Friday, July 31, 2009

技術のロードマップを外れる

近年の大ヒット商品を東西で考えてみると、東の横綱=Wii、西の横綱=iPodということになるでしょうか?

こう並べてみると、この二つの商品には共通項が多い様な気がします。

一つに、技術のロードマップを意識していない、という点です。

特にWiiは枯れた技術のみで構成されている商品です。その時点で手に入る最新技術よりも一世代前の技術で基本的に構成されています。iPodも、アップル自身がテックオリエンテッドの会社でないこともあり、基本的に世の中で手に入る技術の順列組み合わせで出来上がっていて技術的に特筆すべき物は無い。

そして重要なことは、これらのお金をザクザク生み出す商品に使われているコンポーネントの供給メーカーには、ゼンゼン儲かっていないところも多い、ということです。

例えばiPodには記憶装置に日立や東芝のHDDが使われていますが、これらの会社の業績がどのような状況かは皆さんもよくご存知のはずです。

現在、多くの企業で中堅から幹部として働いている人は20世紀の後半に生を受けて経済成長期に青春を過ごした人たちですから、思考のパラダイムとして「進化」と「成長」という概念が立ちがたく結びついてしまっている様に思えることがあります。

この「成長=進化」の幻想、つまりロードマップドリブンの経営を迷走させる危険な考え方だと思っています。

例えば、最近若者の自動車離れが騒がれていますが、その要因の一つに自動車の進化の方向性に若者が共感しなくなっているということがあると思います。

自動車の開発ロードマップの方向性は、安全性や静粛性、親環境性といった要素がありますが、こういった進化に若者が興味を持てなくなっている、ということだと思います。なぜなら彼らにとってはもう十分に安全で静かだからです。ここから先、安全性が多少良くなったら若者が自動車に戻ってくるかと言ったら、そんな感じしないですよね。にも関わらず、企業は相変わらず安全性や静粛性といった古典的なテーマのロードマップに乗って莫大な資金を投下しているわけです。その費用によってもたらされる限界効用は殆どゼロではないかと思います。

一方で、意識されない要件については自動車というのはここ50年くらい全く進化していません。普通に考えると今の自動車にだってまだまだ不満があるはずです。

なぜ、一人で乗るときも4人分のスペースを引きずる必要があるのか?
荷物を載せないときには小さくした方が駐車しやすいのになぜできないのか?
真横に動いたり、その場で回転したりすれば駐車しやすいのに、なぜ出来ないのか?
なぜ1万円の自動車を作れないのか?

市場には衝突安全性や静粛性より、もっと切実なニーズがあるのに、そこに気づかずに消費者にとってはどうでもいい要素の進化に莫大なお金を使っている。

これはWiiにしてやられたソニーのプレイステーションも同じことが言えるでしょう。現代人にとってもっとも希少な資源は時間ですから、時間のかかるゲームというのは非常に高価です。たとえそのソフトが1万円で購入できても、ある程度楽しめるのに10時間程度の修練が必要であれば、その10時間分は機会費用として消費されてしまいます。年収1,000万円の人の労働時間単価は5000円/時程度ですから、単純計算で言えばまず5万円の費用がかかる。しかも、この時間を趣味や友人との食事といったレクリエーションや勉強等の投資に使えば、その時間によって得べかりし利得は得られない訳ですから機会損失も発生する。

プレイスーテションはコンピューターパワーを高める、グラフィックの描画能力を高めるというロードマップを驀進することで事業を成功させてきましたが、ロードマップというのはある程度まで進んでしまうと顧客にとってはどうでもいい一線を超えてしまうんですね。

ハーヴァード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセンは、企業が自らの技術ロードマップをばく進しているうちに、客にとって「どーでもいい」進化に拘泥してしまい、安くて枯れた技術を使う新興企業に足下をすくわれるという事例を数多く集めて「イノベーションのジレンマ」と名付けましたが、それと同じことがやっぱり今いろいろなところで起こっていると思います。

Sunday, July 26, 2009

今日思いついた4つのキーワード

21世紀の日本型経営について、今日思いついた4つのキーワード

1:「太く短く」から「長く細く」へ
2:グローバリズムよりローカリズム
3:Haptic 形容詞の幅を拡げる
4:脱成長幻想

すいません、全然構造化されていませんが。

1:「太く短く」から「長く細く」へ

これは前著で記した「メディアアウト」というパラダイム、つまりプロダクトアウトでもマーケットインでもない、メディアや流通が商品や広告の有り様を決める、という思考様式ですが、この「メディアアウト」という考え方のせいで商品の寿命が日本では極めて短命になっています。

