幸せの尺度

豊かさ、についてメモ

:クルマを運転していると、乗っている自動車の格に応じたヒエラルキーが薄雲の様に路上に漂っていることを感じますね。入りたくないのに序列に入れられてしまって、その序列に従って自分の価値まで値踏みされているような不愉快感があります

:自分はそういう尺度で戦うつもりは全くないのに、人から尺度を押し付けられた上に「ほら、君は僕にこんなに負けているね」と言われるのは実に不愉快ですよね・・・・アメリカが世界に向けてやっているのはそういうことですが、それはともかくとして

:豊かさを感じるのは、文字通り感性の問題であって、持っているクルマや着ている服や住んでいる場所を「他人と比較することで」しか豊かさを感じられないとしたら、それは社会的に共有された尺度を感性に優先させていることになります

:こういう尺度に基づいて計画され、達成された「豊かさ」は幻想でしかなく、実際には「豊か」でないので、達成された後で「アレ、ゼンゼン豊かになっていない気がする」という状態が発生します。あ、でもそのころにはそれを感じる感性すら鈍麻してしまっている可能性もありますが・・・

:そう考えていくと、豊かさ、を社会的に達成してくためには、序列に従って豊かさを判断して行く、というパラダイムから皆で脱却することが非常に重要になります

:矢沢永吉がむかし、ビッグになったら幸せになるって思っていたのに、カネはあるけどゼンゼン幸せになっていないことに気づいた、と言っていましたが、これはさすがに業界をサバイブしたロックンローラーのコメントですね・・・・つまり、ビッグになる=豊かさ、という尺度を持って邁進しながら、感性はぜんぜん鈍麻していなかったということでしょう

:一方で、可哀想なのがグッドウィル・グループの総帥だった折口さんとか音楽家の小室哲哉さんでしょう。お金が手に入ると幸せになる、という尺度から抜けきれず、お金がいくら手に入っても満たされない思いを、さらにお金で解決しようとして散財の瑓獄にはまって行ってしまいました

:ということで、この瑓獄を抜けるには、人と同じ尺度で自分の豊かさを判断しない、つまり絶対的な個人としての豊かさの尺度を持つ、ということと、人の尺度に振り回されない、ということが大事になってきます

:日本人は特に欧米の人に比べて絶対化が不得意な様に思えます。その証拠に日本に置ける中古車価格の安さがあります。米国で暮らしたことがある人はかの地での中古車価格の高さにびっくりされたことがあるでしょう。考えてみれば、中古だろうが新車だろうが、与えてくれる実用的な便益には大きな差がないのですから、価格差がそれほどにならないことは道理にかなっています。日本で中古車がこれほどのスピードで安くなるのは「新しいクルマ」が、実用上の便益とは別の何かをもたらしてくれている、と考えるべきです。そしてその便益とは、尺度において隣のクルマより上に行くことの快感、つまり「優越感」だと僕は思っています。昔、「となりのクルマが小さく見えまーす」という広告コピーがありましたが、これは非常に日本的な感性に基づいた、ある意味よく出来たコピーだと思います。殆どの欧米人にそんなこと言っても「は?だから??」という反応でしょう。

:現代の人の生活は、江戸時代のどの大名よりも安全で健康的だと思いますが、殆どの人は幸せを実感できない・・・それは、どの時代にも存在する様々な尺度での「ばらつき」の中に自分を相対化して見てしまうからでしょう


豊かな商品から豊かな生活へ


Esquire7月号の杉本貴志のコメントを読んで。

この号、各界の人が「未来に残したいもの」というテーマでコメントしたり記事を書いたりしていて面白いのでおすすめです。

■デザインはこのままでは未来は無い
:デザインは方向性を見失って漂っている状態
:これまでのパラダイムを棄てないと未来はないんじゃないか
:どうすれば安く作れるか、という競争には思想を全く感じない
:一方で高価で品質もいいけど40畳のリビングじゃないと合わない、というのも身の丈に会っていない
:人間の夢と実生活にギャップがあって、それをデザインがうめられていない

■合理性とかかっこいいとか、そういう評価を棄てることが必要
:どう変わるか?かっこいいことを標榜しないことが一つ
:キーワードは辺境
:合理性も、デザインに必要かと言われれば、あまり必要でないと思う

