Wednesday, April 29, 2009

金属フェチ



自転車の中でもっとも好きな部分であるステムとリアディレイラーの写真です。
ステムは、古風なノーマルステムです。

最近の自転車は工事現場のパイプつなぎみたいなみっともないのを使っていますが、あれを使うくらいなら自転車乗るのやめます。

Tuesday, April 28, 2009

模倣される日本 浜野保樹 読了

:日本人の知らないところで、日本が真似されている。
:日本人が思っている以上に、外国人は日本の文化をクールだと思っている。
:この価値をしっかりと認識しないと、日本の文化はかつての「浮世絵」の様に、外国でその素晴らしさが喧伝されているにも関わらず、文化として滅びてしまう、という事態になりかねない。

ということを説いているのですが、さすがに東大の教授の論考だけに、「こう思いました~」というブログレベルの書きぶりでなく、論拠にいろいろなソースが引用されていて、面白かったです。

リンドバーグの奥さんが書いた日本論って、前から面白そうだなと思っていたのですが、この本読んで読んでみようと思いました。

■タランティーノは、ビデオ屋のバイト時代に日本映画をみまくって、引き出しを増やした
:ロサンゼルスで一番クールと言われたビデオ屋「ビデオ・アーカイヴス」に高校中退で勤めた
:店員はみな俳優か監督志望
:人気作品は置かず「無名のものほど価値がある」というヘンな品揃えのビデオ屋だった

■実は、日本のアニメの実写化権は、既にハリウッドに買い捲られている
:きっかけは攻殻機動隊を実写にしたマトリックスの成功
;現在、ドラゴンボール、AKIRA、ルパン三世、エヴァンゲリオンといった作品の実写化権は、ハリウッドに保有されている

■見たことない映像のソースに、ハリウッドは飢えている
:ハリウッド映画は全てパクリで出来ているが、パクリ先がなくなってしまった
:そこへ日本のアニメや漫画が出てきた
:これらのエンタテインメントは、日本という国で、独自のメディアで育ったために、書法や語法が、これまでの映画と異なっているため、外国人には非常に新鮮に見える

■なかでもスピルバーグはパクリの天才
:アルマゲドンという映画の準備が進んでいて、宇宙からの落下物が地球にぶつかるという企画で、非常にプレの評判がいいと聞くと、あっという間に同様のストーリーの「ディープインパクト」を企画し、ヒットさせた
:バグズ・ライフの様な昆虫ものがヒットしそうだとなると、「アンツ」を作る
:シン・レッドラインの様なリアルな戦争モノが受けそうだとなると、プライベート・ライアンをぶつける
:全て、先行する企画よりも素早く、しかも安く作って、数ヶ月前に封切っている
:これは、BCGが提唱している「タイムベース競争」の成功例の最たるものだ
:企画の開発費を他社に依存する構造で効率的
:しかも他社の進めている企画への評判がマーケットリサーチとなるため、リスクも少ない

■欧米人には、東洋人は、みな同じに見える(らしい)
:欧米人には、日本人の顔がみな同じに見えるらしい
:それが日本の実写映画の人気がイマイチ欧米で盛り上がらない理由
:台湾、香港、韓国で大ヒットした日本のドラマ:Love Letterは欧州では全然ヒットしなかった
:その理由として、一人二役を演じる中山美穂、複雑なストーリーに、大混乱したらしい
:欧米では単純な話しかうけない
:黒澤明の作品の人気が欧米で高いのは、上田吉次郎や左卜全といった、超個性的な俳優を使っているために、欧米人にもキャラが区別しやすいということなのかも知れない

■韓国でも日本のコミックはものすごい人気だが、貸本が中心なので販売部数は少ない
:10万部を超えれば大ヒット
:という中で、ドラゴンボールは250万部も売れた

■フランスでもっとも有名な日本人は鳥山明
:在仏日本大使館が調査したところ、日本人でもっともフランス人に知られているのは鳥山明だった
:そして、この話を在仏日本財界のパーティでしたところ、鳥山明を知る人はだれもいなかった
:こんな状態で文化政策なんて考えられるのか

■日本の浮世絵はフランスの印象派を生んだが、自分たちでは命脈を閉じてしまった

■日本人の芸術性の高さを認めるのは、日本人よりもむしろ外国人
:リンドバークの奥さんであるアン・モロー・リンドバーグは、1931年に夫妻で日本に来ている
:1935年に刊行された旅行記「翼よ、北に」には、日本の印象が語られている、曰く
:すべての日本人には芸術家の素質がある。そのような芸術的なタッチはあらゆるところに見られる。しごくあっさりした着物のうちにも、毛筆の書き流す文字のうちにも見られる。雨の通りに花ひらく、青や赤の番傘や蛇の目傘のうちにも、普段使いの食器のうちにも見られる。わたしは、日常生活のうちの紙と紐すらも、日本特有のタッチによって、かりそめならぬものに変えられているのだと感じるようになった。あるとき、わたしたちは日本の通りを歩いていた。藍の浴衣を着て、背中に赤ちゃんをおぶっている女の人が街角に立っていた。雨が降りしきり、彼女は濃い青に白い輪の入った傘を頭の後ろに掲げ持っていた。わたしの友達は、「まるで後光みたいでしょう」と言った。雨の日、日本の女性はだれでもこうした後光をいだいている。それは日本では最もありふれた種類の雨傘なのだ

■欧米的な閉じたアートではない「美」が日本にはアル
:アンは、鑑賞するためだけに作られたアートではない、美のための美ではない、生活の中にある美の存在に感銘を受ける
:アート、という言葉は、美が自立的に存在するものにこそ価値があるとするヨーロッパの文化的枠組みを背景に持っている
:その枠組みに絡めとられると、日本人の生活に根付いていた美は、生活から切り離され、美術館でつかの間眺められる代物になってしまう

■日本の携帯電話の醜さ
:パソコンの父、アラン・ケイは、日本に訪れた際、螺鈿細工の印籠を見て「日本には200年も前にこんなに美しいモバイルを作っていたのに、なんでいまの携帯電話はあんあ醜いものしか作れないのか」と言った

■日本の子供向け商品は世界を制覇するかも知れない
:中国で2001年に行われた20代以上の男女を対象にしたキャラクター人気ランキングでは、
1位=くれよんしんちゃん
2位=孫悟空(ドラゴンボールの)
3位=ドラえもん
4位=名探偵コナン
5位=ちびまる子ちゃん
6位=スヌーピー
7位=ドナルドダック
8位=ミッキーマウス
8位=ガーフィールド
10位=桜木花道
となっている。
恐るべし、日本キャラクター。
あと、日本勢ばかりか、同僚のドナルドにまで抜かれているミッキーの落ちぶれぶりが気になる
:日本はもともと、諸外国から「子供の天国」といわれており、子供のために費やされる金額が大きい
:その大きな市場を背景に、強力な競争力を持つ商品が生み出されており、これらの商品が世界中で子供たちを虜にしている
:明治三年に雇われ外国人教師として来日したアメリカ人、グリフィスは「日本ほど子供の喜ぶものを売るおもちゃ屋や縁日の多い国はない」と、書いているくらいだから、この特徴は昔からのものなのだろう

■まなぶはまねる
:もともと、文学でも古典芸能でも、本当のゴールは古典にあって、新しいものを生み出すことを求められていない
:日本は文字を中国から輸入し、法律も都市計画も中国のそれにならった
:自国の歴史より、中国の歴史に通暁することが教養とされた
:谷崎潤一郎は「理想は前人未到の新しき美を独創するにあるのではなく、いにしえの詩聖、歌聖が至り得た境地へ、自分も到達することにあった」
:これは美術家の村上隆の活動を言いえている。
:村上は芸大で日本画の博士課程に学んだが「古に復すことを理想」とする世界では、日本画ではない、新しいものを作り出す以外に道がなかったろうと思われる

■建設省制定の「ユートピアソング」というのがある
:日本は、日本が大嫌いなので、日本でなくなるまで景観破壊を続ける
:そして、景観破壊の賛歌が、1957年に建設省が制定した「ユートピア・ソング」である
:歌詞はこうだ

風がそよぐよ ドライブウェイ
軽いリズムで どこまでも
歌は流れる リボンはゆれる
山も谷間も アスファルト
ランラン ランラン
ランラランラン ランラン
素敵な ユートピア

山も谷間もアスファルト~・・・・実に恐るべき歌だ

■映画も、見る人が見るとすごい作品と言うのはわかる、らしい
:1951年、ヴェネチア映画祭の事務局は、日本映画の選出を、日本のイタリア・フィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョリ女史に依頼する。
:彼女は、何十本と日本映画を見ている中で「羅生門」の出品を制作会社である大映に進めた
:当の大映は、まず社長が、企画段階でこの映画の製作に難色を示し、その上、出来上がった作品を見て「わけがわからん!」といって憤慨し、制作を推進した重役やプロデューサーを左遷していた
:その社長に気づかったらしく、大映は「字幕を入れる費用がもったいない」という理由で、出品を辞退しようとした
:ストラミジョリ女史は、自費で字幕を入れてもいいので出品したい、ということで大映はしぶしぶ出品した
:しかし、羅生門は、グランプリである金獅子賞に選ばれた
:そして、アカデミー賞にも選ばれた
:最終的には、1982年におこなわれたヴェネチア映画祭50周年記念の、歴代グランプリで、なんと一位=グランプリオブグランプリに選ばれてしまった

■クレヨンシンちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲 は恐るべき作品である
:明治以来、日本は「脱亜入欧」を掛け声に、西洋人になろうとし、東京をパリやロンドンの様にしようとしてきた
:が、それは、土台無理な相談である・・・・日本人の脚は伸びないし、目は青くならない。東京の下町はパリの下町の用にはならない
:谷崎などはただ、東京がパリのようではないことにイヤでイヤで仕方なかったと述懐している
:無理難題を目標として押し付けられると、人はゆがんでしまう
:その結果が、今という社会なのではないか
:クレヨンしんちゃん~では、望んでいた様な未来は来ないことに気付いたオトナたちが、過去のノスタルジーに浸れる特殊な「匂い」を開発し、これを皆で吸って過去の思い出に生きようとするが、それをシンちゃんに阻まれるというストーリーであり、正直、こんなものが子供に受けるとは思えないが、子供はストーリーを逐一追っているわけではなく、瞬間瞬間の表情や立ち居振る舞いが面白ければそれでいいわけで、ストーリーの深さで楽しむ大人と、シンちゃんの表情で笑う子供という、一粒で二度美味しい映画が出来上がっている

Monday, April 27, 2009

CSR?

CSRが流行っているらしい。

コーポレート・ソーシャル・レスポンビリチーというのを、略してCSRとなる(らしい)。

で、直訳すれば、企業の社会的責任、ということになるのだが、経営学的な側面から見れば、「ウチは金儲けだけアザトクやっているわけではなくて、いろいろと世の中の役に立つ活動を、ちゃんとしていますよー」というPRの要素が、どうも強い気がする。

典型的なのが、ゴールドマンサックスがオフィスに張り出している公園の清掃や、障害児ケアに対するボランティア活動ですね。この活動を単体で取り上げれば責めるべき点は無いのですが、マクロのメカニズムで捉えると、いわゆるCSR活動には問題があると思っています。

企業の社会的責任、という点からまずトップダウンで考えてみれば、その第一は、

1:作り出すサービスや商品で、社会の役に立つ

であって、まずこれをちゃんとやってくれ、というのが最初に来るべきでしょう。そこはまあ本業ということもあるので、殆どの会社では「言われなくても一生懸命やってまっせ」ということになるのでしょうが、一方で、先に例を挙げた某投資銀行では、駒沢公園の清掃とか、障害児との交流とかっていう貢献をアピールしていましたが、それをブッ飛ばすくらいの社会的損失を「本業を通じて」与えているので、CSRもへったくれもないだろ、おい、というのが僕の本音です。

で、次に第二の点なのですが、これは

2:雇用を作り出し、これを維持する

になります。

失業率がマクロ経済指標になっているのは、雇用が社会の安定に欠くべからざる要素だからです。そして、アメリカ的な経営は利益の最大化のためには、雇用は犠牲にせざるを得ない、という理念に依って立っています。

これをCSR的な観点から、どう考えるかというのが一つ目の難しいポイントだと思います。

バンバンレイオフして利益は出して、そうして絞り出した利益のいくばくかを(ある種のみそぎとして)CSRとして寄付したり社会貢献活動に使っていますといって世の中にアピールするのって、おいおい、ちょっと待てよ、と言いたくなるのは僕だけなのかしら。

逆に、こういう会社があったら貴方はどう思いますか?

我が社のミッションは、「雇用の最大化」にあります。世の中を安定させるには、個人個人が、安定した食い扶持を持つ必要があります。そのため、一つ一つの会社が、雇用を最大化することを求めれば、安定した世の中が必ず出現するはずです。我が社は、その嚆矢となるのです。しかし、そのために利益は犠牲になりますので、配当その他の株主利益は、あまり期待なさらないで欲しい。弊社は、株主、顧客、従業員の3つのステークホルダーのうち、もっとも従業員に利益還元することを求める会社なのです。

とまあこういう会社です。

うーん、これはこれでありな気がする。もちろん上場企業では難しいけれどもね。例えばサントリーは、利益三分主義といって、顧客と従業員と社会で、もうけを三つに分ける、という考え方をとっていて、ここに株主が入ってこないのは非常に清々しいと、僕は前から思っています。まあいいや。

で、企業の社会的責任の三つ目の側面が、

3:税金を納める

という点です。

納められた税金は、政府や地方自治体によって「社会的事業」に使われることに(一応)なっています。つまり、納税額の大きい会社は「社会的責任」を果たすところも、大きいということになります。

一方、税金は経常利益から捻出されるので、いわゆる利益を犠牲にする形で行われるCSR活動は、納税額を少なくさせます。従って、CSR活動の規模と納税額は、単純に言えばトレードオフの関係にあります。

従って、CSR活動の推進を合理化するには、一企業が考える社会的活動の方が、選挙によって選ばれた政府や地方自治体が行う社会的活動よりも「投資対効果が高い」ということを証明することが必要になります。

これは突き詰めて考えれば、企業は官より優れている、ということであり、さらに言えば官を選ぶ民の能力が低いので、納税額を増やすより、一企業が社会的事業を行う方がいいのだ、という考え方に依っている、ということになります。

単純化すれば、CSRを積極的に行っている会社は、「納税者はバカ」と思っている、ということです。

この点を、CSR礼賛者はよくよく考えてみるべきだと思っています。

よく日経ビジネスなんかで、CSRランキング、というのがありますが、これもものすごい視野狭窄に陥っている感じがしますよね。寄付活動とか、植樹とか、アホかと思う様な活動に、企業のリソースが使われている。

CSRって、

1:いい商品を出しているか=売上高
2:雇用を創出しているか=従業員数
3:社会貢献しているか=納税額

の3つで見れば、十分じゃないんでしょうか?