清涼飲料業界では、一年にだいたい1000以上の商品がリリースされていますが、3年後に継続している商品はだいたいここ10年の平均で見てみると2〜3程度です。残りの997は、まあ歴史の残滓として消え去って行く訳ですが、この997に、色々な人の知恵や残業時間やストレスが、膨大に注ぎ込まれています。これって国家的な損失じゃないかと思うんですね。

時間軸を10年に取ってみると、その確率は1000のウチ1以下。では100年では。すいません、そこまではちょっと計量していないのですが、まあ意味がないくらい小さい数字になると思います。

一方で、例えば鹿苑寺。まあ金閣寺といった方が通りがいいかも知れませんが、800年間富を産み続けている。ファイナンスや事業評価の世界ではにNPV=正味現在価値という言葉が呪文の様に使われていて、要するに未来永劫に渡って生み出す価値を、今ここで計量するとどういう数字になるのか、というばかばかしい考え方ですが、最近生み出されている商品のNPVって、過去の日本のどの時代の文物と比べても、時間的に持たないものになってしまっている気がします。

これをどう考えるか?

いまのマーケティングは、1000のうち3つしか生き残れないことを前提にしたマーケティングになっていて、残りの997の失敗のコストを成功した3で回収するモデルになっています。昔近鉄に、三振か特大のホームランか、と揶揄されたブライアントというとんでもない選手がいましたが、まさにそのバッティングスタイルと同じことをやっている訳です。

そのため、この成功した3つの商品の購入者は、本来支払うべき便益の対価以上に、企業が失敗した997分の実験のコストを支払われていることになります。しかも、その3つの商品ですら殆ど生き長らえない。

この先は、また今度書きます。


次に 2:グローバリズムはローカリズム

に行きます。

何でこんなこと考えたかというと、日本で「この商品はグローバルに戦える」と思われて、グローバルに打って出た商品の殆どが無惨な失敗に終わっている一方で、グローバルに健闘している商品の殆どが、そもそもグローバルで戦うことを目論んでいなかった商品である、という経験則があるからです。

代表的なのは、宇多田ヒカルでしょうか。日本で850万枚という空前のヒットとなった「First Love」を引っさげて、鳴りモノ入りで米国に進出しましたがビルボード160位が最高位という結果に終わりました。率直に言って、惨敗とすら言えない、そもそも勝負にすらならなかったという感があります。

もっとひどかったのは松田聖子でしょう。これは詳細は割愛します。当時の関係者は一体何を考えていたんでしょうか。

まあ要するに日本で受けて、洋楽コンプレックスをこの人なら溶かしてくれる、と思われた人は、戦艦大和の特攻みたいになっちゃってんですよね。

その一方で、知らないところ日本人が海外で急に流行って、その後日本でも流行るという例は枚挙にいとまがありません。

最近だと村上隆さん。ちょっと前だとYMOやGODIEGO。も少し前だとKurosawaということになるでしょうか。村上さんは非常に頭のいい人なので、多分グローバルで戦うならローカリズムが大事だと言うことを、帰納的に理解していたと思いますが、YMOやGODIEGOはもとより世界を舞台にして稼いでやろうという気は、あまりなかったと思います。

坂本龍一さんは、スタジオミュージシャンが本業で、アルバイトのつもりでYMOを始めたらエライ騒ぎになってしまって非常に困惑した末、一種の神経症みたいになってしまった、ということをインタビューでよく答えています。

つまり、何が言いたいかと言うと、日本のマーケットで受けて、これならグローバルで戦える、という商品は、なかなかグローバルには競争力を持ち得ないということなんです。携帯とか家電なんかもその範疇に入るのかも知れませんね。

なんでこういうことが起こるのかと言うと、僕らは結局未だに西洋コンプレックスを抜け出せていない、ということなんだと思います。西洋コンプレックスに支配されたマジョリティを対象市場にしてビジネスを行うとすると、いかにも西洋的な商品、つまりパチですね、が受けることになります。しかし、パチは所詮パチなので、本場では受けない。まあ松田聖子がパチかどうかというのも議論があると思いますが、それは置いておくとして、受けない。

一方で、欧米が期待している新しさっていうのは、やっぱり日本が出せるユニークな物があるっていうことなんだと思うのです。力みをなくして、素直に自分たちの美学で、自分たちの感性に従っていい物を作ったら、海外でも受けてしまった、というのが構図です。