■豊かな商品ではなく、豊かな生活を提案するのがデザインの仕事
:高級マンションとか外車とかブランド品とかに投資しないと「豊かさ」の実感が維持できない社会になっているが、これはヤバい
:違う投資先を探していて、とりあえず茶道を始めたのだが、なんとなくシックリ来ない
:アートかな、とも思ったけど、これも疑問
:観光農業みたいなものに、以外に可能性があるのではないか

■自分だけでなく社会全体の豊かさを考えることが必要
:社会が豊かな生活と自分が豊かな生活との均衡点を提案していくのがデザインの仕事

■そのためには、家庭における価値観の転換が必要
:豊かな社会、豊かな生活の実現のためには価値観を壊すことが必要
:しかし価値観は壊すだけでは怖い・・・新しい価値観の提案が必要
:その提案と醸成は教育では無理
:鍵になるのは家庭でしょう


■デザインは常にアンチデザインを内包する

無限に続く薄い灰色

 
鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い灰色が無限に続く。…私は灰色が好きだ

バッハが最晩年に、時代の流行すべてに背を向けて書いた「フーガの技法」についてグールドが述べた言葉である。

「懐かしい」の構造

美しいとか、気持ちいいとか、楽しいとか、美味しいとか、そういう形容詞がビジネスとして一大産業を形成しているのと同じ様に、

懐かしい

という価値観も、ビジネスになるんじゃないかと最近考えています。

例えば、金曜ロードショウのテーマ音楽だった「Friday Fantasy」を、Amazonで購入しようとすると、この曲がいかに「懐かしい」か、に関する膨大な書き込みを見られます。

最近は、あしたのジョーのオリジナルが再連載されたり、ポパイが擬似的に復刊されたりと、リバイバルがブームになっていますよね。

実に安易な傾向だと思います。

タツノコプロのウェブサイトを見ると、彼らが日本アニメの黎明期から格闘しつつ作り上げたオリジナル作品がたくさん見られます。

ハクション大魔王
いなかっぺ大将
タイムボカン
新造人間キャシャーン
科学忍者隊ガッチャマン
つまり

着道楽






一ヶ月前にオーダーしたスーツが上がってきました。

僕は派手好みではないと思いますが、いい生地で洋服を作るのは大好きです。
スーツにかぎらず、シャツでもスェーターでも、クラシックでいい素材の物を買って長く着るのが好きで、流行物には余り手を出しません。

従って僕のクローゼットには、ここ10〜20年くらい着ているものがずら〜っと並んでいます。
一番古いスーツは26歳のときに仕立てたものなので、かれこれ13年着ていますが、未だに古さを感じさせないし、羽織ったときの「パリッ!」と音のしそうな感じも全く変わりません。

写真のスーツ、生地はErmenegildo ZegnaのHelitageです。Zegnaの店頭で吊るしを購入すると20万円前後でしょうか。馴染みのテーラーでかなり安く作ってくれました。モヘアが若干入っていてシャリ感があり、これからの季節に重宝しそうです。

僕は痩せ形なので通常より肩幅を狭めに、逆にベントはフレアする様に仕立てていますが、最近流行の、お兄ちゃんたちが来ている様なピチピチのものとは縁遠い、いわゆるクラシコのフォルムが基本です。

クラシコ、ということでパンツも勿論タックを二つ入れていますが、少しテーパードさせて足は細めに見える様にしています。

馴染みのテーラーにずっと御願いしていることの良さは、年月を経ながら徐々に自分の完全な好みに合わせて行く様に出来る点でしょう。女性服はバリエーションが多すぎてちょっと難しいと思いますが、男性の「正式な」スーツのフォルムは基本的に永遠不変なので、一旦フォーマットを作った上で、着丈をちょっと短くするとかラペルを太くするとか、パンツをテーパードさせる、といった微妙な変更を日々試行錯誤できるという点でしょうか。

実に楽しいもんです。

会社休んでサイクリング




天気がよかったので会社を休んでサイクリング

多摩川沿いに出て二子玉川から国立方面へ

毎度のことながら、二度目に行く場所は最初のときの半分くらいの労力で行ける感じですね。

走行距離としては40kmくらいでしょうか

平日の玉サイは、殆ど人通りがなくて実にさわやかでした

写真は愛機、De RosaのNeo Primatoと、午後の日を反射する玉川

CM効果に関する調査

記事のクリッピング。

印象に残っていない、ということをCM効果としてどう考えるかはそう簡単な問題じゃないのかも。

いまの消費者の購買行動を考えてみたときに、中期的に印象に残るCMでもって購買へ誘引する、という考え方よりも、消費行動が起こるその場だけで効果を発揮する様な短期的なものの方が効率がいいということも考えられるかも知れない。