Sunday, April 26, 2009

仙川サイクリング







武蔵野の神社を仙川沿いに訪ねるスモールトリップ。

自動車が入れない道ばかり選んでゆっくり走ると、いつも見慣れた街も、旅行先で訪れた街のような新しい顔を見せてくれます。


Saturday, April 25, 2009

千と千尋の神隠し


前から大好きな映画ですが、今日あらためて見て見て、よく出来ているなと思ったこと。

千尋っていうのは、余程のことじゃないとおもしろがりませんよ、という現代っ子の典型だけれども、その性格を表すのにプチブルジョアの家庭出身として描いているのが面白いな、と。

冒頭で、家族とともに迷い道に入ってしまうシーンが出てきますけれども、ここで家族が乗っているのは恐らくアウディのA4ですね。しかも左ハンドルのマニュアル。

アウディのA4っていうのは、本当のお金持ちなら乗らないクルマでしょうが(金があるなら同じアウディでもA6とかA8か、もしくは利便性を考えてカローラとかゴルフにするはずで、A4というクルマは、まあ中途半端ですよね)、まあ、つまりプチブルに好まれる属性(サラリーマンの給料でもローンを組めば変えなくはない)を持っている訳ですね。

それで、二つ目のポイントが、リアシートに座る千尋の隣に置かれている紀伊国屋の紙袋でしょう。紀伊国屋って、刺身のパックがだいたい2000円とか3000円とか、グレープフルーツが一個1000円とか、もうとんでもない値付けで、またそこにいつ行っても人がわさわさ居るのが、一体この国のどこが不景気なんだ、と思わせる店ですけど、まあその店の買い物袋ががさっと置かれているのが、ああ、この子は、やっぱり何不自由なく育ってきたんだな、と思わせる設定がよく出来ているんですね。

あと兄弟が出てこない、っていうのもポイントの一つかも知れません。隣のトトロでは姉妹が主人公になりますけれども、「何不自由なく育った」感を出すには、一人っ子の方が良い、ってことなのかも知れません。

その、何一つ不自由なく、わがままに育てられた子が、とにかく生きのびる、っていうことについていろいろと考えてなんとかしていく過程で、逞しさを獲得して行く過程っていうのが、単純ですけどこの映画の本質で、それは本質的には「魔女の宅急便」と同じ構造なんだと思います。

Thursday, April 23, 2009

好きな聖書のことば

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。
(ルカによる福音書)

会社や街で、ヒッジョーにヤな目に会ったり人に出会ったときに、必死にこれを思い出して耐え忍んでいます。

イエスの教えの中でも最も実践が難しいことの一つですが、なかなかに含みのある言葉だと思いまする。

月と6ペンス (ほぼ)読了

前から眼前にそびえる中型の山として存在していた、サマセット・モームの「月と6ペンス」を、(歯をくいしばりながら、かつ若干残っているが)読了した。

ちなみに、そびえるエベレストは、プルーストの「失われたときを求めて」とか、ドストエフスキーの「罪と罰」だったりする。GWに挑戦してみます。

面白かったけど、残り頁が少なくなってきちゃうのが悲しい、というほどのものでもなかった。


この小説は、ゴーギャンをモデルにした主人公の友人=ストリックランドの、社会的には破天荒に見えながらも、実際には芸術に真摯な人生を、主人公の目から描いた物です。

特に最後にタヒチにわたってからの描写は、熱帯特有の湿度と爛熟があっていい感じ。


この小説は、ストーリーそのものよりも、モームが、ストリックランドの口を通じて語らせる警句とか箴言にその面白さがあるのではないかと思います。一部ピックアップしてみました。

(このセリフは僕の意見ではなく、文中に出てきた台詞でして、必ずしもこの意見にすべて僕が賛同しているわけではないことを、厳にここに記しておきたいと思いまする。)


不幸が人間を美しくするというのは、噓である。
幸福がそうすることは、時にある。
だが、不幸は、多くの場合、人をけちな、執念深い人間にするばかりだ。


よくあることだが、男は結婚すると、かえって他の女と恋愛に落ちる。だが、それが終わると、ふたたび細君のもとへ帰ってくるし、細君の方でも彼を迎えてやる。そしてみんな、これが自然な成り行きだと思っている。


男は愛しているが、女のほうでは愛していない。そうした場合の男に対する女の残忍さほど、恐ろしいものはない。


女というやつはね、男から受ける傷なら、いくらでも許すことが出来る。ところが、仮にも自分のために、男からなにか犠牲行為の奉仕をうけるというのは、絶対に許せないんだからね。


女というやつは、恋愛をする以外なに一つ能がない。だからこそ、やつらは、恋愛というものを、途方もない高みに祭り上げてしまう。まるで人生のすべてでもあるかのようなことを言いやがる。事実は、なに鼻糞ほどの一部分にしか過ぎないのだ。


肉欲というものは、僕も知っている。正常で、健康なものなんだ。だが、恋愛というのは、あれは病気さ。


女というやつは、僕の快楽の道具にしきゃすぎないんだ。それが、やれ協力者だの、半身だの、人生の伴侶だのと言い出すから、僕は我慢がならないんだ


恋人としての男女の差異は、女が四六時中恋愛ばかりしていられるのに反して、男はただ時にしかそれができないということだ


およそ世の中に、妻帯の独身者というものほど哀れなものはない

Wednesday, April 22, 2009

好きな聖書のことば

高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行う様に心がけなさい。

ローマの信徒への手紙

メディアの現在形 複数著者 新曜社 (まだ途中)

聖トマス・アクィナスは、死後カトリック教会から聖人の称号を受けるが、その審査の過程で強調されたのは彼の恐るべき記憶力であった。

中世では本は珍しかったから、読書というのは「同じ本を繰り返しよんで、それが体と一体になると言える程度まで記憶する」という行為のようであった。

レイ・ブラッドベリ原作でフランソワ・トリュフォーが映画化した「華氏451度」では、壁大のテレビだけがメディアとして認可され、あらゆる活字が禁止される奇怪な未来社会が描かれる。その中で体制に反抗する人は、それぞれが一冊の本を丸暗記し、君は「ミルトンの失楽園」、彼は「シェークスピアのリア王」といった様に、人間が本と化して山林をさまよう設定になっている。しかし、中世の人間は何冊も、アクィナスの様な学者に至っては何十冊という書物を記憶していた。

キリスト教では偶像崇拝が禁止されている。英語ではイメージとなる。そして、この場合のイメージは、初期には三次元の彫像だけを指していたのが、やがて抽象的なものも含めた概念となる。

プロテスタントの説教者たちは17世紀に至ってイメージを心に思い浮かべないで聖書を読むことを民衆に強制した。例えばルターは、15〜16世紀にかけてイメージ排撃の説教をいくつもしているが、この説教の中で彼は、イメージを外部と内部に分け、魂の内部に目に見えない形で生じるイメージこそ、最も危険なものとして排撃している。

イメージと商業を結びつけた最初の大規模な試みは、ドイツの大電機器具メーカーであるAEGのアルゲマイネ・オールター・ラテナーによるプロジェクトである。ラテナーは、建築家でデザイナーでもあるピーター・ベーレンスを雇い、建物から製品に至るまで、ある「一貫したイメージ」を設計させた。今でいうコーポレート・イメージを人為的に統合的に作ろうとしたのである。ベーレンスはこのプロジェクトにおいて、1907〜1914年までのあいだにおよそ100に及ぶAEG製品のデザインを行った

日本における映画産業の全盛期は1958年で、この年、観客動員数は11億2700万人となっている。単純計算で国民皆が毎月一本は映画を見ている計算になる。一方、テレビの民間放送は1952年に、わずか868台の受信契約からスタートしながら、1959年には400万台を超え、この年の映画の観客動員数は10億8800万人と減少し、以後、二度とこのピークを越えることがなかった。

世界史的に見て、日本のこのテレビの普及台数は空前絶後であった。欧州に置いても米国圏においても、これほどまでのスピードでテレビが普及した国は存在しない。

テレビの台頭によりラジオは割を食ったが、一方で新聞は、テレビ欄を充実させることで「コバンザメ」の戦略を採り、テレビの台頭によって部数を減らすどころか、むしろ増やすことに成功した。

好きな聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
                       (テサロニケの信徒への手紙より)

喜んでいろって言われてもな~、喜ぶって命令されてするもんなのか?と昔は思っていたのですが、最近気付きました。

「喜ぶ」のは、技術でありテクである。だからして、習得可能である。従って、「いつも喜んでいる」のは全然アリなのだ、と。

大事なのは身の回り5メートル以内にある幸せの種を、ちゃんと認識することだと思います。

人って不幸のネタは遠くにあってもすごく強く意識するけど、足元にある幸福の種には、なかなか気付かないんですよね。

Monday, April 20, 2009

次世代マーケティングプラットフォーム 湯川鶴章

電通の先輩であるFさんの師匠である時事通信社の湯川さんの本。

紹介したいと言われつつ、紹介されていないのですが、本は読んでいて、これは「ネットは新聞を殺すのか」に続いて二冊目。

思いついたこと。

ネットとマスメディアの比較はいつも広告効果という側面から語られるけれども、それは常に「刈り取り」の側面でしかないということに気づいた。

人がある商品を購入しようと言うときには態度変容プロセスを経て最終的に購買に至るわけで古典的にはそれはAIDMAというコンセプトで整理されているけれども、ネット広告とマス広告の比較は最後のAでしか見ていない。

これは重要な落ち度じゃないかしら。

マス広告には、とりあえず購入に対してReadyじゃない人に対しても接触することで長期的に好ましいパーセプションを作るという貢献があるはず。

これはつまり、マス広告の「種まき」の側面ですが、いまのネット対マスの議論にはこの「種まき」の側面が抜け落ちてしまっている。

企業が短期的な視点に捕らわれて、この刈り取りだけにとらわれると、なんかどうもまずい気がする。

というのが思ったことの一つ目。

二つ目は・・・

広告代理店の人は、よく広告をラブレターに例える、という話で、これは事実僕自身もそうだったのですが、このメタファーをそのまま押し進めて考えてみると、今の消費者って下駄箱に一日3000通のラブレターが入っている状態ってことになる。

で、場合によってはそのうちのいくつかを開封して、実際にその女の子に会ってみるということもあるのかも知れないけど、何度か痛い目に遭えば、ラブレターそのものをもう見なくなっちゃうんじゃないかしら。

ラブレターって、たまにもらうから、ドキドキするわけで、そもそもコンセプトとしてラブレターに例えることが通例になっているのであれば、どういう状態でもらわないとラブレターって読まれないか、っていうことに関してもよく考えてみるべきだと思う。

僕が以前の著作にも書いた通り、日本はいらぬ広告が多すぎて、自分に採って大事な情報が埋没してしまうために、結局は全部シャットアウトする、という行動になってしまっている気がする。

情報のエージェントというか、ラブレターを選別して、あ、この内容とこのキャラクターなら、あの人にとって有意義なラブレターだっていうのを判断する、一種の情報代理人というか、なんていんでしょう、アボカートが居るんじゃないかしら。

少なくとも、僕自身はそういう存在が居て、ある程度のプレミアムを払えば情報の弁別をやってくれるっていうプレイヤーが居れば、それはそれで助かると思うんだけど。

でもグーグルって、本質的にはそういう立場に立とうとしているんでしょうね。

「要するに」病

MIXIに面白い記事が出ていて、非常に身につまされたので転載します。

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「要するに○○ってことでしょ」

 私たちコンサルタントは、物事を一般化してパターン認識するのが好きな人種らしく、人の話を聞いて、最後にこうまとめたい欲を抑えるのが難しいようです。

 しかし、相手の話したことの要点をうまいこと抽出し、一般化しまとめることは、常によい結果をもたらすとは限りません。

 まず対話において、話し手が一生懸命にいろいろな説明を交えて説明するも、最後に相手から単純化されて「要は○○ってことでしょ」と言われると、たとえそれが要領は得ていても、何か不満感が残るかもしれません。そして、何よりも、いつも「要は○○でしょう」で済ませる習慣(反応)は、聞き手の持ち得る世界観を制限してしまいます。

●「要するに○○……」とは浅い聞き方

 私たちは、無意識レベルにおいて、心の中で「メンタルモデル」を形成します。これは、私たち1人1人が心で持っている内的な世界観のことです。そして、現実の外的世界から五感を通じて知覚した情報は、そのメンタルモデルで理解できる形にフィルタリング・歪曲された上で受け取られます。

 同じように、意識レベルでも、私たちは自分の既に知っている過去の情報と照会しながら、物事を理解しようとします。「要は○○」というのも、相手から聞いた話を一番近い自分の経験・知識にアクセスして、そこから抽象化してまとめる行為をしているに過ぎません。

 最近注目されているオットー・シャーマー氏の「U理論」においても、人とのコミュニケーションにおける聞き方の深さに関して、4つのレベルがあると説明されています。 

(1)ダウンローディングする (Downloading、既に知っていることを再確認している聞き方)

(2)事実に基づく (Factual、自分にとって新しいデータに焦点を当てる聞き方)

(3)共感・感情移入する(Empathic)

(4)生成的(Generative)

 「要するに○○……」とは、このうちの、まさにレベル1の浅い聞き方である「ダウンローディング」に過ぎません。

 この聞き方だけでは、聞き手はこれまでの枠組みから脱する機会を失ってしまう可能性があります。より深いコミュニケーションで、相手との対話から深い気づきや創造的な発見・生成を起こすには、「要するに……」と自分の知っているものとの照合による理解だけでは十分ではありません。

 「要は○○……」と言いたくなったときに、そこでまとめてしまうことで新たな気付き・発見という価値を失う可能性があることを思い出しましょう。試しに「要するに……」「要は……」をしばらく禁止してはどうでしょう。(泉本貴)

Sunday, April 19, 2009

自転車で遠くへ






午後3時過ぎから自転車で多摩川サイクリングロードへ出て、川を下った。

ストイックな人は上ることを選ぶのだが、どうも二子玉川から喜多見の当りの多摩川沿いのエリアのトポスは、僕に合わないらしく、また目標となるランドマークも思い当たらないことから、とりあえず海を目指して川沿いを走ってみた。

