか。経営学の名著と言われる著作が多く出版されたのも同時代のことです。ところが、エネルギー危機やインターネットといった要因のせいで競争のルールがいまたくさんリセットされています。そういった時代に分析で未来を読もうという浅はかさ。


■自分が事業をやっている市場の普遍性をちゃんと認識する
昨今、GMの経営危機にまつわるニュースが毎日新聞をにぎわせていますが、そもそもGMって何でこんなにヤバい状態に陥ってしまったのでしょうか。

考えてみたことありますか??

いろいろな要因が考えられると思うのですが、ふと思ったのは、GMのクルマが、アメリカ以外の地域では全く売れていないという事実です。アメリカは単一国家としては世界最高のGDPを誇る国なので、国内で成功すれば、ほぼ世界最大規模の会社になるわけですが、ちょっと引いて見ると国外で成功している会社というのは、実はあんまりない。

この点は、実は余り経営学のコンテキストで語られることが無いので、声を大にして言いたい。

まず、米国は日本の二倍の人口があって、欧州の主要国に比しても3〜4倍の人口がある。だから、国を閉じてビジネスをやっても、日本や欧州の国より、企業が大きくなるのは、まず当たり前だということです。ここを、よく考えてみる必要がある。そして、経営学のメソドロジーの多くは米国発である。経営学のメソドロジーが米国発であることの一つの理由は、米国企業がグローバルに最も成功している、ということが最もドライバーとして働いていると思いますが、考えてみれば、普通にビジネスをやれば米国企業が売上高や営業利益率/額といった指標で、さらに言えばそれ故に株主企業価値という指標に置いても、グローバルにもっともエクセレントな数値になるのは、あったりまえだのクラッカーというくら自明のことなんです

アメリカという国は、自国民の体位を勘案して、他国に対して有利になる様にバスケットボールやバレーボール、アメリカン・フットボールというスポーツを「新しくわざわざゼロから作る」国です。わざわざゼロから作って、他国と比べて、「見てご覧、君たちは、ちょっと僕たちにはかなわないみたいだね」とわざわざ指摘するそういう指摘をするために、わざわざ新しいスポーツを作るということをやる、そういうことをする国なんですね。

まず、ここをしっかりと認識しておく必要があります。

では、そういう「新しい競技とルールを勝手に作って自分で比べて、勝った!と騒いでいる人」たちが、実際にビジネスで何を成し遂げてきたのかを、振り返ってみたいと思います。

縦軸に、主婦向け、ビジネスマン向け、若者向け、というターゲットを、横軸に金融、実用品、嗜好品というプロダクトを取ったマトリックスを考えてみると、アメリカが世界に向けて影響力を持ち得たのは、ほとんど若者向け×嗜好品のプロダクト、つまりマイケル・ジャクソンやハリウッドやコカ・コーラやマルボロやアンディ・ウォーホルといったプロダクトと、ビジネスマン向けの金融商品であって、他のマトリックスではせいぜい善戦、よくてトントン、多くが惨敗であることがわかります。等に主婦向けの実用品では殆どの会社がつぶれてしまいました。

つまり、何が言いたいのかというと、アメリカという国は非常にエキセントリックで変わっている、ということなんです。米国で支持された実用品は殆どグローバルな競争力を持つことなく、輸入の解禁によって市場から抹殺されてしまいました。

僕は、中学校時代に毎年の夏休みをシアトルで過ごしていたのですが、その当時家庭に置かれていた冷蔵庫や掃除機といった電化製品の性能の悪さに、家族が辟易していたのをよく覚えています。

1970年代、GMが内需の拡大によって世界一の売上高を誇る自動車会社への階段を駆け上っているときに、彼らはラジオコントロールによる全自動自動車のコンセプトを発表し、全米の度肝を抜きます。でも、これは対外的には全く受けないコンセプトだった。なぜかというと、欧州や、当時モータリゼーションの萌芽の時期にあった日本では、自動車の運転というのは「レクリーション=気晴らし」であって「オキュペーション=労務」ではなかったからです。GMという会社を経営することの難しさは、自動車の運転を、単に面倒くさいこと、と認識するアメリカ合衆国の特殊な顧客に対して、あまりに最適化しすぎたから、ということも言えるのではないでしょうか。

つまり、GMは、合衆国国民という顧客が、どれだけグローバルに普遍性を持ちうるのかという点について見誤った。もっと言えば、合衆国国民という顧客の、田舎者度合いを、経営の関数として余りに無視しすぎた、ということなのだと思います。