インターネットが出てきたことで記憶がどんどん外部化されるようになり、知性のあり方が昔日の「博覧強記」から創造性やコンセプト構築力に移っていくのと同じ様に、人間の消費行動も、記憶に司られるものではなくなりつつある。

そう考えると、記憶に残るCMがいいCMだ、という昔の評価の考え方自体が、もう時代遅れなのかも知れない。

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Yahoo!より抜粋

2008年4月から09年3月までの1年間に流されたテレビCM1万7765作品のうち、約6割が視聴者の印象にほとんど残っていないことが、民間調査会社「CM総合研究所」(東京・港区)の調査でわかった。

 調査は、関東地方に住む6〜89歳の男女計3000人に毎月、筆記式アンケートを実施。印象や好感を持ったCMを最大五つまで記入してもらった。

 その結果、CMを出した2019社中、777社のCM1万147作品は全く記載されなかった。その中には、一つの商品のCMに最大3億円以上を費やした企業が3社あったほか、年間に最大で905回流していた企業もあった。

 一方、最も優れたCM評価を得た企業は「白戸家シリーズ」のソフトバンク、「BOSS」などのサントリー、任天堂の順だった。

 同研究所の関根建男代表は「名のあるタレントやクリエイターを使えば意識に残るというわけではない。CMと販売には関連性があり、印象に残らないCMは企業に貢献せず、日本経済のロスですらある」としている。

電通 赤字決算に思うこと

楽観的な視点と、悲観的な視点をそれぞれ。

まず、楽観的な視点から。

107年ぶりの赤字、というちょっとアジテーティングな告知のされ方をしていますが、保有株の評価額の下落を得損げ計上したことによる最終赤字で、営業利益はガッツリ出している。 つまり本業ではちゃんと儲けが出ている。

評価損をどの程度、いつ計上するかは経営上の戦略的な判断なので、今の時期に吐き出してしまうほうが、景気要因に帰せられる分、IR的には処理しやすいはずということで、今やったのじゃないでしょうか、というのが一つ。

もう一つが、広告主企業の業績が悪化する中で、広告費の削減圧力、なかんずく、電通の食い扶持である広告コミッションに対する圧縮圧力ないしは透明化圧力が高まる中で、今この時期に赤字決算を公表することで、広告主に対しても「うちもタイヘンなんですよ~」という言い訳が立ちやすいため、営業現場的にはむしろ好材料の提供とも考えられます。

電通は、その高給ぶりと隠然と発揮できる権力から、世の中にはやっかむ人が多く、掲示板を見てみても「ざまあ」といったことが多く書かれていますが、まさにそう思ってもらうことが電通経営陣の狙い、ということも言えます。

そういう点を考慮すると、赤字決算だからって大騒ぎするほどのものじゃない、というのが楽観的視点。

で、赤字決算という事実そのものよりも、経営陣が発表した来期の見通しが、悲観的視点。

どういうことかというと、この赤字決算に対して、来期は「選挙と世界陸上があるので、好転材料はある」というステートメントなのですが、これって環境要因次第で経営成績がよくなるって言っているだけであって、この事態に対して経営として主体的に何かを行っていく、というステートメントが全く見られない。

これはちょっとどうかと思う。

拙著でさんざっぱら書いた通り、マスメディアの売上が中長期的に減少していくのは、マスメディアが獲得しているアテンションの数がそもそも減少する、つまり仕入れ在庫が減少するということなので、構造的な要因だ。

この構造的な要因に対して、何ら具体的な打ち手を対外的に出せていない、というのは、ちょっと心配になってしまう。

まあ、本当の奥の院では、そういった構造的な変化に対する打ち手も検討されているのでしょうが、とは言え、IR的な観点からも、来年の業績好転要因が「選挙と世界陸上」というのは、いかにもさびしいのではないか?