長くなったんで次ぎに行きます。

これは本のネタの備忘録に書いているんで、すいません。あまりここで読んでいる人を意識していないので、続きが読みたい人は本買ってください。


3:Haptic 形容詞の幅を広げる

Hapticというのは、障り心地が良い、といった意味の英語ですが、「触感=手触り」は今後の重大なキーワードだと思っています。

形容詞は五感に結びつく物が多い。美しいとか美味しいとか冷たいとかうるさいとかクサイとか、みんな五感に結びついた言葉です。そして、マーケティングっていうのは、だいたいこの五感のどこかにポジティブな反応をさせるためにどういう商品やらサービスやらを作ったらいいのだろうか、とプランニングされます。どうしたら美味しくなるのかとか、どうしたらかっこよくなるのかとか、まあそういうことですね。

で、20世紀後半のマーケティングは、五感の中でも目と舌に比重を置きすぎているんじゃないか、という気がしています。僕は、最近の動向を見ていて、これからはまず「皮膚感覚」が非常に重要なキーワードになると思っています。

ユニクロの作るジャケットは見た目にはよく出来ていますが来たときの皮膚感覚は慄然としてイタリアのものと違う。僕はユニクロという変化し続ける会社を非常に尊敬していますが、残念ながら今の段階では、こと皮膚感覚という面では勝負にならないと思っています。靴もそうですが、技術が進んでくると見た目には殆ど差のない物が出来上がって来るのですが、身につけたときの感覚が違う。

つまり、モノが自分に与えてくれる情報の量と質が、ゼンゼン違うんですね。

京都の旅館などに泊まると坪庭という、ごく小さな庭がよくあって、だいたいコケが生えていますね。その、密生したコケの上に裸足を置いてみたときの皮膚感覚。圧倒的な足の裏からの情報量が脳を直撃しているフィーリングなのですが、僕はこのフィーリングを同じものをフライのシャツやブリオーニのジャケットにも感じます。

キーワードは情報量なんです。心地よい情報の量を、いかに五感を通じてそのプロダクトから消費者に対して与えるのか?この点を考えると、20世紀に視覚と味覚ばっかりに偏っていたマーケティングの地平が開けてくると考えています。

もう一つ、ついでに書いとくと、聴覚も実は重要なのではないか? 先日、知人のおごりで非常に高級なフレンチレストランに伺いました。大変美味しかったのですが、がっかりしてしまったのが、メインがそろそろ出るか、という時期に厨房の奥の方でタワシで何かをこすっている音が、かすかながら聞こえてきたことです。

料理は味覚を通じて味わう物ではありません。ソムリエが良く言う様に、まずは見る。そして嗅ぐ。そして味わう。というのが基本になりますが、ここに僕は絶対に外せない用件として、その料理が与えてくれる「音」を非常に気にしています。

僕は食いしん坊なので、安くて美味しい店がある、流行っている店があると聞くと仕事をなげうっても駆けつけますが、安くて美味しい店なのに流行っていないケースは「音」がだめなことが多い。一方で流行っている店は必ず「音」・・・この場合サウンドスケープというべきかも知れませんが、その手触りが非常にいい。そう、音の手触りがいいんですね。ヨーロッパの老舗レストランに行くと、無作為の作為としてデザインされているサウンドスケープの素晴らしさに舌を巻くことになります。

村上龍の料理小説集にエキセントリックな老作曲家の話が出てきます。彼は、「交響曲は赤ん坊の鳴き声に負ける」という脅迫感に苛まれて常にヘッドセットを耳に付けている。電池の続く限りヘッドセットをつけたまま食事し脱糞しセックスし眠るのですが(電池が切れたときは電池交換時用の別のヘッドセットにつけかえる)、その彼が、友人と一緒にパリのホテルのダイニングに向かう廊下で、友人に向かって「シ!」とささやいて立てた人差し指を口に持ってくる。そしてゆっくりとヘッドセットを外して、廊下に漏れ聞こえてくるダイニングの音に耳を傾ける。フランス語をはじめとした数カ国後のささやき合う声やカトラリーと皿がふれあう音、ギャルソンの通る声といった音が渾然一体となって聞こえてきます。そして老作曲家の一言は「・・・音楽だ」