一方で、若者向け×嗜好品というマトリックスにおいては、米国がここまでのコスモポリタニズムを獲得したのは、一考に値することだと思います。

あ、そろそろさすがに本読みたいので今日はここまでで。



Monday, August 3, 2009

長期予測の誤謬 その他

今書いている書籍のネタになりそうないくつかの疑念とコンセプトの備忘録。

1:長期より短期。予測より意思。
戦略コンサルティングファームに居ると、長期予測をいろいろなクライアントからお願いされます。だいたいPEST分析というのを軸に行うのですが(Politics、Economics、Social、Technologyの4つの視点で将来の需要や競争環境を予測するから)、個人的には有効性を疑問視しています。なぜかというと、様々なシンクタンクやコンサルティングファームが提出してきた長期予測には、大ハズレのものが多いからです。

代表的なのはコンピューター関連業界でしょう。1980年代に出されていたパーソナルコンピューターの市場規模に関する長期需要予測は大ハズレでした。もともとIBMの社長ですらパーソナルコンピューターの市場規模はせいぜい世界で5台程度だろうと予測していましたし。

予測というのは経営という生業を行うにあたっては不可欠のものの様に言われていますが、問題になるのは「予測」と「意思」の関係性です。「予測」と「意思」の関係が、「意思」が「主」で「予測」が「従」であればいいのですが、「予測」が「主」で「意思」が「従」になると、これは危険だなと思っています。

つまり、自分の会社はこういうことをしたい、世の中をこう変えたい、という意思があって、そのために戦い方を考えたいから予測が必要だ、という流れならいいのですが、自分は何をしたいのかよくわからないけど不安だし、カネも欲しいから予測してくれ、というのはまずい
ということです。

いろいろとありますが、

分析とかアジェンダだとかさ、もういいんだよ。要するにお前何したいんだよ、

ということですね。

もし予測をするなら密度を濃く、短期でやるのが宜しいと思います。意思と予測。短期と長期。意思は長期でもって予測は短期を繰り返して精度を上げて行く。こういうことになるのかと思いますね。予測を長期でやって意思は短期、というのが最悪の経営です。


2:ミディアムアウト
技術でも市場の要求でもない、流通やメディアの有り様が、戦略そのものを超えて思考様式すら規定している。このタガをどう外して行くか?

3:「モノ」より「コト」のデザイン
日本には深澤直人さんや原研哉さんと言った素晴らしいデザイナーが居て、私も尊敬していますが、彼らのデザイン提案に接していて違和感を感じるのは、デザインされたプロダクトが美術館のホワイトキューブの様な無菌状態に置かれて提示されていることです。実際の日本の家庭の殆どはそうでない。ホワイトキューブに常に商品が置かれているのは、その商品がどういう行為や場所の文脈で使われることになって、生活をどう変えるか?ということについての具体的な提案がデザイナー側にないということです。

デザインがプロダクトそのものを離れて文脈も取り込んだ全体性の提案能力を獲得できない限り、この国が抱えている凄まじい醜さというのは解決されないと思います。

この文脈から乖離した、一種無菌の標本としての提示に対して消費者がシラケるという構図は広告の世界でも起こっていることだと思います。花束を抱えた外人俳優が奥方らしき人を迎えて自動車で乗り付けると上に花火が炸裂する、というトヨタのCMがありましたが、関係者はこのCMによって何を伝えたいのか、全く意味がわかりません。

もし、消費者が、このクルマを買うことによってCMで提示されているクラス感の生活が手に入る様な幻想を持ってくれることを期待していたのなら、あまりにも消費者をなめすぎている、と言わざるを得ません。欺瞞そのものでしょう。

これは、いわゆるミニバンのCMでしたが、こういったクルマの顧客の生活とCMの提案内容にあまりにギャップがありすぎるのではないかと思う訳です。普通のミニバンの生活というのがあって、郊外の巨大ショッピングセンターに子供連れで週末に買い物に行くとか、ファミレスに行くとか、夏休みに田舎に帰るとか、そういう普通に想定される使い方に対して、このクルマは、その文脈をどう包み込んで変えてくれるのか、という提案こそ必要でしょう。そういう提案が全く亡くなってしまったのが、若者が自動車に夢を持てなくなったことの最大の理由だと、僕は思うし、そもそも広告が効かなくなった、というのも広告そのものが無意識に身につけているこういった欺瞞に、もう皆が気づいているからということなのだと思います。