というのが悲観的視点。

極端に短いインターネットの歴史 浜野保樹 読了


■ヴァネバー・ブッシュがMEMEXコンセプトの生みの親
:ブッシュは、MITの工学部長から副学長に上り詰め、最終的には大統領科学顧問にまでなった人物
:1945年、権威ある科学誌「サイエンス」に論文を発表するのと同時に、アトランティック・マンスリーという雑誌に記事を掲載した
:この記事の中で、今後、コンピューターによりもたらされる情報の洪水に飲み込まれないために、思考を支援する機械が必要だと提唱し、それをMEMEXと名付けた

■当時の世界では、マイクロフィルムこそ知の基盤を紙から譲り受けるものだと思われていた
:1937年、MIT副学長だったブッシュは、ラピッド・セレクターという名前の、マイクロフィルムをベースにした新しい情報検索システムを図書館に導入しようとしていた
:当時の知識人や科学者は、本に変わる新しい情報の保存媒体として、マイクロフィルムの可能性を信じており、科学的知識の普及を促進し、社会を変えると発現するエヴァンジェリストが大勢現れた
:コンピューターでペーパーレスになる、という後の議論が、マイクロフィルムでも全く同様に行われたのである

■アメリカのコンピューター産業は、戦争が育てた
:科学技術で世界の先端を突っ走っているという自負を持っていた米国政府は、ソ連のスプートニク打ち上げにいたくショックを受けた
:スプートニク打ち上げの成功は、ソ連が、望めばいつでも核ミサイルの雨を米国に降らせることができることを意味した
:今日、ベッドで眠りに落ちると、もう二度と起きることがないかもしれない、という恐怖が全米を覆った
:水爆の開発には膨大な計算が必要になる・・・その計算にENIACが使われた
:IBM創業者の息子、トーマス・ワトソン・シニアはENIACの可能性を否定したが、ジョン・フォン・ノイマンは即座にその可能性を理解し、即座に開発中の水爆の予備的な計算に利用しようと提唱した
:それは3つの偏微分方程式を解く、というものだったが、データが打ち込まれた50万枚のパンチカードが入力され、ENIACは計算に6週間かけて答えを出した
:卓上計算機を使えば、数学者100人でまる一年かかる計算を、たった6週間で行った
:しかしENIACは非常に不安定で、雷雲が来ると調子がおかしくなる始末
:これを解消するためにプログラム内蔵型のコンピューターが開発され、それはMANIACと名付けられた
:このMANIACは、海軍主導のもとIBMで開発された
:MANIACのおかげで水爆の開発は順調に進み、ビキニ環礁で行われた実験では予想値を遥かに超えるエネルギーを放出し、危険地域に指定していたエリアをはるかに超え、危険地域外で漁をしていた日本のトロール船「第五福竜丸」に死の灰を浴びせた

■世界最高のシンクタンク、RANDは空軍によって産まれたが「死と破滅のアカデミー」と揶揄された
:第二次大戦が終わると軍で働いていた膨大な研究者が民間や大学に戻り始めた
:たとえ給料をよくしても、軍で働きたいという優秀な研究者は少ない
:そんななか陸軍航空隊(のちの空軍)のヘンリー・H・アーノルド大将は、国家の安全保障を専門に研究する民間機関としてRANDを設立した
:RANDは、シンクタンクの元祖と言われている
:空軍はRANDに、戦後の軍事戦略、なかんずく大陸間の核戦争についての戦略的な研究を行うことを期待した
:ダグラス社からも離れ、空軍の研究を継続して受けられることになったRANDには、大まかな研究委託が来るだけで細かい口出しはなし。それでいて費用は空軍持ちで研究は自由。ということで、研究者が殺到した
:RANDは、複雑になっていくシステムを数値に置き換えて把握して行くという第二次大戦時に開発されたオペレーション・リサーチの手法に基づいている
:中でもゲーム理論は、1948年からRANDに参画したジョン・フォン・ノイマンとともに、RANDが新しい戦略研究の手法として世界に普及させた物だった
:しかし、参加プレイヤーは常に合理的に利得を最大化させようとする、という前提に立つ ゲーム理論は、時に倫理的にひどい分析結果を導きだすことがあり、それをしかもRANDさも平然と世の中に発表した
:例えば、1966年に発表されたRANDの報告書には、核戦争後では、老人や精神障害者や慢性病患者に対しては何もしないで放置し、他の人間の生存させることに集中させるべき、といった提言を平気で行っていた
:反戦ムードが高まった時期には、RANDは、倫理観の無い冷徹な天才たちが死のゲームをして遊んでいる、とみなされ、マッド・サイエンティストの巣窟と思われるようになった
:そしてここから、インターネットは産まれてくる