で、これが結構よかった。

二子玉川の当りでは石ころだらけの川土手は、丸子橋を超えて綱島街道に入る頃には整備された芝生の公園とグラウンドになって、そこで運動をする人や犬を散歩する人や、恋人とぼんやり川を眺めているたちが非常に和む雰囲気をかもしていて、その中を気持ちのいいペースで流していると一種のトランス状態というか、多幸感みたいなものにとらわれてくる。

で、そうこうしているうちに河口まで来てしまった。

見慣れない風景が、どんどん眼前に広がって行く感じと、移動手段が自動車でも電車でもない、という非常に新しい身体感覚を覚えました。自動車や電車でなければ来られない、と思っていた遠くの街。しかも、自動車で行くとだいたい知っている大通りを来てしまうので風景も常に一緒なのですが、あ、遠くの街って地続きなんだな、というかなんというか、とにかく不思議な感覚なんですよね。

ロードレーサーを購入するときに、普通の体力の人なら慣れれば100キロは走れるはずです、と言われて、その距離感のズレ方に違和感を感じたのだが、今日3時に家を出て軽く流して5時過ぎに帰ってきて、その走行距離は約30キロ。確かに100キロは、時間をかければ走れるかも、と思い始めてます。

ただ、100キロをストレスなく走れる環境って本州には殆どないんですよね・・・

多摩川サイクリングロードは、特に二子玉川から海に向かう下りは、舗装がすごく整備されていてしかも広く、氷の上を滑る様にバイクが前に進みますが、同じ距離を自動車と一緒に公道で走るとなると、疲れ方も全然違うのじゃないかしら。

GWは那須高原に一週間逗留というのが今の計画ですが(自転車は持って行くつもり)、北海道にしようかしら。

写真は愛機、De RosaのNeo Primatoです。クロモリの細いフレームが美しい、古典的なバイクですが、僕のヘタレ脚力でも多摩川サイクリングロードを走っていて抜かれる経験は殆どしない、というくらい戦闘力のあるバイクです。お店の方からも「クロモリとしてはこれ以上の戦闘力は望めません」と言われております。素人がいきなりF40購入した、という感じでしょうか。

いま現在は、ツールドフランスで使われるバイクでは、クロモリは絶滅し、カーボンやアルミが主流になってしまいましたが、これらのバイクには「美」がないため、僕はまったく興味ありません。自転車も、レーシングカーやカメラと同様、機能は突き詰めると美に至るというテーゼを疑わせる進化をしてしまったモノの一つですね。

Saturday, April 18, 2009

昭和のエートス 内田樹 読了


高校時代、現代音楽作曲家の松尾先生に作曲を習い始めたときの父のコメント。

音楽って、新しく作られる必要があるの?なぜ、新しく音楽を作る勉強なんてするの?

誰かこの質問に答えられる人っているのかしら?

父は革装のスティーブンソンの全集をボーナスで買って書庫をながめてニヤニヤし、源氏物語を読むのを食後の何よりの楽しみにしていた人だった。ここ30年で出た新刊は「作文の一種」と一顧だにしない。一生分楽しめる傑作の文学作品が既にあるのに、なんで新刊なんて出すのか?と、僕にクイズを出していた。

彼の答えは簡単で、「雇用を創出するため」。与り知らない人の雇用維持のために、自分の人生の時間をつかって作文を読むのは損。だったら人生に本当に意義のある、古典を読め、というのが父の意見だった。

では、この本。「昭和のエートス」における内田樹の意見。

大量にリタイアし始める団塊世代を捉えるマーケティングのコンセプトは、「貧しかったときに、変えなかった、あのクルマ、あのステレオ、のリバイバル品」。

典型的な例は、団塊世代の皆が憧れたホンダの初代四輪車、S500だ。ちなみにこれがリバイバルされれば、内田樹自身は「迷わず買う」としている。確かにエポックメイキングなスポーツカーだけれども、性能は今の自動車と比べるべくもない。

金曜ロードショウのベタなイントロに、僕らが感じるノスタルジー。
古いイギリスやイタリアのスポーツカーに、僕らが感じるフェティシズム。

いま最も高価な自動車はレクサスでもメルセデスもない、ブガッティでもない。1960年代に作られたフェラーリであり、戦前のアストンマーチンだ。

機能をつきつめれば、それは美に至る、と言われる。本当なのか?

今のF1マシーンは醜悪としか言いようがないデザインになってしまった。一方で、戦前から60年代にかけてのレーシングカーが持つ芸術性をどう考えるのか。美術史をやってきた僕にとっては、こういったマシーンは、レオナルドの絵画に匹敵する美を有している。

事実、ブガッティは美術家だった。日本のクラシックカーコレクターの嚆矢である浜徳太郎先生も美学者だ。この点は、極めてナチュラルに僕にも納得できる。美しくない工業生産物は、作られる意味がない。

確かに、50年代のF1マシーンの性能は、物理的には今現在のF1と比べるべくもないけれども、こと美学的な観点から立てば、人類の英知はなにも生み出していない。ニュルブルクリンクのラップタイムは50年代から3分以上縮まった。So what?

ウィリアムモリスも同じ様なことを言っていたと思う。確か、「美して、実用的なもの以外、家においてはいけない」とかなんとか。

もしかしたら、人類は、もう新しいことやものを生み出す必要がないのじゃないかしら。

パリを訪れると、フローとストックのうち、圧倒的にストックのパワーがすごいということが如実にわかる。ルーブルもオルセーもストックの殿堂だ。パリの町並みを俯瞰すれば、目に入る物の90%は百年を超える年月を経ている。

ローマはもっとそう。

日本はGDPそのものは結構高いけれども、そのフローの数値がストックに回る分が少ないために、ものすごく文化的に生活的に貧しい状況に至っているのではないか?

新しい物を生み出していくのだ、という考え方を人類は見直す時期に来ているのかも。

新しい物を生み出さない、ストックだけで勝負して行くという、メディアやコンテンツビジネスや、消費材ビジネスのあり方って、考えて行かないといけないですよね。


Thursday, April 16, 2009

斜陽 太宰治 読了

今の世の「生きにくさ」を前にして、主人公の母は病死し、弟は自殺して、いわば退場していくけれども、本人は「戦闘開始」のかけ声のもの、「激烈な恋」によって生きにくさを乗り越えて行くことを決心し、同じく「生きにくさ」に身を焦がしているやさぐれ作家の愛人となるという話。

今の世の生きにくさと同じものを感じている人が、こんな前にいたんだなあ、と素直に感嘆した。

そういえば漱石の小説にも「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。とかくに人の世は住みにくい」という名文のイントロがあるけれども、もしかしたら世の生きにくさなんていつの時代もそんなに変わらないのかも。

でも高校受験の時に、尊敬していた塾の国語の先生から、現代の生きにくさは「近代的自我」と同時に発生している、っていう話だったから江戸時代にはなかったのかな?

近代的自我、って平たく言えば、「欲求の追及が無意味でない時代において、自分がどう生きたいかを考える」ってことかしら。阿部謹也先生の中世の本なんか読んでいると、18世紀までの市民なんて、自分が何者か、どうなりたいかなんて考える余裕なくって、とくにかくその日その日のパンをどうするかってことばっかりで人生が消耗されていく感じなんだけど、生産性が改善されて余裕が出てくる時代、になると、よけいなこと考えちゃうってことなのかも知れないですね。
マルクスは、社会における位置づけが貴方と言う人間のあり様を決める、と言ったけれども、社会における位置づけが個人の意思や欲求によって選べない江戸時代という時代と、それがある程度自由になった明治~戦前の時代と、そこが完全に自由になった戦後社会とにおいて、自我の持つ意味って本当に大きく変わってしまったんだろうな、と思います。
色々と問題はあるのですが、僕の戦前社会に対する憧れってそのヘンにあるんだと思います。戦後の社会って闇市からスタートして、小佐野賢治とか児玉誉志夫とか田中角栄とか、戦前の社会なら決して社会の表舞台に出てこなかった人たちが「やったもん勝ち」を旗印にして、恥も外聞もなく社会をのし上がって行った一方で、斜陽に出てくるような旧華族階級が、そういった「やったもん勝ち」組の人に、踏みにじられていく世の中ですよね。
電車に乗るときに空いている席見つけて突進してそれを取ろうとするオバサンとかオジサンが居ますけど、ああいうのを見て「自分には真似できないな」と思うのを、人生のレベルで感じていたのが、斜陽の主人公たちの気持ちで、それはすごいよくわかるんですよね。

Saturday, April 11, 2009

奇跡を信じる力

奇跡とは相対的なものなのではないかと最近思っています。

ルネサンスの時代に人が空を飛んだらそれは奇跡だけど、今は何でもない。

江戸時代に、遠くに起こった事件をつぶさに見られたらそれは奇跡だけど、今は何でもない。

特に、テクノロジーによる寄与をのぞいても、例えば量子力学の世界では、ここ50年ほど存在は確率的なものでしかないという理解に立っていて、例えばAという存在が時空間αに位置していれば、同時に他の場所にAは存在し得ない、という僕たちの基本的な自然に対する世界観のドテっ腹に、広大な風穴を開けて自らそれを埋めることがありません。

アインシュタインは、月は見ているときは存在しているけど、見ていないときは確率的に「雲」の様に存在しているとしか言いようがない、と説くニールス・ボーアに対して、「神はサイコロを振らない」という有名な抗弁を立てて、その依って立つ世界観を宗教対決の様に否定しましたが、そもそも、アインシュタインの特殊相対性理論自体が、「同時」という概念は意味がないことを証明しているのだから、手触りで理解できる世界や宇宙の構造を破壊しているということに関しては五十歩百歩の観が拭えません。

そう。アインシュタインの特殊相対性裏理論も量子力学も、「同時」という、極めて僕らが日常生活で自然に用いる概念が、極めて難しい定義が必要であることを提示しています。そして、結論から言えば、ある存在(量子力学の場合は象徴的に光子、つまりひかりの粒子がその実験に用いられていますが)が、ある瞬間にある一点にしか存在しないという、ごく当たり前の想定を覆して、同時にあらゆる場所に、雲の様な状態で存在していることを提示しています。

僕は物理学の専攻ではないので専門的なことはわかりませんが、10年ほど前に初めてこの話を聞いたとき、僕はイエスの復活の物語を思い出したんですね。

残念なことに、新約聖書の福音書に描かれているイエス復活の物語を、現代人のほとんどは信じることが出来ません。

理由は二つあって、一つは死んでしまった人は蘇らない、ということと、同時に多くの人の前に、姿を現すことは有り得ない、ということなのですが、前者はともかく、僕は量子力学の認識する世界観と、それがどんなに古典物理学者にとって受け入れがたいものであったかの説明を受けて、イエス復活の物語も同じじゃないか、と思ったんですよね。

物質は、同時に複数の場所に存在する。では、誰が、イエスが同時に複数の弟子の前に姿を現したことを否定できるのだろうか、と思ってしまったんですよね。

新約聖書には3つの側面があります。言うまでもなく、キリスト教の経典というのが一つ目の側面です。そして、二つ目が、キリスト教という宗教を離れてなお、優れた文学作品である、という点。そして最後が、2000年前のパレスチナの郷土史の記録という側面です。

この3つの要素が、言葉は悪いですがある種ごった煮になっているのが、聖書という書物が、過去に数億人、数十億人という人を引きつけてきた理由なのだと思っています。

ここで難しいのが、この3つの方向性、特に経典と郷土史という方向性のどちらかを深めようとすると、片方側の意図と反する方向になりがちということなんですね。

わかりやすい話で言えば、イエスの誕生日が12月24日でなかったであろうことは、ほぼ歴史家の視点からは定説になっていますが、これは郷土史としての視点から見れば「では訂正すれば」という話になるのですが、それは経典という立場から考えるとちょっと困る訳です。

新約、旧約に関わらず、聖書の中には確かに眉につばしたくなる様な奇跡のオンパレードなのですが、これを、ばかばかしいフィクションとして捉えて歴史的な事実のみに立脚して読み解くのと、完全に信じきってしまうのと、そして、その間の態度があると思うのですが、僕はこの三つ目のオプションを採って聖書を読んでいます。

奇跡は、本当に奇跡だったのか、それとも、当時の人には奇跡に見えるものがあったのか。今ではよくわかりませんが、奇跡を神の子の技として単にとらえるのと、それは象徴的な意味であって実際の意図は別にある(例えばカナの婚礼で瓶に満ちた水を酒に変えた最初の奇跡は、姿勢の人々をより高次元の存在に変える、という業のメタファーに過ぎないという考え方)とする考え方の、両極単に分かれるんですが、僕なりにその間のところの、何かもっと深い示唆や、含みがあるのではないかと思っています。

ルネサンスとは何であったのか 塩野七生 読了

ルネサンスとは、見たい、知りたい、わかりたい、という精神運動の爆発

現代イタリア語の基本は14世紀から16世紀にかけてフィレンツェで書かれた数々の著作によって完成した。ダンテからマキャヴェリに至フィレンツェの文人たちによって成った。だから、彼らの作品には日本語で言う「現代語訳」や「口語訳」というものが存在しない

ヴェネツィア共和国では、ペストの伝染経路が東方からであるとわかった段階で波打ち際での防疫システムを確立する。東方からの船は、船籍がたとえばヴェネツィアであろうとアラブであろうと関係なく、潟の中に数多くある島に一度停泊させ、ペスト菌の潜伏期間とされる40日を過ぎた後でないとヴェネツィア内に入港させないとした。現代の空港では検疫は英語でQuarantineとなるが、そもそもこの語はヴェネツィア方言の40日間=Quarantinから来ている。検疫システムも、複式簿記や外交官常駐制度と同じ、ヴェネツィアの発明なのである

ペストによる人口の激減は中世的な世界観への後退よりも、社会の生産性向上へつながった。

コシモ・ディ・メディチの芸術支援の思想は、この言葉に集約される。「我々はこの街の気分を知っている。メディチ家が追放されるまで50年とはかからないだろう。しかし、我々が支援した芸術家から生み出された物は永遠に残る」




