Sunday, August 9, 2009

書籍用ネタの備忘録

週末はボリショイサーカスと逗子の海水浴で150%エネルギーを消費。

寸暇を惜しんで思考したネタの備忘録。

■定石破りが必要
二宮清純は、「勝者の思考」の中で、サッカーのフォワードで成功するにはルールを型破りする強烈な個性が必要と説いています。そのココロとして、敵のディフェンスは当たり前の攻撃には高度に訓練されているので型を破らなければ絶対に点は取れない、ということを指摘しています。言われてみれば当たり前のことです。これを経営学になぞらえれば、教科書で習ったことをやっても予選突破はできない、ということになります。

教科書を習っても勝てないなら教科書に意味はないのか?

恐らくそうではないでしょう。教科書を習わなくては勝負にすらならない。しかし、勝負に勝つには教科書をマスターして忘れる、ということが必要なのでしょう。

つまり、武道で言う「守破離」です。

またビジネスの世界では、

第一段階:知っていないことを、知らない
第二段階:知っていないことを、知っている
第三段階:知っていることを、知っている
第四段階:知っていることを、知らない

という訓でも語られることがあります。
(余談ですが、だからこそエースに対して、コツは何か、と問うインタビューは意味が無く、実際に彼らがビジネスを実行する現場に行ってつぶさに横から観察すること、つまり文化人類学で言う参与観察が有効なのでしょう)

要するに、教科書で語られていることは常識論として必要なのであって、それを知った上で何が出来るか、が勝負ということです。

先に書いた二宮清純さんは、それまでのフォーメーション練習や教科書を離れて実戦で成果を出すには想像力が必要だと説いています。

実に説得力がありますね。

これをあえて二つの要素に分解するとすると、それは

:インスピレーション
:イマジネーション

の二つになると思います。要するに「ひらめき」ですね。

想像力といってしまうと、それはほとんどイマジネーションと同義なんですがビジネスや、ましてやサッカーの現場で必要になる要件としてはどうしても時間軸の定義が必要なのではないかと思います。

縦軸に時間をとって、横軸に思考の深さを取る。瞬間的な時間で、極めて深い思考を極める、というのが、サッカーで求められる想像力でしょう。であるとすれば、それは英語で言うインスピレーションに近い物なのではないかと思います。

僕が大好きな歴史学者で一橋大学の学長を努められた阿部謹也先生は、著書「歴史家の自画像」の中で「思考というのは一瞬のことであって、その一瞬の密度が勝負。一時間考えた、というようなことを言う人が居るけど、そんなことは不可能」ということをおっしゃっていますが、これも同じこと、つまりインスピレーションとイマジネーションが、何か新しいことをやる、ということの本質なのだということを説いているのだと思います。

同様のことを将棋の羽生さんも仰っていますね。定石で勝てる時代ではない。情報量で勝てる時代ではない。では何が勝負の鍵なのか?そこからいかに外れるか、ということです。


■分析より統合
コンサルティングファームに居て実にやばいな、と思うのは「分析」ばっかりやっているということです。分析というのは、読んで字のごとく「分けて」「折る」、つまり一塊のものをいくつかのピースに分解して、それを検証してみるという作業です。昔からみんなやってきたことなんですが、改めて文字でまとめたのはデカルトで、その著書「方法序説」の中で、「もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうる」という、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めています。
  1. 明証的にであると認めたもの以外、決して受け入れない。(明証)
  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析
  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合
  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)

しかし、最近はこんなことやって本当に意味があるのか、と思うことが多いのです。

例えばわかりやすい例で言って、ある産業が分析から産まれたとは考えられない、ということです。自動車産業は鉄道や馬車の分析から演繹的に導かれるわけがない。音楽産業が、消費者の嗜好の分析から出て来るわけがない。マイケル・ジャクソンが、ブラックミュージックの問題分析から出てくるわけがない。

分析というのは、基本的に「いまあるルールで戦っていて、それをBetterに戦う術」を考えるヒントを与えてくれるだけで、違うゲームを作るヒントについては、ごくごく断片的な情報を与えてくれるだけです(全く役に立たない、とも思わないのです)。

ここまでは実は殆どの人が皮膚感覚でわかっていることです。いくら分析なんてしたって新しいビジネスなんて生まれねーよ、と。

では、なぜ分析は未来を「クリエート」するための武器にならないのか?

それは、分析という行為の本質を考えてみれば自ずと見えて来るのではないかと思います。

分析の本質?