■RANDが提唱した、冗長なネットワークがインターネットのコンセプトの萌芽
:1964年にRANDのポール・バランは「On Distributed Communications」という報告書で、核攻撃に耐えられる通信手段のコンセプトを提唱した
:核攻撃は強力なので、それに耐えるネットワークを作ろうと思うと何重にも防護手段をとらねばならず莫大な費用がかかる上、有事の際だけに使う、となると実際にそれを使う人間が緊急時に対応できるのかどうか心もとない
:そこで、攻撃にあっても死なないネットワーク、を提唱した
:信頼性の低い回線を使わざるを得ないので、アナログは駄目。波形を受け手で再現できるデジタルが必須となる
:そして、破壊されることで通信が不可能になる様な「中心となるノード」を持たない、分散型のネットワーク
:そして重要な点として、管理者がいないこと・・・なぜなら管理者が必要な通信ネットワークは、管理するところを破壊されることで利用できなくなるから
:しかし、このコンセプトはAT&Tの技術者からはまったく受け入れられなかった

■インターネットの登場は、60年代の空気を抜きにしては考えられない
:60年代は、若者が既存の知識や体制に反旗を翻した時代
:そんななか1964年に出版されたマーシャル・マクルーハンの「メディアの理解」は、アメリカの若者に熱狂的に迎えられた
:当時これを読んだ若者の中に、大学院生だったアラン・ケイや高校生のアル・ゴアがいる
:後に、インターネットに関わって中心的な役割を果たすことになる人物は、すべてマクルーハンの洗礼を受けた
:現に、現在のインターネット用語の多くは、マクルーハン独特の用語だった・・・例えばクール、モザイク、ウェブ・・・・
:マクルーハンは、現状を変えなくとも認識の仕方を変えることでまったく別の世界が現れることを説いた・・・そしてその認識の仕方を改めるツールがメディアだった
:インターネットは管理されず、規制を嫌う・・・つまり60年代的な産物だ。そしてマクルーハンの著作は60年代を彩るなくてはならぬ若者のバイブルになった

旅の本質

どんなに遠くに行っていても、予定調和していればそれは旅じゃない。

どんなに近くっても、行き当たりばったりに根ざす新しい発見があれば、それは旅なのかも。

確か阿部謹也先生がどこかに書いていたのですが、中世において旅に出る、というのはまあ今生の別れを意味する訳です。当時の旅、と言えば典型的なのは聖地巡礼ですね。

確か、こんな話だったと思うのですが、

ある居酒屋で、酒に酔った勢いで4人のそれなりに地位を築いた中年の男が、聖地巡礼に行く誓いを立ててしまった。誓いを立てた以上、行かない訳には行かない。4人の男は出発するけど途中で山賊に襲われて一人死に、ペストで一人死に、という具合で、結局3年後に帰ってきたのは一人だけで、しかももとと見分けがつかないくらいに憔悴しきっていた、

というような内容です。

映画だと、ベルトリッチの「シェルタリング・スカイ」は、行き先が確かカイロとか、アラブだったと思いますが、まあ本質的には似た様な内容ですよね。

日本には東海道中膝栗毛という傑作紀行文があって、これはずいぶんニュアンスが明るくなりますけど、でお行き先で何があるかわからない、という点では、本質的にこれも同じでしょう。

なんでこんなことを考えたかと言うと、昨日に自転車に乗って多摩川を上って行って、気の向くままに走っていたら訪れたことが無かった国立の街まで来てしまったのですが、自転車でほんの数時間の距離なのに、違う物語が紡がれている街に、何のプランも無く来てしまって、それが非常に新鮮に感じられたんですよね。

僕は自動車も好きですが、自動車だとどうしても知った道を頼って効率的に動く、という様に
なりますね。大学時代には、ひまにかまけて、気の向いた方向に走って行って、ということもやっていたのですが



ウェット&スロー



最近の世の中はドライ&ファストですね。

でも日本人って生来ウェット&スローなのじゃないかしら。

雨がずっと降り続いていて、気分も湿りがちですが、「湿る」を「潤う」に、裏返しに変換するとそれもまたいいのかな、と思ったりします。

雨上がりに庭に出たら、雨に濡れた花がとてもきれいだったので一枚。

フランスとイタリア




どちらもラテン系と言われるのに、全然違う。

歴史のことがよくわからないのだけど、二つともローマ市民の末裔なのかしら??