聖書のなかの女性たち 遠藤周作 読了

非常にいい本でした。

新約聖書はイエスの生涯を綴った物語ですが、その劇中には、聖母マリアをはじめとして何人かの強い印象を残す女性が出てきます。

こういった女性たちの記述は、イエスの弟子であるパウロやペテロ、ユダの言動が性格まで読み取れるほどに細かく描写されているのに対して、非常に淡白で簡潔で、その人となりを心の中に描き出すにはかなりの想像力が必要になります。

マリアでさえ、イエス出生のエピソード以外には殆ど記述がありません。どうも当時はものすごい男尊女卑の社会みたいで、これが聖書の中に女性の言動に関する記述が殆どないことの要因の様です。

この本は、遠藤周作が、聖書の中の記述と、歴史家による調査の結果と、そしておそらく何よりも遠藤周作自身の想像力によって、あまりにも淡白に記述されてしまっている新約聖書の中の女性たちを描き出した本です。

■ピラトの妻
ピラトは当時のローマ政府から派遣されたエルサレムの総督です。イエスは、大司祭長館や衆議所などを夜通し引き回された挙げ句、4月7日の朝6時ちかくになってこのピラトの館に連れて行かれます。決定した死罪の執行令状を得るためでした。午前6時に尋問とはいささか奇異に思われるかも知れませんが、当時のローマ人は大変な早起きで夜明けから重要な政務をこなし、午後は昼寝や交際、娯楽に過ごしたのです。ヨハネによる福音書では「時は天明なりき」とありますが、これは誇張ではありません。

この直前、ピラトは、妻のクロウディアから「イエスという罪人が来る。その人を釈放してください」という言葉を、妻の召使いであるプラクセディスから受け取ります。

ピラトは、おそらく貴族階級の出身であったろうというほか、余り細かいことはわかっていません。もともとピラトという名前は「解放された奴隷=ピレアス」から転訛したものだから、奴隷出身であったのでは、という説を唱える人すらいて、あまりよくわかっていないのです。

ピラトの妻であるクロウディアが、なぜ見ず知らずのイエスの釈放をピラトに願い出たのか、も本文中には脚色されたストーリーが語られますが、一言で言えば夢にうなされた、ということの様です。そしてこれは、彼女とピラトに、シーザの妻のカルプルニアが見た夢のお告げ、3月15日は何があっても夫を外出させてはならない、という警告と、それを無視して出かけたシーザの暗殺という事件を思い出させます。

新約聖書を読むと、クロウディアの話は一片も出てきませんが、一方のピラトの民衆とのやりとりは細かく記録されていて、それを読むと、死刑を望む民衆に対して、なんとかイエスの釈放を図ろうとして不自然なほどに心を砕いている様がありありとわかります。

■娼婦
旧約聖書では、娼婦は、人間を罪に誘ったイブの子孫であり、預言者たちの激しい怒りと呪いの対象になっています。一方、新約聖書においては、イエスは娼婦や忌み嫌われる病気に冒された女性たちに、むしろ積極的に手を差し伸べて行きます。この点が、イエスの際立った特徴で、彼は社会的な成功者や満たされた人ではなく、虐げられ、嫌われ、退けられ、叩かれ、排斥され、蔑まれた人々にこそ、言葉と手をかけていきます。

今日のような恵まれた時代ではなく、2000年前の世界において、娼婦に身を堕とさざるを得なかった女性たちの心細さや哀しさを想像することは僕にはちょっと出来ません。

ルカによる福音書の中に、その娼婦が出てくるシーンがあります。イエスはシモンという街の有力者の家に招かれていました。その娼婦は、名前すら記述がないのですが、そのシモンという人の家に忍び込んでイエスのもとへやって来て、足を洗うのです。聖書の中の記述では、足を洗いながら泣き、その涙がイエスの御足を濡らした、と書かれています。記述は非常に簡潔なのですが、このシーンの遠藤周作の記述が、僕は自分の想像とフィットしていて好きです。

「下男たちの声にキリストは背後を振り返り、自分の前に哀しげに立っている女の顔を見ました。突然、女の顔から大粒の涙があふれ、真珠の粒のように一滴一滴彼の足を濡らしたのです。この熱い涙からキリストは女の哀しい過去、みじめな人生を理解したのです。安心しなさい、彼の唇から力強いその一言が漏れました。」

このエピソードは、その後の西洋文学の女性像のあり方に非常に大きな影響を与えました。例えばドストフスキイの「罪と罰」にはソーニャという売春婦が出てきますが、この人は結局、誰よりも殺人者ラスコリニコフの苦悩を慰めることになります。

■サロメとヘロジャデ
サロメはオスカーワイルドの戯曲で有名になりましたが、これの母がヘロジャデです。ヘロジャデはピリポという男の妻でしたが、蟲惑的で虚栄心と物質欲の強い、今で言えば投資銀行マンとの合コンに勝負メークで出かける様な女性だったようです(投資銀行マンの市場価値も最近はずいぶん落ちてしまったかも知れませんが・・・)。

この女は結局、ガリラヤ地方の領主であるヘロデを誘惑して、その妻と子供を棄てさせ、自分はガリラヤ領主の妻と言う座について豪奢な生活を送り、虚栄の暗い奈落にヘロデとともに堕ちていきます。

ガリラヤの住民の中でただ一人、この不義を強烈に避難したのが、レオナルドの絵画でも有名なバプテスマのヨハネ、かつてイエスにヨルダン川で洗礼を授けた人物です。ちなみに僕のブログのプロフィールの人物画が、それですね。

妻であるヘロジャデが狡猾で悪魔的であるのに対して、夫であるヘロデという人は、どこかスタンスが座らない、意思の弱い小心な人物だったようで、ヨハネの傲然たる非難に対して後ろめたさを感じ始めます。

ヘロジャデはそれを見て、自分の地位の危険を感じます。そして娘のサロメに対して、自分とサロメの地位を脅かそうとしている洗礼者ヨハネの存在を吹き込みます。

通常、サロメは後世の人々から生まれながら淫乱で残忍な少女の様に伝えられていますが、遠藤周作は、そうではなく、おそらく母親のヘロジャデから日夜、吹き込まれた恐ろしい言葉を子供心にそのまま信じたのだろうとしています。

あの男は、わたしたちの敵。
あいつを殺さなければ、わたしたちの未来が奪われる。

そして後のストーリーは有名ですね。ヘロデの居城で催された宴会でサロメは妖艶な舞を踊り、「欲しいものは何でもやろう」と約束したヘロデに対して、「洗礼者ヨハネの首を盆に乗せてここにいただきとうございます」と答えます。

オスカーワイルドの戯曲では、盆に乗せた血の滴る首にサロメは接吻し、その首を持ってさらに舞を踊りますが、さすがにこれは後世の脚色でしょう。

史実の面からは、ここまでしかわかっていません。ヘロジャデとサロメがその後どうなったのかは、よくわかっていません。

Friday, April 10, 2009

輝ける闇 開高健 読了

簡単に言えば開高健のベトナム戦争従軍記です。

200人の部隊に従軍記者として参加し、17人しか生き残らなかった戦闘の模様が圧巻で、熱帯の熟れた空気の中、眼前でゆっくりと死を迎えて行く仲間たちの描写は読んでいて悪寒を催すほどです。兆弾に胸をえぐられて肺が露出し、息をするたびに血のあぶくが胸から噴出す云々・・・・

ただ、本編の99%は、ジャングルの中での米兵とのやりとりや、サイゴン市での生活ぶりだったりで、全てが戦記ということでもないのですが・・

本人自身が「傑作」と言っていて、彼の絶筆である「珠玉」が大好きな僕は読んでみたのですが、正直あまりピンときませんでした。修辞があまりに微に入り細を穿っている感じで、なんか今の生活ペースで読むとあまり味わえない感じでした。

今、同時進行で読んでいるのは

プラトン 饗宴
カフカ 変身
塩野七海 海の都の物語
ムハマドユヌス 世界から貧困をなくす
荒川省二 日本の歴史16巻 豊かさへの渇望

Sunday, April 5, 2009

世界の医療団ってやばいですね


いくつかのNGOに資金援助をしているのですが(詳細は自分でもよく覚えていない)、どうも、その中の一つに「世界の医療団」という団体があるらしくて、この団体からの不自然な連絡に最近ちょっと困惑しています。

夜9時過ぎに自宅に電話してきて、僕がいなかったために家人が用件を聴くと「個人情報に関わるのでお話しできません」の一点張りでらちがあかない、とのこと。

殆どのスポンサーがそうだと思うのですが、うちだって僕の一存でスポンサーを決定しているわけではなく、家族との相談で決めています。ナンにもしなければ海外旅行に行けるくらいの金額を、NGOに供出する訳ですから家族の了解がなければこんなスポンサリングは不可能だと思うのですが、その意思決定の関与者に対して「個人情報に関するのでお話しできません」というのは、いかにもマニュアルじみた対応だと思われても仕方がないと思うし、そもそもNGO
の組織構成員が持っているだろうと、僕らが勝手にイメージする暖かさとか柔和さと、ものすごく齟齬があってちょっと困惑してしまっています。

ということを、最近感じていたところ、ついに私が在宅している間、今日(4月5日日曜日の夜8時)かかってきました。

で、電話に出てみると「ご本人様ですか?」という確認の後で「スポンサーリングのお礼と、加えて新しい寄付のお願いが・・・・」と来ました。

僕にしてみれば、まず日曜日の夜8時という、もっともくつろいでいる時間にそんなものは聴きたくないし、そもそも家人に対する物言いも聴いているので、「まず連絡があるのであればメールでしてください。二度と電話は使わないこと。そして、そのメールも緊急時でなければ平日にしてください。いいですか?」ということで切ってしまいました。

こんな時間に寄付のお願いをしなければいけないほど資金的に困っているのでしょうか?でも日曜日の夜8時に人を使う人件費を考えれば、コストとスポンサーリングがバランスしていないんじゃないか?と思ってしまっても不自然ではありませんよね・・・。

世界の医療団、なにか不自然な感じがしますね。


不気味なNGo

Friday, April 3, 2009

ウェブは資本主義を超える 池田信夫

ウェブは資本主義を超える 池田信夫
 
· ■個人をプロセッサ、組織をネットワークと考え、情報処理コストと通信コストのどちらが相対的に高いかによってネットワークの構造が変わる
- 情報処理コストがネットワークコストより相対的に高いときには情報を中央集権的に処理して端末に送ったほうがよい
- 逆に通信コストが高い場合は端末で分散処理して通信料を減らしたほうがいい·

■広告費だけでなく販促費を視野に入れることで大きな市場が期待できる
- 日本の広告費は約6兆円でGDPの約1%である・・・この水準は一定しており、この中で市場を食い合っている以上は大きな成長は期待できない
- 一方、日本における顧客へのマーケティング費用の総計は20兆円、世界全体では100兆円くらいあるとされている
- グーグルが狭義の広告産業を超えて従来のどぶ板営業を代替するものだとすれば、広告市場を越えた大きな成長機会をつかまえるかも知れない·

■インターネットに関連したビジネスではサービスのリリースタイミングが死命を決する重要性を持つ
- Web2.0という言葉はコンピューター中心からネットワーク中心への移行という概念を含んでいるが、これは昔サンやオラクルが流行らせようとした「ネットワーク・コンピューティング」とか「シン・クライアント」といった概念に近い
- これらの概念は論理的にはありえたのだろうが、いかんせんダイヤルアップの時期に出てきたのは早すぎた
- 普通、一度失敗したビジネスモデルは二度とものにならないが、ムーアの法則(半導体の集積度が18ヶ月で2倍になるという経験則)によってコストが3年で1/4になるITの世界では、3年前に赤字だったビジネスモデルが、いまやったら黒字、ということがありうる
- グーグルは検索エンジンのパイオニアでもなければ、検索広告の発明者でもない・・・問題はそういう技術をどう組み合わせてどういうタイミングで世に出すかという、まさに戦略の問題なのである·

■ブラウザにインターフェースをすべて依存するようになるとOSの存在意義が薄まる可能性がある
- ネットスケープの登場によってウィンドウズは単なるデバイスドライバなる(マーク・アンドリーセン)· ■マイクロソフトの失敗は広告経済モデルの軽視
- チーフ・ソフトウェア・アーキテクトとしてビル・ゲイツの後継となるレイ・オッジーは「インターネット・サービスによる破壊」という内部文書でマイクロソフトの失敗の原因を分析している
- その第一に、パッケージソフトの販売という伝統的な収益源にこだわって広告による経済モデルを軽視した結果、インターネットによる効率的な流通システムの開発に遅れをとった、という点をあげている·

■ビスタはIBMと同じになるかも知れない
- かつでのIBMは超高性能な大型コンピューターを守ろうとしてPCという破壊的イノベーションに敗れた
- 大した新機能もないのに大きなメモリを食うビスタは典型的な持続的イノベーションが、顧客期待価値を超えて余計な機能を付加している様相になっている·

■権利処理の自動化には定型的なプロセスの設計が必要
- 権利処理を自動化するには、まず権利を一本化し、許諾権を切り離して報酬請求権のみとし、ライセンス料に定価を定めるなど、定型的な処理手続きを作る必要がある·

■ウィキペディアのルールでは、最終的には精度は担保されない
- ウィキペディアは「最終的に信頼できる情報源」にリーチ出来ることを目的にしており、真理の提供を目的にしていない- ここで言う信頼できる情報源とは別途定義されており、それはたとえばニューヨーク・タイムズやBBCで、実はウィキペディアは「信頼できない情報源」に分類されている
- このように明文化されたルールだけを根拠として正当性そのものの考察に踏み込まないこと、それが真理であるかどうかを問わない、という考え方は法学でいう実定法主義(Legal Positivism)であるが、これは仲間内メディアでは機能するが、信頼できるはずの情報源が信頼できないとき、機能しない
- たとえば従軍慰安婦に関して、ニューヨークタイムズもBBCも「慰安婦は日本軍の性奴隷制度だった」と報じており甚だしい事実誤認をしている
- こういうケースでは信頼できる情報源が信頼できない、ということになり、このルールは機能しない·

■百科事典はそもそも啓蒙思想の最大の成果であった
- 百科事典は18世紀にディドロとダランベールが編集した「百科全書」が最初
- 教会による知識の独占の時代を乗り越え、神学による学問支配を乗り越え、個人による自由な知の集積を作る作業の成果であった·

■多くの官庁や大企業の取り組みが失敗に終わったのに、一人の不良青年が作った2ちゃんねるが、これほど多くのユーザーをひきつけている事実は、失敗した大事業の関係者たちはもう一度考えて見るべき·