視覚から、聴覚、触覚。プロダクトが訴えるべき5感の地平が広がれば、新しい価値が生まれるのではないでしょうかね。


4つめに来ました。

ふー。 脱成長幻想、これはね、忘れました。

何考えていたのか。また今度考えます。 おやすみなさい

Saturday, July 25, 2009

「平均」にまつわる二つのジレンマ


最近、「平均」という概念をマーケティングの中でどう考えるべきなのか、という点についていろいろと考察しています。

先日、出版社の方から、前著「グーグルに勝つ広告モデル」の続編の依頼を受けて、何度か打ち合わせをしています。まだ細かい内容までしっかりとは決まっていないのですが、大きな方向性として「20世紀後半に開発された経営学やマーケティングの基本的なテーゼに対して、疑義を投げかける、というコンセプトで行きましょう」ということで握れています。

その一つが、「平均の誤謬」というテーマです。

僕は電通で6年間、ブーズ・アレン、BCGを合わせて計8年と、合計で14年間戦略やマーケティングに関する提言を経営者に対して行う、という仕事をしていますが、そのレポートの中で必ず用いられていたのが「平均」という実にやっかいな概念でした。

そして、今現在、平均というのは非常にミスリードする危険な概念だと思っています。

結論から言えば、平均というのは非常にパラドキシカルな面を持っていると考えていて、その一つが、

平均と理想

というパラドックスです。

こう並べると両者は概念としては対になるように見えます。よく考えてみると、恐らく平均の対概念は特殊とか逸脱、理想の対概念は現実になるのかと思いますが、いやいや実は平均と理想という概念は、つながっている場合があります。

どういうことか

モーフィングという技術をご存知でしょうか。コンピューターを用いて、複数の人間の顔を一つの顔に合成して行く技術ですが、このモーフィングによって合成された顔は、ソースとなったサンプルが属する集団の理想の顔に、サンプル数が増えれば増えるほど近づくということが実験でわかっています。

これは、ジュディス・H・ロングライとローリ・A・ロッグマンの二人による論文「Attractive faces are only average(素敵な顔は単なる平均)で明らかにしたことです。二人は、この論文の中で、サンプルのソースとなった集団の顔の形、大きさ、顔の特徴、目や鼻や口といったパーツの位置を算術平均して一つの顔に合成した結果、その顔はその集団の中で活躍しているプロモデルの顔の構成に極めて類似することを明らかにしています。

「どんな人?」

「え、どんな人って言っても、なんか普通だよ、普通」

「普通って言ってもさ、なんかあるでしょ。誰に似ているとかさ、どんな顔?」

「そうだなあ、やっぱり普通というか・・・平均的な感じかな」

「すごいハンサムじゃん!」

という会話はやっぱり不自然ですよね。

数学的には最も平均的な顔が、集団では最も好まれる。この結果はやはり実験した二人にも違和感があったようで、二人はその要因を進化、認知原形、対称性の影響が組合わさったものであると推論しています。

自然淘汰を前提にした進化論では、一般的には長い年月にわたって極端な個性を持った個体は集団から排除される傾向を持っています。そのため、交配時に極端な特性を持った個体が忌避され、一方で平均的な特性を持った個体は総合的に見て環境に適応している度合いが強い、つまりこいつの子供なら生き延びる可能性が高いという本能的判断があって、好まれる様になった、と考えられています。

対称性も重要な要素でしょう。平均的な顔は左右対称性が高い顔になります。そして、対称性は健康と適合性を示すものと一般に認識されます。ほとんど全ての種において非対称な個体は子孫を少ししか残せず、寿命も短い傾向があることがわかっています。これは一般的に非対称性は、病気、栄養不良、または遺伝子の不良の結果によって発生しているからです。

わかった。

要するに平均はいいということだ。
では、この平均と理想というパラドックスを経営やマーケティングという側面で考えるとどういうことになるのか?

ここで非常に悩んでしまうのですが、プロダクトデザインにしても、広告表原案にしても、平均を取ると「まずロクなものにならない」というのが、僕の経験です。

トヨタや日産でここ10年くらいの間に進められたデザイン改革の大きな柱の一つが、デザイナーと主査がまとめたデザイン案について承認する人の数を極端に減らす、という改革であったのも「脱平均化」という文脈で考えれば、デザイナーやターゲットの感性をよくわかっている主査が決めたデザインなら、外野があれこれ文句を付けて角を丸める様なことはしない様にする、ということだと考えられます。

なんで、通常の広告表現やプロダクトに関しては、平均の嗜好を取ると駄目なものが出来上がるのか?恐らく、問題になってくるのは人間の美醜を判断する能力ほどには、表現やプロダクトの美醜を判断する能力が鍛えられていない、ということなのでしょう。

広告表現やプロダクトデザインについて、好みの平均を選択して真に良い物が生み出される社会を作るためには、最終的には一般の消費者の美意識を鍛えるしかないということでしょう。