と理系の方は思うかも知れません。僕はごりごりの文系で大学院まで美術をやっていたという人間ですが、極北の彼岸から分析の大陸を眺めてみてその文化のエッセンスは、「分析=比較」であると、考えています。

つまり「比べるというのが分析の本質だと言うことです。

例えば、背が伸びたね、というのは分析の一種ですが、これは自分×現在⇔自分×過去の比較です。これを、なぜ自分は背が低いのか、という分析で考えると、まずファクトとして自分×現在⇔他人×現在の比較があって、例えば自分の食べ物×過去⇔他人の食べ物×過去や自分の両親の身長×現在⇔他人の両親の身長×現在、という項目で比較して行くことになります。

ここで重要になって来るのが、分析の本質が比較である、とすると、未来は常に比較できない、ということがあります。なぜならビジネスにおいては競争のルールが常に変わっていくからです。

恐らく、分析が最も強力なツールとして機能していたのは競争のルールがほぼ出来上がった70年代〜80年代前半の時代だったのではないでしょうか。経営学の名著と言われる著作が多く出版されたのも同時代のことです。ところが、エネルギー危機やインターネットといった要因のせいで競争のルールがいまたくさんリセットされています。そういった時代に分析で未来を読もうという浅はかさ。


■自分が事業をやっている市場の普遍性をちゃんと認識する
昨今、GMの経営危機にまつわるニュースが毎日新聞をにぎわせていますが、そもそもGMって何でこんなにヤバい状態に陥ってしまったのでしょうか。

考えてみたことありますか??

いろいろな要因が考えられると思うのですが、ふと思ったのは、GMのクルマが、アメリカ以外の地域では全く売れていないという事実です。アメリカは単一国家としては世界最高のGDPを誇る国なので、国内で成功すれば、ほぼ世界最大規模の会社になるわけですが、ちょっと引いて見ると国外で成功している会社というのは、実はあんまりない。

この点は、実は余り経営学のコンテキストで語られることが無いので、声を大にして言いたい。

まず、米国は日本の二倍の人口があって、欧州の主要国に比しても3〜4倍の人口がある。だから、国を閉じてビジネスをやっても、日本や欧州の国より、企業が大きくなるのは、まず当たり前だということです。ここを、よく考えてみる必要がある。そして、経営学のメソドロジーの多くは米国発である。経営学のメソドロジーが米国発であることの一つの理由は、米国企業がグローバルに最も成功している、ということが最もドライバーとして働いていると思いますが、考えてみれば、普通にビジネスをやれば米国企業が売上高や営業利益率/額といった指標で、さらに言えばそれ故に株主企業価値という指標に置いても、グローバルにもっともエクセレントな数値になるのは、あったりまえだのクラッカーというくら自明のことなんです

アメリカという国は、自国民の体位を勘案して、他国に対して有利になる様にバスケットボールやバレーボール、アメリカン・フットボールというスポーツを「新しくわざわざゼロから作る」国です。わざわざゼロから作って、他国と比べて、「見てご覧、君たちは、ちょっと僕たちにはかなわないみたいだね」とわざわざ指摘するそういう指摘をするために、わざわざ新しいスポーツを作るということをやる、そういうことをする国なんですね。

まず、ここをしっかりと認識しておく必要があります。

では、そういう「新しい競技とルールを勝手に作って自分で比べて、勝った!と騒いでいる人」たちが、実際にビジネスで何を成し遂げてきたのかを、振り返ってみたいと思います。

縦軸に、主婦向け、ビジネスマン向け、若者向け、というターゲットを、横軸に金融、実用品、嗜好品というプロダクトを取ったマトリックスを考えてみると、アメリカが世界に向けて影響力を持ち得たのは、ほとんど若者向け×嗜好品のプロダクト、つまりマイケル・ジャクソンやハリウッドやコカ・コーラやマルボロやアンディ・ウォーホルといったプロダクトと、ビジネスマン向けの金融商品であって、他のマトリックスではせいぜい善戦、よくてトントン、多くが惨敗であることがわかります。等に主婦向けの実用品では殆どの会社がつぶれてしまいました。

つまり、何が言いたいのかというと、アメリカという国は非常にエキセントリックで変わっている、ということなんです。米国で支持された実用品は殆どグローバルな競争力を持つことなく、輸入の解禁によって市場から抹殺されてしまいました。

僕は、中学校時代に毎年の夏休みをシアトルで過ごしていたのですが、その当時家庭に置かれていた冷蔵庫や掃除機といった電化製品の性能の悪さに、家族が辟易していたのをよく覚えています。

1970年代、GMが内需の拡大によって世界一の売上高を誇る自動車会社への階段を駆け上っているときに、彼らはラジオコントロールによる全自動自動車のコンセプトを発表し、全米の度肝を抜きます。でも、これは対外的には全く受けないコンセプトだった。なぜかというと、欧州や、当時モータリゼーションの萌芽の時期にあった日本では、自動車の運転というのは「レクリーション=気晴らし」であって「オキュペーション=労務」ではなかったからです。GMという会社を経営することの難しさは、自動車の運転を、単に面倒くさいこと、と認識するアメリカ合衆国の特殊な顧客に対して、あまりに最適化しすぎたから、ということも言えるのではないでしょうか。

つまり、GMは、合衆国国民という顧客が、どれだけグローバルに普遍性を持ちうるのかという点について見誤った。もっと言えば、合衆国国民という顧客の、田舎者度合いを、経営の関数として余りに無視しすぎた、ということなのだと思います。

一方で、若者向け×嗜好品というマトリックスにおいては、米国がここまでのコスモポリタニズムを獲得したのは、一考に値することだと思います。

あ、そろそろさすがに本読みたいので今日はここまでで。



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