■マスコミの誇大なあおりにだまされてはいけない
- 治安が悪化して犯罪が増えている、とマスコミは煽るが実態はそうではない
- 統計上の犯罪の数は増えているが、その最大の原因は自転車の防犯登録によって、自転車泥棒を犯罪統計に入れるようになったことや、警察が犯罪被害の届出を受理s内「前裁き」がへったことなど、犯罪の「認知率」が上がったためで、こうした効果を除くと犯罪はほとんど増えていない
- さらに、殺人や強盗といった凶悪犯を見れば、戦後一貫して減っておりピーク時の1950年代の1/3以下になっている
- また検挙率が下がったというマスコミもあるが、これも母集団が増加したことと、軽微な犯罪や余罪の追及に要因をさかなくなったことでほぼ説明がつく
- また、いじめが社会問題化している、というトーンもおかしい
- 子供の自殺は70~80年代がピークで、このころも「いじめ」が最大の原因として騒がれた
- 現在、自殺件数はピーク時の半分であり、いじめが原因と見られるものも当時は毎年10件くらいと、現在の6件より多かった
- そもそも年間で6とか10とかいう数字からして、「稀有」な事件というべきで社会問題として取り上げる問題ではない
- うつ病で年間1万人以上自殺しているのは取り上げず、いじめや極悪犯罪など、耳目を集めやすいニュースを誇大に取り上げることで視聴率を上げようとしているだけである
- 付け加えれば、ごみ焼却炉から出るダイオキシンがワイドショーで一時期頻繁に取り上げられたが、これらの寿命への影響は1.3日であり、喫煙の10年以上、また受動喫煙の120に比べればはるかに影響

はじめての構造主義 橋爪大三郎 

はじめての構造主義 橋爪大三郎 

■ソシュールはそれまでの言語学がアホくさかった
- ソシュール以前の言語学は、言語が現代に至るまでの変化の過程をつぶさにトレースしていくことがメインの仕事だった
- しかし、そんなことでいいのか、とソシュールは思った
- 人間と言語は切っても切れない関係にある・・・言語を通じて人間のより深い理解へといたるような学問・・・それを言語学としようじゃないか、と彼は思った·

■言語が切れるように、人は世界を切っていることをソシュールは見つけた
- 日本では湯と水は違う言葉なのに、英語では湯そのものを表す単語は無い
- ものがあって、それにしたがって世の中を切っているのではなく、言葉によって世の中を切っているのが人間
- Aさんの“あ”とBさんの“あ”では違う音なのに、我々は“あめ”という言葉を聞き分けられる・・・重要なのは音そのものではなく、その音が作り出す“差異”にある・・・言語とは結局は“差異の体系”である·

■レヴィ・ストロースの「親族は女性を交換する仕組みである」という仮説にもっとも影響をあたえたのはモースの研究だろう
- モースは「贈与論」というユニークな論文を書いた
- 彼は贈与が未開社会でとても大きな意味を持っていることを最初に注目した学者だった
- モースは、ニューギニアの沖合いにある贈与の慣習「クラ交換」に着目した
- クラは貝殻とか花で飾られたちょっとした器物だが、これを交換するために各部族は命がけでカヌーを漕ぎ出す・・・この交換のために死ぬこともしばしばあったらしい・・・・·

■価値があるから交換するのではなく、交換するから価値があることに気づいた
- なんでこんなつまんないものを命がけで・・・・と思う前に、我々も日本銀行券と書かれた紙っぺらをありがたく交換していることを思い出さなければいけない
- つまり、価値があるから交換しているのではなく、交換しているから価値があるのだ- 女性もこれと同じで、部族間で交換のための財とされているのである
- 近親相姦が原始社会においても禁止されているのは、この交換財としての役割を維持するためである·

■ギリシヤ人はヒマだったが頭が良かった・・・公理をつくったのだから
- 由緒正しいギリシア人は働いちゃいけなかったので、ヒマをつぶすために証明問題に没頭し、ほとんどの証明を終わって証明の網の目を作ってしまった
- この証明を良く見て見ると枝分かれのような構造になっており、一番基本的な事実はほかの事実=定理をしょうめいするばっかりで自分はちっとも証明されていないことに気づいた
- 証明の枝分かれの、ちょうど出発点になっているところについては、仕方ないので「理屈抜き、証明抜きで正しいことにしよう」ということになった・・・これを公理という
- 公理がよそから証明されると非常にかっこ悪いので、よくよく吟味が重ねられ、最終的には5つに絞り込まれた・・・この5つの公理から幾何学の知識はすべて証明(の連鎖)によって跡付けることができるようになった- このことを記した本がユークリッドの「幾何学原本」である・・・実はユークリッドが実在の人物かどうかよくわかっていないのだが、この本は実在しており、以後二千年にわたってすべての学問の手本となった・・・本当に見事で美しい本である
- ちなみにユークリッドの幾何学原本には次の5つの公理が載っている
- 1:どんな二点のあいだにも、一本の線分が引ける
- 2:線分を好きなだけ延長できる
- 3:好きな点を中心に、好きな半径の円を描くことが出来る
- 4:直角はどれも等しい
- 5:直線外の一点を通って、その直線に平行な直線を、一歩だけ引ける·

■アリストテレスはすごい
- アリストテレスは論理学を一人で作ってしまった
- 三段論法の薦め方を何通りにも分けて、推論が正しい場合、間違いである場合をいちいち確かめて一覧表にした
- 記号論理学が出来てからのここ100年くらいで古臭くなってしまったが、それまで二千年のあいだ絶対的な権威を誇ってきた・・・スゴイ!·

■代数学と幾何学を融合したのはデカルト
- ギリシア人は幾何学は大好きだったが算術は大嫌いだった・・・それは奴隷や商人の仕事だったからである・・・そのためギリシアでは代数学はぜんぜん進化しなかった
- 代数学を進化させたのはアラビア人である・・・- 代数学と幾何学を結びつけたのはデカルトである・・・彼は17世紀の人だがある時急にひらめいて座標軸というものを思いつき、平面の各店をx座標、y座標の組み合わせで示してみると、なんと円錐曲線が二次方程式で表せることに気づいた- そんな具合にして、あれよあれよという数ヶ月の間に、解析幾何学をこさえてしまった

インターネットは民主主義の敵か キャス・サンスティーン

インターネットは民主主義の敵か キャス・サンスティーン


■民主制度は広範な共通体験と多様な話題や考え方への思いがけない接触を必要とする
- 各自が前もって見たいもの、見たくないものを決めるシステムは、民主主義を危うくするものに見えるだろう
- 考え方の似たもの同士がもっぱら隔離された場所で交流しているだけでは、社会分裂と相互の誤解がおこりやすくなる·

■良質の日刊紙、または夜のTVニュース番組の真の強みは未知なものへの出会いと準拠枠の提供にある
- 読者・視聴者に広範な話題や意見に出会うことを可能にすることにある
- 何百万人もの人が共有する枠組みを作る·

■共通体験は社会をつなぎとめる接着剤の役割を果たす
- 混合型社会で社会問題に手をつけようというとき、共有体験がなければどうしようもない
- 社会の成員同士が理解できないかもしれない·

■アメリカにおいては「自由の最大の敵」は「消極性」である
- 最高裁判事であったルイ・ブランダイスはこう書く
- 我々の自由を勝ち取った先達は、国家の最終目標は人間を自由にして才能を発揮させること、と信じていた。また、施政においては、話し合いによる力が恣意的なものを抑えるとも信じていた・・・・自由な言論と集会なしには議論は不毛になる・・・と信じた・・・自由の最大の敵は消極的な国民である。公開議論は政治的義務である。これはアメリカ政府の根本的な原理である·

■フィルタリングはネットだけじゃない
- つきつめてみれば、どの新聞を読むか、どの番組を見るかもフィルタリング·

■ネットは多様性を押し広げる役割も持つ
- 好奇心に基づいて新たな知の探索を可能にする
- 情報を探す人には多様性をもたらすが、情報がもたらせることだけを求める人にとっては多様性を排除する方向に働く·

■しかし一般的に情報がオーバーフローした状態では、人は自分と同じ意見を聞きたがる
- 白人の人気テレビ番組十傑とアフリカ系アメリカ人の十傑を比べると、両方のリストに顔を出す番組はほとんど無い
- アフリカ系アメリカ人のトップテンのうち7つの番組が、白人の間では「もっとも」不人気な番組のランキングで上位に入っている
- リンクの調査に関しても同様で、同じような見解・政治的な立場の意見があるHPばかりリンクが張られ、逆の立場のHPにはリンクが張られていない·

■言論の自由は、贅沢品ではなく、必需品である
- 貧困国あるいは社会や経済の問題で苦しんでいる国々においては、経済成長と国民の衣食住の充実が優先課題であって、民主主義の奨励・言論の自由は後回しにされるべきだ、という意見があるが、これは見当違いである
- 経済学者アマーティア・センの研究によると、世界史の中で民主的な報道機関と自由な選挙制度を持つ体制に飢饉が起こったことは無い
- センが実証する出発点は、飢饉は食料不足の必然的な結果ではなく、社会的な構造が生み出した産物である、ということである·

■祝日はこの「思いもかけないテーマとの出会い」のために存在する
- 祝日は本来、国民にとって重大な出来事を皆で一緒に考えることでっ国づくりの手助けにするためにある
- 加えて、祝日には多様な人々が共通の思い出・関心を持つことを促進する·

■選択肢の縮小は必ずしも抵抗をもたらすわけではない- 社会学者のジョン・エルスターはすっぱい葡萄のたとえをもって説明する- 選択肢が狭められると、失ったものについての選好が減少することがある

デザイン思考の道具箱 奥出直人 

デザイン思考の道具箱 奥出直人 

■企業の競争の要諦は効率から創造性に移っている
- 効率を向上させてもiPodのような商品は生まれない
- これまでのMBAで教えている方法論では競争に勝てない
- 創造性を発揮できる企業が勝者になる
- 2006年1月のダボス会議でも創造性がトピックとして扱われ、IDEOの方法論が紹介されたりした
- ビジネスウィークは2005年8月号で、これまで経営戦略では企業は勝者になれなくなったとして、創造性の特集を行っている
- GEのジェフ・イメルトはデザイン思考を企業戦略に取り入れてGEの更なる成長を可能にした
- P&Gはデザインとイノベーションと企業戦略を統括する副社長としてクロウディア・コチャカを抜擢した・・・彼は多くの役員や部長、さらには研究所の科学者たちを解雇し、その一方で商品デザインを行う人を数多く雇い入れ、研究所のスタッフがデザイナーと一緒に仕事をするプロセスに切り替えた·

■創造性は才能ではなく方法である
- 創造をするプロセスにのっとれば創造性を発揮できる
- 俗人的な才能の問題ではない- これをいかにマネジメントするかが経営の大きなポイントになる·

■アメリカズカップの日本チームでテクニカル・ディレクターを務める宮田英明は従来のR&Dに変わる方法論としてR&D&D&Dが必要と述べている
- 宮田氏は東大MOTの教育に関わった
- 著書「プロジェクトマネジメントで克つ!」で創造のプロセスを開陳した
- いわく従来のR&Dではない、Research & Development & Demonstration & Dissemination・・・つまり研究して開発して実証して普及させる、という流れ全体を創造のプロセスとした·

■例えばポストイットを商品化した3Mの行動原則の中には「試してみよう、なるべく早く」というのがある
- とにかくどんどん作ってみて、どんな使い方が出来るかを試してみる、というのが会社の方針になっている·

■西堀栄三郎は、発明にはエジソン式発明とラングミア式発明の二つがある、とする
- 西堀は南極越冬隊で有名だが真空管の研究や原子力の研究・開発でも功績を残した人物で、日本の「もの造り」に大きな貢献をした
- 著書「西堀流新製品開発―忍術でもええで」の中で、エジソン式発明=要求が先にあって知識がそれに追従していくというスタイル、ラングミア式発明=知識が先にあってその知識を応用して要求を満たすというスタイル、の二つのアプローチを紹介している·

■創造のプロセスの中で非常に有効性があるのに抵抗が一方で強いのは「プロトタイピング」である
- スペックが決まってからプロトタイプで検証する、というスタイルをとりたがる企業が多いが、プロトタイプを作って、試行錯誤しながらスペックを決めるほうがはるかに創造性を発揮しやすい
- 空間内部でのシステムを作るプロジェクトで、普段は十分の一の模型からスタートしている企業に、実物大のプロタイプをいきなり作れ、とアドバイスしたところ、非常に大きな抵抗があった
- 本当に簡単なものでかまわない、と説得してホームセンターで買ってきたパイプで枠を組んで実物大の空間を作って見たところ、今までどんな模型でも得られなかった身体感覚が生まれ、作るものも使い方もコンセプトもシャープにイメージできるようになった·

■デザインの礎には「顧客と同じ目線での実体験」が必要・・・フィールドワークが必須
- フィールドワークはもともと民俗誌=エスノグラフィーの学者が行ってきた方法論
- 民俗誌の中に、特に現象学的社会学=エスノメソドロジーという学問があって、著者はその方法論を用いている
- エスノメソドロジーは特に、人と人のインタラクションを重要視する
- ここでのポイントは参与観察で、つまり対象と距離をおいてただ観察するのではなく、観察する相手の活動にみずから参加することである
- それによって日常のコンテキストを共有しない他者が感じる違和感を切り口に、世界を見ていく·

■ポイントは、デザイナーやエンジニアが自分で参与すること- 大変な作業なので専門家に任せたいと思うかも知れないが、違和感を感じるのがデザイナーやエンジニア本人であることに意味がある
- アンケートやインタビューをいくらやっても革新的な商品は生まれない
- ビジネスウィークは前掲の特集で「エスノグラフィーこそこれからの企業に求められている能力である」としている·

■行動を観察する、というのは実は結構難しい・・・ポイントはドップリ入りこむこと- 初めてやるといきなりインタビューしたり、ただ漫然と眺めているだけ、になりがち
- 観察する対象を理解するには「自分が変わる」ことが大事・・・自分の経験領域を拡大して観察対象の経験を包含するまで変化していかなくてはいけない
- 第一のポイントは、一回目の観察を大事にすること・・・これをエスノグラフィーでは「First Encounter」と言い、もっとも新鮮な違和感を得られる大事な機会として考えている
- 第二のポイントは、いい師匠を見つけて、師匠に弟子入りする感じになること・・・一挙手一投足を見て「師匠、ここはなぜこうするのですか?」といちいち確認するのが大事
- イチイチ確認するのが非常に大事で、その場で聞かないと違和感も消えてしまうし、なぜ今そうしたのか、という理由付けも師匠の側で思い出せなくなってしまう・・・師匠は結構無意識にいろいろやるものなのだ
- 第三のポイントは、終了後、感覚や記憶が生々しい間に、一気にレポートを書き上げること・・・その際に、出来るだけ生々しい、民俗誌で言う「濃い記述」をこころがける- この記述により、体験が反省化され、経験が拡大される効果が出る·

■これからの競争のポイントはマイクロイノベーションの積み重ね
- エジソン式発明とラングミア式発明で言えばエジソン式
- 19世紀後半から20世紀にかけては中央研究所主導で大型のイノベーションを開発し、一発屋的に設けることが主流だった
- しかし、iPodのように4つも5つもの小さなイノベーションをうまく組み合わせることで大きな市場価値をもつ商品を作り出すのが、今後の主流になるだろう
- 3Mは小さなイノベーションをたくさん生み出すことを組織的な仕組みとして内包している·

■コラボレーションでは「共通の言語」が重要になる
- アメリカ海兵隊の一番のミッションは敵地に上陸して拠点を築くことにある
- このミッションそのものは海軍の仕事と空軍の仕事と陸軍の仕事のすべてに関連するが、陸海空軍が集まっても同じことは出来ない・・・なぜなら彼らには共通の言語がないため、チームワークが取れないからである
- 西堀栄三郎の南極越冬隊では、学者たちを連れて行く前に学者たちをまず雪山でテントを晴らせる訓練をして身体的な場・言語を共有させた

アムンセンとスコット

アムンセンとスコット

西堀榮三郎の本を読んで触発され、アムンセンとスコットの極点到達レースに興味を持って読んでみた。

なんというか、レースというと好敵手の二人が切磋琢磨、というイメージをもたれるかも知れないが、まったくそうではなくて、なんと言うか、そもそも勝負になっていないと感じた。

アムンセンは子供のころから極点到達を夢見て、人生の全てをその夢の実現のためにプログラムした、という人物である。それは下記のようなエピソードからも伺える。自分の周りに居たらほとんど狂人である。

:子供の自分、将来の極点での寒さに耐えられる体に鍛えようと、寒い冬に部屋の窓を全開にして薄着で寝ていた。
:探検家になる前に船乗りになった。なぜならそれまでの探検の失敗行の多くが船長と探検隊長の不和に起因しており、船長と隊長が一緒であればその問題は避けられると考えたから。
:犬ぞり、スキー、キャンプなどの、付帯的に必要になる技術や知識についても、子供のときから積極的に「実地」での経験をつみ、学習していった

一方のスコットは、出世を夢見る英国軍人であり、極点に対する憧れはまったくない。彼はいわば、帝国主義にとって最後に残された大陸である南極への尖兵として、軍から命令を受けて南極へ赴いたに過ぎない。従って、極地での過去の探検隊の経験や、求められる訓練、知識についてもまったくの素人であった

この冒険は、結局アムンセンが犬ぞりを使って、一日に50キロを進むようなスピードでスムースに極点に到達して帰ってきたのに対して、スコットが主力移動手段として用意した動力そり、馬がまったく約に立たず、最終的に人が重さ140キロのそりを引いて歩いていくという信じ難い悲惨な状況になって、ついに食料も尽きて全滅してしまう、という結末になるのだが、いくつかの学びを抽出してみるとこういうことになるかと思う。

:戦略面での軸足を決める
アムンセンが犬ぞり一本に移動手段をフォーカスしたのに対して、スコットは動力そり、馬、犬ぞりの3種類の混成部隊を考えていた。これらのうち、どれかに決定しがたかったので、3つ持っていってうまくいく手段にフォーカスする、という考え方ならまだいい。しかしこの点でもスコットは中途半端で、動力そりについては修理する人間を連れて行っていない、犬ぞりについては犬用の食料が旅程分用意されていない、といった有様であった。結局は主力を馬にする予定だったのに寒さでまったく約に立たず、その上、馬を維持するための馬草が膨大な荷物になっていて、これを運ぶだけで隊のエネルギーが消耗される、という状態だった。

:調べられることは事前に調べる
で、これが次につながる話なのだが、そもそも極点のような零下30度というような状況で馬が機能するかどうかについて、ほとんど試験らしい試験をやっていないのもいかにも手落ちだと思う。他にも、デポに保管していた帰還部隊用の燃料タンクが、寒さで変形して燃料が漏れてしまって帰還部隊が帰りは紅茶二杯分の燃料しかなかった、というような話も、燃料タンクみたいな重大な物品が、寒さに耐えられるかどうかの試験をやっていないというのも、ちょっと驚きというか、すごい楽天的な人なんだろうな、という気がする。当たり前の話だが、調べられるものについては調べるくらいのことはしてもいいのでは。

:あきらめる勇気
スコット隊の最初のつまづきは、帰還してくる部隊の食料・燃料を置いておくデポを当初の予定より30キロ手前に作らざるを得なかった、ということだった。ここから小さなほころびが、雪だるま式に大きくなっていって、結局最後の帰還部隊はデポ手前20キロのところで息絶えてしまった。結局は、最初のデポを当初予定のところに作れていれば、帰還部隊は大量の食料と燃料にありつけたわけで、レースに負けこそすれ全滅という事態は避けられたはずなのに、結局は最初のボタンのずれを修正できずに終わってしまった。いろいろと考え方はあるが、運搬手段が全部役に立たず、人間が徒歩でそりを引いて数百キロの酷寒の地を歩いていかなくてはならないという状態になった時点で、この冒険はそもそも終わりにすべきだったと思う。スコットは精神論の好きな軍人らしく、人間がそりを引いていく事態になって、いよいよ興奮してきたらしいが、そんなのいい迷惑である。

:徹底した読み
一方でアムンセンの動きを見ると、徹底して「こうなるやもしれない」という事態に対して事前に手を打つことをやっている。往路と復路で、往路の道を復路で迷わないように10キロごとに塚を築いていくのだが、その塚から向かって左右に100メートルごと、左右15キロに渡って旗を立てているのである。しかも、東側は黒、西側は白としていた。これによって、帰ってくるときに、もし往路の道からずれてしまっても、よほどのことがない限り旗に出会って、しかもそれが白であれば自分が塚より西側に、黒であれば東側に居ることがわかるようにしていた。こういった手間のかかることをスコット隊はまったくやっておらず、そのために復路で迷走して貴重な燃料と食料、何より体力を犠牲にしてしまった。

西堀流新製品開発

西堀流新製品開発

■イノベーションにはバカと大物が必要
:とてつもないアイデアを思いつくのがバカ
:バカの出したアイデアを擁護し、スポンサードしてやるのが大物

■イノベーションにはアイデアのその後の方が大事
:日本人にはクリエイティビティはある
:日本で発明がおきにくいのは個人的な資質よりもと組織の問題が大きい
:アイデアを出すより育てる方が難しい
:育てるには大物がいる

■大物はバカでもいい
:白瀬中尉の南極探検のアイデアに乗ったのは大隈重信
:大熊は白瀬に「南極は南洋より南にあるからもっと暑いはず、気をつけろ」と忠告するほどのバカ
:でもゼンゼンOK

■育てた人に賞を出すほうがいい
:よくアイデア賞をやったりするけど、それで出たアイデアが商品に結びつかない
:アイデアを出した後で重要なのは育て親の責任者を決めること
:育ったら賞を出す、というふうにすればいい

コンテンツ・フューチャー

■日本のテレビ局はビジネスモデルのシフトに乗り遅れている
:CBSは、ブロードキャストからコンテンツキャストへ、を掛け声に、さまざまなメディアと組んでコンテンツを提供する、という動きをはじめている
:もともとコンテンツの制作力が強かった日本のテレビ局が、それをやらない手はない

■見開き、は永遠のインターフェース:羊皮紙以来、蔡倫が紙を発明すぃ手以来、綴じ方こそ少し変わったけどずっと見開きで来ている
:見開きの、一瞥で知覚する情報量がちょうどいいのだろう

■新しいメディアにおいて「音声」はキー:もともと15世紀くらいまでは黙読しかなかった:幼児は未だに黙読できない

■メディアが変わって制作会社も儲かるようになった:昔のLPレコードは2800円のうち、盤そのもののコストが1000円もした:CDになってそれが一枚60円まで落ちた

■情報のスピードを遅くすれば人類が変わる:例えば一ヶ月前のニュースしか放送できない、記事に出来ないとなると人類が変わる:今は全てが早く届きすぎる

■テレビという枠組みを離れると番組という形態も消えるのかも:局数が限られていて、広告主に時間を買ってもらう、という形態が必然的に番組という枠を生んだ
:インターネットでは局数も時間も無限にあるわけだから1時間とか30分とかで区切る意味がない
:情報的に意味がある単位でコンテンツをきればいい
:それが30秒のときもあるし3時間のときもあるだろう
:しかし広告は見た人×時間(回数)によって料金が決まるので、こういう仕組みとどうあわせるか?

■放送と通信の融合って言葉ではわかるけど、新しい楽しみ方の提案が無い
:堀江さんが放送番組をそのままネットに乗っけられますとか、ドラマの主演女優が持っているかばんが今インターネットで買えます、というのがあったけど、それは違う

■ネットでしか出来ない表現、というのもある 
:山登りのドキュメンタリーをテレビでやろうとすると、準備して上って、という課程を最後に編集して、音楽つけて、ナレーションつけて、っていう風になる
:そういうことじゃなくて、準備して登って、もしかして途中でスタックしたりとか、そういうのも含めてずーっとリアルタイムに追っかけていく、これはネットでしか出来ないと思っています

■YouTubeに入れることで反応がビビッドになる
:ある番組を分割してYouTubeに入れると、コーナーによってヴュー数がすごい変わる
:これは今までの視聴率というフィードバックとは違う:ものを作る側として、何が受けるか、何がいいのか、悪いのかというのについてダイレクトに、迅速にわかるようになる

■コンテンツの嗜好はコンテンツの形態よりも情報の質の問題
:テレビゼンゼン見ない学生でもYouTubeは見ていたりする
:動画コンテンツに興味がないわけではなくて「情報処理のスタイル」が違うということ
:必要なものだけ、エッセンスで見る、というのがインターネット的
:番組というパッケージも否定している

■今問題なのはユーザーとアーティストの間にレコード会社が割って入っていること
:昔はレコード会社は空気みたいなもんだった
:それがコピー問題とかでいきなりしゃしゃり出てきた構図
:アーティストはユーザーとレコード会社の間で板ばさみになっている

■TSUTAYAではレンタルは客寄せの意味しかない
:レンタルの料金はどうでもいい・・・そもそも儲けを出そうと思ってレンタルしていない
:ビジネスの中心はセル
:店舗に来てもらうためのしかけとしてレンタルをやっているに過ぎない
:ビデオを返しにきた客が雑誌を買ったりゲームを買ったりしてくれることで利益を出す
:だからネット配信のレンタルはTSUTAYAにとって代替ビジネスにならない

■パッケージの手応えがなくなってきた:昔はレコードを買うのってミュージシャンの世界に参加する感覚があった

■YouTubeが今の精細度とサイズでいる限り、両立できる:YouTubeで見て、もっときれいで大きい映像で見たい、と思わせる:YouTubeが大画面化、高精細化するとこれはもろに競合になってくる

エンデの遺言

エンデの遺言

■ファンタジーは未来から学ぶための素材- 現実逃避や空想の冒険を楽しむためではない
- ファンタジーによって将来起こるかも知れないことを具体的に思い浮かべる
- そこを起点にして新しい規準を作る
- 過去に学ぶのではなく未来を具体的に空想し、そこから学ぶ·

■スイスの経済学者ビンズヴァンガーは無限の進歩という幻想を作り出した近代経済は中世の錬金術と同じと言っている·

■1997年と1998年でノーベル経済学賞の評価の軸足は100%変わった
- 97年はデリバティブズの価格形成理論で実績を上げたショールズとマートンが取った
- 98年は当時主流だった新古典派経済学を批判し、福祉や倫理的な動機付けを視野に入れたインドのアマーティア・セン教授が取った
- ショールズとマートンは自身の価格形成理論を用いてヘッジファンド運用会社を経営したが、この会社が巨額の損失を出して倒産したことも考慮されたのかも·

■シルビオ・ゲゼルは「老化するお金」のコンセプトを提唱した
- ゲゼルは「お金で買ったものはジャガイモでも靴でも老化するのに購入に使ったお金はなくならない。これはモノと貨幣で不当競争が行われていることになる」と指摘した
- 有名なケインズの一般理論には「我々は将来、マルクスよりもシルビオ・ゲゼルの思想から多くを学ぶだろう」という言葉がある
- このゲゼル理論を用いて1929年の世界大恐慌後、オーストリアのヴェルグルという町で一ヶ月に1%ずつ価値が減少する貨幣を導入したところ、貨幣の流動性が高まって不況が解消したという事例がある·

■お金は現代の神として振まっている
- エンデは小説「ハーメルンの死の舞踏」でお金が神のように崇拝される姿を描いた
- 確かにお金には一般的に神のものとされる特質が備わっている
- 例えばお金は不滅で、人を引き寄せ、あるものを別のものに変える·

■エンデの見るところ、最大の問題はお金がモノを交換したりするための道具であったのに、それ自体価値を持って商品として流通することになったことである·

■思想家のルドルフ・シュタイナーは社会を三分節化する社会三層論を建てた
- 社会全体を精神と法と経済に分ける
- 精神生活では自由が、法生活では平等が、経済生活では助け合いが基本理念であるとエンデは説いている
- この文節はフランス革命のスローガンだった自由・平等・博愛とそのまま対応する近代社会の理想を表してもいる
- エンデは今日の社会の問題は、この三つのレベルの異なる事象がいっしょくたにされて別のレベルの理想が混乱して語られていることにある、としている·

■マルクスの思想は根本的には正義に立脚している
- マルクスは資本家に弱者である労働者がひどい搾取をされているのを直接目撃した
- 倫理的に、これを何とかしなければいけないと考えたのは正しいが、それと彼の思想がメカニズムとして機能しなかったのは別の問題だ
- マルクスは地平から日がほっておいても昇るのと同じようにプロレタリアートによる革命から労働者の独裁が成就し、そこで新しい人間が出てくるとしていたが、結局は何も起こらなかった·

■エンデは読書のあり方にも鋭い疑問を投げかけている
- 「Mエンデが読んだ本・親愛なる読者への44の質問」で「数人の人が同じ本を読んでいるとき、読まれているのは本当に同じ本でしょうか?」という質問を投げかけている
- エンデは本という作品は、読者と本との一対一の関係の中で始めて完結するものであって、本自体で完成した作品にはならないという考え方を持っていた
- エンデはいつも、現代人は「この本は要するに何を言っているのか」という質問に捉われてしまった、と嘆いていた
- 陳腐な決まり文句や、簡単なメッセージ·

■流動しない金には流動性プレミアムが無いはず
- 貨幣、金やプラチナ、債権とうの財はそれぞれの流動性に応じたプレミアムがつく・・・・これを流動性プレミアムという·

■ディーター・ズーアは、流動しないお金、モノに変わらないお金には流動性プレミアムが無いのだから減価させるべきだと説いた· しかしこの議論はヘン・・・流動性プレミアムは「流動させようと思ったら流動させられる」という一種の権利料なので、いま流動していないから流動性プレミアムを原価させる、というのはそもそもおかしい??·

■実はケインズも国際通貨制度改革に関して、1943年にマイナス利子率を持つ国際通貨=バンコールのシステムを提案した
- いわゆるケインズプラン
- このシステム下では、国際清算同盟の黒字諸国は国際通貨として考えられたバンコール建て残高にマイナスの利子率が課され、そのことで対外交易を加速させながら国際収支の維持均衡を図ることが考えられた
- この案は米国のホワイト案に破れ、このホワイト案をもとに現在の国際金融秩序が出来上がった·

■プラス利子率のシステムは恒常的・偏在的であったわけではない
- 古代エジプトでは減価する貨幣システムが使われていた
- 農民は国庫に収穫物を納め、対価として貨幣を受け取る
- この貨幣は国庫の収穫物にかかる修造費用とネズミ等に荒らされる分だけ減価するようになっていた
- そうすると農民はなるべく早くそのお金を使って豊かさを維持しようとする- 農民は「なるべく長い間価値が残るようなもの」をお金で買おうとする・・・それはかんがい施設の整備や土地の改良である
- つまり土地が生んだ豊かさをお金のままで維持せず、長期的に自分の利益になるようなものに注ぎ込んだ
- このためにナイル川流域は非常に豊かな穀倉地帯になった
- これを破壊したのがローマ人・・・ローマ人はエジプトを占領してプラス利子率のシステムに全部切り替えた結果、農業に対する長期視点での投資が激減してナイル川流域の穀倉地帯は荒れてしまった
- 中世の欧州でも減価する貨幣システム=ブレクテアーテが存在した・・・このシステムの下で中世欧州人はエジプト人と同じように中長期的に自分たちの豊かさにつながるようなものに投資した。それはカテドラルである
- 当時のカテドラルは巡礼者を呼び寄せ、町に繁栄をもたらすという経済的な意味と、キリスト者たちに対する救いという宗教的な意味で中長期的な投資対象だった·

■プラス利子率では人類の未来に遺産を残せないかも
- なぜこのようなことが行われたかというと減価する貨幣だとなるべき長期的な利益になるようなものにお金を変えようとするから
- 逆にプラス利子の場合は、お金が利子を生むスピード以上で短期的に利益を生み出すものが交換=投資の対象になる
- 典型的な例は日本の林業・・・今のお金のシステムだと林業に投資しても回収に時間がかかりすぎるので、木は伐採して売り払う方が利益率が高い
- その結果、海の磯焼けと言われる砂漠化を引き起こすことになった
- いま、中世の人が残したような1000年後の人々への何者かを、我々は日々作っているのかを考えなければならない

福祉国家の闘い 武田龍夫

福祉国家の闘い 武田龍夫

最近、日本が進むべき方向性の一つとして北欧諸国の社会モデルが参照できるのではないかと思って、いくつかの本をパラパラと読み進めています。まだ、数冊程度しか目を通していないのだけど、現時点での印象は「マスコミを通じて喧伝されている北欧諸国の理想国家的イメージは、かつてのソ連のそれに対して朝日新聞が行ったプロパガンダと同じだな」というもので、ちょっと落ち込んでいます。

そういう状態で、今日、JBIC(国際協力銀行)において排出権取引のインフラ作りをしている友人と一緒に長い昼食を取ったのですが、その際に僕が「でもスウェーデンって90年代に原発は全廃するって決めて、で火力発電に依存せざるを得なくなるけどCO2排出量は増やさない・・・じゃあ経済成長は捨てるのか、というと、これはこれで追及する、という無理難題を掲げて国全体で何とか推進しているんだから、スゴイよね」という話をしたところ、「ああ、それ、昨日ちょうど発表されましたけど、スウェーデンも原発の全廃やめることになったんですよ」とのこと・・・驚愕。実は原発廃止先進国のドイツでも1998年に原発をなるべく早期に全廃する、ということで議会の合意が成立しているのですが、実質的にはこの計画も崩壊していて原発の稼動を高める方向で行政は調整に入っているのだそうです。但し、ドイツでは緑の党が議席を結構取っているので、調整が難航しているらしい。

要するに、CO2の排出をなるべく減らす、という京都議定書が発効になって段階で、火力発電に頼れなくなったということらしいのです。その友人はJBICの前職が東京電力なのですが、曰く「先進国で原発を使わない限り、CO2の排出を減らすのは絶対に不可能」ということでした。僕も「プラントで生産されるエネルギーのうち、末端までデリバリーされるエネルギー総量の歩留まりを改善する、ということは考えられないの?」という質問をしてみたのですが、この点についても「既に日本ではこの歩留まりは96%程度であって、大きな改善インパクトを期待できない」とのこと。また、他の自然エネルギーに関しては、「日本全土に太陽光パネルを敷き詰めても、東京都で必要とされるエネルギーすらまかなえない状況」ということでした。なんだか難しいらしいのです。

音楽家の坂本龍一は「原発は廃止せよ」と言う一方で「CO2は減らせ」と騒いでいますが、その友人に言わせると「専門家は殆ど聞いてないです。ハァ?っていう感じですね」とのこと。やっぱりそうか。
ということで、若干ヨーロッパモデル、北欧モデルに対する幻想が僕自身の中で崩れていくここ数週間です。

■女性の社会進出⇔家庭崩壊⇔高額の税金は表裏一体の関係- ルンド大学の教授:ポールソン女史は言う- 昔の大家族は老人や病人、職のない家族の面倒を見てきた- スウェーデン女性たちが家の外で働くようになり、生産に寄与するようになったが、その家の中の仕事は消えない・・・それは誰か他の人々、つまり公的機関が引き受けることになった- こうして結果的には公平で平等な社会を作り上げられた- しかし、実際に女性たちを待っていた労働市場は賃金給与も低く狭い市場であり、そのために社会福祉国家は伝統的な家庭支出をかたがわりしているが、それは公的支出の7割にも達し、スウェーデンの総所得の半分になっている- 率直に言って、家庭を崩壊させたコストは高くついたといわざるを得ない

■経済成長なくして福祉はない- なぜスウェーデン型福祉が行き詰ったか- 理由としては、人口構造の変化、福祉公的部門の肥大化、福祉官僚主義の弊害の表面化、福祉そのものが生み出す悪徳や利権、といった点が挙げられる- 福祉は大変なコストがかかり、自律的に拡大運動を続けるため、経済成長がないと福祉を維持できなくなる- 80年代に入ってすぐ、スウェーデンの公的部門の支出はGDPの60%を占め(50年代は30%程度)、170万人の雇用を集めるに至った(スウェーデンの労働人口は410万人!!!)

■国民全体が豊かな中産階級- 殆どの国民が別荘、モーターボートを保有- 年間の夏休みは一ヶ月が標準的- 日本よりも広い国土に890万人の人口でかつ高品位な鉱物資源が無尽蔵にあり、水力も豊富で、国土全体は森林に覆われている・・・加えて民度の高い優秀な国民・・・・基礎体力としての国力が日本とは異なる

■ 一方でネオファシズム的な側面も存在- サルトルは、スウェーデンをネオファシズムの国として、非常に危険視していた- 事実、あまり知られていないが1934年から1976年までの間に、強制断種、不妊手術が、6万人以上のジプシーやラップ(スカンジナビア半島北部の少数民族)民族、身体障害者等を対象に行われていた- 但し、この問題でスウェーデンを責めるのは簡単だが、当時はノルウェーでもデンマークでもスイスでも・・・・つまり広く一般に「当然」と考えられていたことを我々は忘れてはならない

■中立とは武力で勝ち取るものである- スウェーデンは、1813年のナポレオン戦争以来、現在まで180年以上もの中立を守り抜いた世界でも類例のない国である- クリミア戦争でもスレスウィッヒ戦争でも第一次大戦でも第二次大戦でも、その後の冷戦でも一貫して中立を維持してきた- 一方で、スウェーデンでも、またスイスもそうだが、国民皆兵の徴兵制度があり、また国力に不相応なほどの重武装国防力を有している- (そういえば、SAABは日本では自動車メーカーとして有名だけど、もともとは航空機メーカーで、スウェーデン空軍の戦闘機はSAAB製であることを思い出したりする。国が膨大な軍事費を使うことで、購入国が一国でも戦闘機を作るだけのスケールを維持できるということなのかも知れない)

■ノーベル賞は外交の武器でもアリ、一種の輸出産業である- 選考には従来から非常に問題があると言われている- 特にヒドイのが文学賞で、イプセン、ゾラ、トルストイ、リルケ、カフカ、ジョイス、グリーン、プルースト、ストリンドベルイ、志賀直哉、谷崎潤一郎、三島由紀夫、井上靖らが受賞していない一方で、受賞者を並べてみると???の印象をぬぐえない- 平和賞は完全に政治のツールになっており、もっとひどい・・・・キッシンジャーもサハロフもアラファトも佐藤栄作も選考委員会で対立が起こり、アラファトでは激論の末にノーベル賞選考委員の辞任という事態まで発生した- 人道的なもの、例えばシュバイツァーやマザーテレサ、アムネスティ・インターナショナルや国境無き医師団の際にはあまり異論が無いが、では例えばガンジーはなぜ受賞しなかったのか、不思議に思わないだろうか?答えは単純でイギリス政府に遠慮したから

■ 将来に不安のない福祉国家だからと言って幸福ではない- 例えばスウェーデンの自殺率は10万人当り20人程度で、欧州の国としては平均的(旧東欧諸国はおしなべて高く、例えばルーマニアは10万人当り70人程度)- 犯罪も多い・・・しかも一人当たりGDPが高まるにつれて犯罪率は高まっている!!- 例えば刑事犯罪のここ数年の平均は日本が大体170万件であるのに対して、スウェーデンは100万件だが、スウェーデンの人口は日本の6%程度でしかない- 強姦事件は日本の20倍以上、強盗は100倍以上で実にアブナイ国

■ スウェーデンの女性は怒っており、それが男性のタイヘンなストレスになっている- スウェーデン女性は美しい・・・女優みたいなのがそこら中にゴロゴロいる- グレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンもスウェーデン女性で、要するに八頭身の西洋人形みたいのがそこら中にいる、と考えればいい- 米国の心理学会では、一般的にスウェーデンが固有的に示す病理的な側面の原因は女性の強さにある、と言われている・・・・心理学用語の「男性的抗議」が強く出ているのである- 独立願望が強く、依存を嫌う。情緒面で不安定で荒廃し、しかも理想とする男性を自分で育てるという考え方を持たない。利己的で冷淡で永遠に欲求不満(為念:すごい書きぶりだが僕の意見ではありません)- だから、日本人女性と結婚したスウェーデン男性たちの特集が雑誌で組まれ「彼女たちはここまで夫に尽くしてくれる、耳かきもしてくれる」というオノロケ記事が出た際に、女性団体から雑誌社に抗議が殺到した・・・曰く「日本人女性は世界の女性解放の敵だ、我々は奴隷が主人に感じる愛情を否定する!」- つまり、ストリンドベルイを生んだ国ということである

■結果として社会進出は、「一応している」と言うべきで、実際にはまやかしの面もある- 数字で見る限り、スウェーデン女性の社会進出は世界一である- 国会議員の約4割が女性(EU平均は2割程度)- 1999年秋に組閣したペアソン内閣は女性閣僚の方が多かった- しかし、こういった数字の下で、本当に女性が社会的に慈しまれているかどうか、という点では疑問である- 例えば家庭の中における女性の位置づけは、日本より遥かに低い上、夫に比較して所得も低いために、つねに劣等感に苛まれている- また労働率が女性の社会進出率が80%と言われて喧伝されるが、約半分はパートである- 政治家への進出もクオタ制による割り当て選挙のおかげであり、要するに実力で勝ち取ったものではない、という後ろめたさが常に付きまとっている・・・・男性が実権を握っている政府の中で、うるさい女性を黙らせるために制度を少しイジって満足させる、という戦略が見えてくる- 結果的に、女性の社会進出は大きく偏向しており、職種は特定部門の20種類程度に集中している一方で、男性の職種は160種程度に広く分散している- また経済・金融・産業界の女性トップは一人もいない- 結論から言えば、スウェーデン女性の社会進出は、まやかしの表面的なものでしかない

歴史家の自画像 阿部謹也

歴史家の自画像 阿部謹也


1:時代が違えば人間も違う:時代劇に出てくる人間を江戸時代の人間と思うのは間違い:時代が違うと考えられない行動や考え方をする人間がいる:読者は時代劇を見て、江度時代の社会に自分を投影している

2:ラテラノの公会議は世界史的な転換点:告白をシステム化して近代的自我の成立を促した:フーコーもラテラノの公会議を非常に重要視しているが、なぜか余り他の人は触れていない

3:カタリ派の人は死を恐れない:彼らは現在が地獄だという:完全者になって最後に祝福を受ける、というのが理想


4:ものを考えるのは瞬間:一時間考えるなんてできない:本を読むのは大変・・・自分とは体質の違う相手の考えを理解することで抵抗がある:わかるということはうれしいことだが、それは考えるということとは違う:読みながら、「ハッ」と思ったことをノートする・・・その一瞬が考えている、ということ:その瞬間の密度が薄れてきたら、学者としてはもうだめだと思うんです:そういう時期が、60代になって見えてきました


5:仕事は常に最後だとおもってやる:いつも最後だと思ってやっています:そうじゃないとできないですよ、次があるなんて思ったら、そこでやらなくなってしまいます:日本の歴史研究者で、本当に好きでやっている人って少ない:好きさ、の度合いが浅い人が多くて、やっぱり商売にいっちゃいますね:本当に好きな人は、やっぱり時間をかけて研究します:そういう人は、本当に少ない


6:宗教にも文化レベルのものと文明レベルのものがある:イワシの頭も信心から、は文化の段階の宗教:こういう迷信的なものはもういくらでもある:三大宗教は、こういった宗教とどこが違うかというと単純で経典がある:経典があるから伝達が可能、解釈が可能で伝わっていく:経典がない宗教は人と一緒に滅んでしまう


7:習慣に根付いた犯罪というのもある:日本には贈与が根付いており、人間関係の基本になっている:政治の次元だけこれをきれいにしろ、といって無理:日常生活の革新ということだから、そういう意味で汚職の追放というのは簡単ではない:お中元/お歳暮はいっさい禁止、というくらいにしないと無理だろう


8:文明はよそ者をいれるけど文化はいれない:高村光太郎はパリで阻害された:漱石はロンドンで阻害された:外国人が日本にきて「源氏物語を研究しています」と言うと、それは大変ですね、とか答えるが心中では「おまえにわかるものか」と思っている


9:文化が文明になるには他民族を傘下におかないとだめ:日本は他民族を支配した経験がない:朝鮮や台湾は多少支配を及ぼしたけど、日本語とか日本文化を押し付けて失敗した:本当に、永続的に支配しようと思ったら支配するものは支配される者から取り込まなければだめ:支配する者が変質することで支配は存続する:朝鮮人の人間関係や、台湾人の人間関係を取り込むことで日本人自身がかわることによって日本文化は日本文明になりうるわけですが、そうではなく、官幣大社などを強制したりして日本の神様を押し付けた:ローマは異民族支配を通じて分明になった:近代以降ではアメリカがそれにあたる・・・なぜ可能だったかというと寄せ集めだから


10:現代人は世界を自分に投影する、中世人は自分を世界に投影する:典型的なのは星座


11:文明の担い手と文化の担い手は異なる:文化の担い手が文明の担い手になったときには、だいたい文化の担い手からは足をあらっている

善悪の彼岸へ 宮内勝典

善悪の彼岸へ 宮内勝典

ジャングルの奥深くにコミュニティを形成し、最終的に916人の信者に青酸カリを飲ませて自身も自殺した人民寺院の教祖、ジム・ジョーンズは、少年期から異様なカリスマぶりを発揮し、自宅にある自室を教会として既に熱心な少年信者を集めていた

彼は異常な支配願望を持つと同時に、暗殺される、食事にガラス片が混じっている、といった統合失調症(以前の精神分裂病)に特有のパラノイア症状を持っていた。不思議なことに、このパラノイア症状が嵩じる時期は、本格的な教祖へと成長していく時期とオーバーラップしている。いや、むしろ、教祖の狂的な妄想が、そもそも教団の求心力だったのだろう。

教団は順調に成長したものの、ジム・ジョーンズの心は崩壊しつつあった。人民寺院での説教は、自分がいかにテクニシャンで精力絶倫で女性たちを満足させることができるか、というセックス談義に明け暮れる様になった。ハーレムの王の様に、若い女性信者を片っ端から愛人にする上、白人の男性信者まで犯した。

その上、信者には禁欲を強制し、夫婦を離婚させ、セックスパートナーを自らの意思で組み替えたりした。理由は明白で、あらゆる人間関係を破壊し、教祖と信者との一対一の関係に追いつめていくためである。それ以外の人間関係は、恋人や夫婦はおろか、親子でさえ認めない。

地下鉄サリン事件は許されることではない。ただ、この事件が自分たちとは全く無関係な気違いが起こした事件だとして、表面的に弾劾するだけのテレビのコメンテーターにも反発を感じる。わかりきった陳腐な正義をふりかざすだけで犯罪を生み出した要因となる闇の深部へ降りていこう姿勢は、皆無だった。

ただ一人、東大医学部の教え子からオウム信者を出してしまったということを恥じているのか、痛ましいほどに打ちひしがれている養老孟司氏の姿に感銘を受けた。それこそが、まっとうな大人の姿ではないのか?あの教団を生み出し、信者を生み出したのは他ならぬ我々の社会なのだ。

オウム・シスターズの舞を見たとき、あまりの下手さに驚いた。あっけにとられながらも、これは見過ごせない、大事な何かを示唆していると感じた。オウムの記者会見のときに背後に映し出された曼荼羅の、あまりの稚拙さにも同様の何かを感じる。

それだけではない。私の自宅に送られてくるオウムの新聞・パンフレット・出版物など、いまどきこんなにセンスの悪い印刷物があるのかと首を傾げたくなるほどひどい出来映えである。ビデオもひどい。サリン工場をカムフラージュするために作られた発泡スチロールのシヴァ神の像も、まったく唖然とさせられる代物だった。私はただ単に、教祖が弱視だから視覚表現に重きを置いていないのだろうな、と思っていたのだが、考えてみると、総選挙に立候補したときの「ショーコーショーコーショコショコショーコー」という教祖自作の歌も噴飯ものだった。つまり、オウム真理教の作り出す芸術表現は、どれもきわめて低レベルなのである。これは何か重要な点を示唆していると思う。

麻原彰晃の著作、オウム真理教の表現に通底している特徴を端的に言えば「美の欠如」ということにつきる。こうした美意識の欠如は、オウムの教義そのものに深い陰を落としている。偏差値教育を受け、醜悪な家具と街に育ったエリートが、あれほど美意識や神性の欠落したオウムのコミュニケーションに接触し、何らの違和感もなく階層性ばかり強調する一見論理的な教義に同調してしまった。

新しい教団は必ず家族と敵対する。「イエスの方舟」事件がそうだった。若い女性たちが次々に家出して小さな教団で共同生活を営む様になった。親たちは娘を返せ、と叫び続けたが聞き入れられなかった。教団と言っても、東京郊外の空き地に立てたテントやバスが教会であり、そのバスの屋根の上には小型の寝室を取り付けて、ごくささやかな原始共同生活を営んでいたに過ぎない。「千石イエス」と名乗る教祖も、正式の司祭ではなく、刃物研ぎの行商をするかたわら布教活動をしていた。キリスト教の伝統からも逸脱しており、これがさらに疑惑をあおった。そしてマスメディアや家族の追求が激しくなった1978年、「イエスの方舟」の信者たち26人はこつ然と姿を消した。

人民寺院と同様のプロセスと結末を迎えたカルト教団としては「太陽寺院」がある。太陽寺院の集団自殺については辻由美が「カルト教団 太陽寺院事件」(みすず書房)に詳細な記録がある。

太陽寺院もそうであるが、カルト教団に共通しているのは「名前を変える」ことである。オウム真理教でも「ホーリーネーム」と称して信者には別の名前を与えた。名前を変えさせることでアイデンティティを破壊し、過去の世界に戻る橋を打ち壊すのである。

確かに、大悲心、つまり他人の利益を願う心がありさえすれば、殺生そのものも罪悪とはならないという「条件付き殺害肯定論」は、大乗仏教の戒律観の一形態として存在する。これがポアの論理である。この部分は、中村雄二郎著「日本文化における罪と罰」(新潮社)に、よく噛み砕いた形で引用されている。

脳と日本人 松岡正剛+茂木健一郎

脳と日本人 松岡正剛+茂木健一郎

松岡正剛:湯川さんから聞いた言葉で衝撃的だったのは、女の足の指を嘗める様に、自然の足の指を嘗める自然科学が必要なんや、というものだった。谷崎みたいなことですか、と聞いたら、そうや、あれや。あれを物理学にしたいんや、と言われた

茂木健一郎:一方で、文系の学者たちは相も変わらず小さな部分問題を解いているだけで自分たちは立派だと思っている。彼らは自分をアカデミシャンだという言い方をよくするけれども、アカデミシャンという言葉が何を含意しているか?単に文献学、ないしは学問の業績を文脈へあてはめるというある種の訓練を受けているに過ぎない。そしてトレーニングに従い、そのルールに従ってやっているだけの話なのですね。ルールからはみだしたものには際物だとか、色物だとか、いい加減だと批判するわけですが、彼らのやっていることはわずかな部分問題を解いているにすぎない。そのことにまったく自己批判の視点がないのですね。そのことに僕はずっと苛立っているわけです。

無限はどこにある?至る所にあるよ。君がベッドから下りて部屋のドアにいくまでの軌跡の中に、既に無限の可能性がある。

こういった無限性が、その無限の豊穣さが生かされていない・・・同じことが既にタイプライターから始まっていて、記号化、シンボル化が持っている毒の様な者が、我々の体を変質させていることは、僕は間違いがないと思う

熊本にトンカラリンという不思議な遺跡がある。地下に四百数十メートル、人がやっと通れる様な溝がある。そこを這っていくと、まさに死と再生の追体験をします。本当に怖いのです。怖いと言っても調査はされているし、周りに人もいるのですが・・・彼岸をありありと体験します。

以前、スーザン・ソンタグを東京案内したときに、新宿駅で駅員がマイクでガンガン叫んでいるのを見て彼女が「何て言っているの?」と尋ねたので「電車が来るから白線の後ろに下がれ」と言っていると答えると、次にまた何と言っているのか、と聞くので「電車が参ります」と言っていると。今度は車内に入ると張り紙を指差して「これは何と書いてある」と聞く。「ドアに注意しろ」と書いてあると訳すと、ついに彼女は「こんな醜い街は有り得ない。言葉をこんな風に使うなんて信じられない」といって怒り始めた

松岡:菩薩にひっかかっているんです。菩薩は悟りを開かない。如来にならない仏様なんです。自分ではゴールに行けるのにゴールの前で立ち止まって他人を待っているんです。

競争やめたら学力世界一 福田誠治

競争やめたら学力世界一 福田誠治

1:学力は知識中心から思考力中心にシフト現代では知識や技術は速いスピードで変化しており、知識や技能は学校を卒業してからも、一生を通じて学ばなければならないものになっている。そこで、一生をかけて学ぶための「学習力」を社会に出る前につけさせることが学校教育の目的になる。フィンランドは、この変化をうまく乗り切った

2:テストも習熟度別クラスもない義務教育期間である16歳までは、他人と比較するためのテストがない。また、フィンランドは1985年に国を挙げて習熟度別編成授業も中止した。習熟度別編成は、できる子にさしてよい影響を与えず、できない子には何らプラスがないと判断した。しかし、これは難しい選択である。テストの点数や競争を学習動機を形成するための手段として活用できないことを意味するからである。

3:日本の学力はマスコミで騒がれるほど低くはないOECDが実施する「生徒の学習到達度調査」(=PISA)によると、読解力以外のすべての項目で日本は上位にある。しかも、人口一億人規模で上位にあるのは日本のみである。また「国際数学・理科教育動向調査」(=TIMSS2003)によると、とりたてて日本の学力低下は見られない。この点から、マスコミで日本の「低学力化」が進んでいることを批判した人たちの判断は間違っている。そういった人たちがよく理想とする実力主義と競争社会の国、アメリカやイギリスは、日本よりずっと低学力である。

4:ゲームとしてのテストの成績がよい日本では日本の学生が勉強を真の意味でしているのか、というと疑問もある。例えば「数学が楽しいか?」という問いに対して、国際平均の29%に対して、日本の学生は9%しかYesと答えていない。また、「希望の職業につくのに数学は必要か」という問いに対しては、国際平均の73%に対して、日本の学生は47%しかYesと答えていない。また積極性のスコアも低く、また家庭での勉強時間が短く、勉学意欲も低い。
これは逆に言えば、日本の子供たちの勉強効率が高いことを示唆している。これは日本の学校教育の成果であり、まずマスコミはこの快挙をほめたたえるべきである。もしここで日本の教育の良さを壊して、教育を競争主義の市場原理にゆだねるなら、アメリカ並みの低学力しか約束されないだろう

5:日本において学力の格差拡大が進んでいるPISAの読解力スコアが8位から14位に低下したことを受け、マスコミは「学力低下」と大々的に報道した。では、低下の構造はどうなっているのか?結果から言うと、日本においては注意以下のレベルの学力が大幅に落ち込むことで平均レベルが下がっている。例えば、レベル1未満という「極めて低学力」とされる層は、フィンランドや韓国では1%台なのに対して、日本では7.4%も存在する。平均以下=レベル2以下の層は、フィンランド/韓国では20%であるが、日本では40%台である。つまり、日本は上位レベルの厚みは変わりないものの、レベル1未満、またはレベル1という低学力層が多い国になりつつあるのである。一方で、フィンランドは逆に、上位レベルの厚みは変わらないものの、低レベル層を底上げすることで学力世界一を達成した。

6:習熟度別編成放棄の目的の一つは「経済格差による学力格差」発生の排除習熟度別編成によって生まれる低学力クラスが、主として低い社会・経済的背景をもつ男子生徒で構成されていた。習熟度別編成の廃止は、ある種の社会問題への対処であり「平等化」がもっとも大きな理由であった。

7:社会構成主義的な学習概念が、好成績の一因構成主義とは、知識には何らかの目的・価値観が前提になっていることを認める立場である。構成主義を教育学に適用すると、学習とは知識の需要ではなく、知識を探求し、再構成する主体的な活動ということになる。従って、日本の様に決まった教科書を頭から暗記する、という勉強法はとらない。何をテーマに、どのように学ぶかは教師と子供たちの具体的な共同作業で決められて行くということになる。歴史の学び方は年表を順々に覚えるというものではなく、自分で歴史を調べ重要事項を自分で判断し、自分で年表を作り上げて行くことになる。そんなことをしたら、子供たちの知識は穴だらけになるじゃないか?その通りである。だが、教科書も実は穴だらけなのである。

8:基礎能力は身につけさせるが後は自己責任読み書き計算の最低限は、何が何でも身につけさせるが、そこから先は学ぶのも学ばないのもあなた自身の責任、という考え方をとる。従って教室の中で勉強しようがしまいが、それに対して教師が目くじらをたてることはない。

9:ルールを適用するのではなく、何が適切かを考えさせる高校にもなると、授業中におしゃべりしているもの、漫画を描いているもの、ウォークマンを聴きながら演習をやるものまで出てくるが、この場合でも一方的に注意することはしない。なぜおしゃべりをするのか、なぜウォークマンを聴くのか、という説明をまず生徒に求め、その上で、その行動が今ここで行うことについて適切かどうか、という判断を生徒にゆだねる。少なくとも「なぜ注意されるのかわからない」という状況だけは絶対に避ける