メリちゃま、今度教えてね。

で、でも違うな、と思って気づいたこと。

フランス人は、レース企画の天才だけど、そのレースの中で活躍するマシンを作るのゼンゼンできない。

ツール・ド・フランス、パリ=ダカール・ラリー、ル・マン24時間レース、そしてF1。

全部、フランスがオリジナルだけれども、そのレースの中で活躍しているマシーンにおいては、フランスのプレゼンスは低い。

ツール・ド・フランスは、ずっとイタリアンバイクの天下だった。

5連覇のインデュラインが乗っていたのはピナレロ。
サローニはコルナーゴを愛した。
伝説のチャンピオン、エディ・メルクスはデローザしか乗らなかった。
そして、忘れてならないのが近代のロードバイクのスタンダードを確立したチネリ。

みんなイタリアの工房で職人が手作りしてきたバイクだ。

F1も、まあルノーが多少がんばってはいるけど、やはり圧倒的なブランドは、イタリアのフェラーリと、日本のホンダで、これも旗色が悪い。

ル・マンでは近年、フランスのマシーンが入賞したことすら珍しい状況だ。

これってナンなんだろう。

コンセプトを作るのは上手だけど手を動かすのはヘタってことなのかしら。

でもイタリア人の作る文物って本当にすごくて、最近でも、フィアットが何でもない大衆車であるチンクェチェントをリニューアルして出してきたけど、これなんか脊髄が震えるほどカッコいい・・・今乗っているレクサスは細部のデザインがあまりに子供っぽくて、なんだか仮面ライダー自転車を高級素材で作りました、といった感が拭えず、彼我の差に愕然となる

どうでもいいけど、これMacBookで書いているのですけど、Macの辞書って終わってますね。
「彼我」を書こうとして、ヒガと打っても、いくら変換しても出てこない。ウィンドウズに搭載されている辞書も、どれだけひどいアタマの出来のやつが作ったんだろう、と思うけど、Macに至っては商品のレベルにまず達していないですね。多分、個人的にはこの辞書って僕より語彙がないと思う。まあいいや。

つまり、結論としては、イタリア人の作る自動車はかっこいい、ということです。たとえ、それがどんなに安い大衆車であったとしても。

写真は、一枚目が50年前のフィアットの大衆車、チンクェチェントのアバルトチューン、二枚目が、つい最近出たフィアットのnuovaチンクェチェントの、やはりアバルトチューン。どうしてこうも、かっこいいのでしょうか。

海の魅力



元上司が葉山に別邸を建てたとのことで訪問。

葉山の山の上に海に向かって迫り出す様に建てられた家。

山側からアプローチして、家の中に入り、通されたリビングの窓からの
景色が圧巻(一枚目の写真)。

屋上のテラスに出て、そこからの海の眺めも素晴らしかった(二枚目の写真)。

地元の魚を素材にした上司お手製のイタリアンづくし。

山の暖炉もすてきだけど、海のそばで暮らすのもいいなと思った休日でした。

どうなるのか?



火の魔力


祖母を訪ねて軽井沢を訪れる。

親類皆で、六本辻にあるシュミネ(暖炉料理)の店:ピレネーへうかがった。

テーブルの目の前にある暖炉で盛大に焼かれる羊を見つめていると、火の明滅にともなっていろいろな考えや思い出が浮かんでは消えていく感じがしてきます。

東京に暮らしていると、「炎」を見る機会が本当に少ないのですが、火って独特の魔力があるのだな、と改めて認識させてくれたディナーでした。


究極的に考えると VS 実際的に考えると

ビジネス週刊誌でよくある「年収ランキング」の特集を見てみると、トップテンのほとんどがマスコミ企業で、そこに食い込んでいるのが大手商社と、余り名を耳にしない専門系の金融企業ですね。

で、前から何となく思っていたのが、マスコミ、というかつまりそれは地上波テレビ局と電通なんですけど、つまり、地上波テレビって言う事業は利権なんで、それを押さえるとやっぱり美味しいんだなということと、それ以上に、利権企業でないのに、大手マスコミとほぼ同様の年収を支払っている大手商社の、商売のうまさっていうことなんですね。

で、ただ、さっき庭に出て月を見ながらウイスキーを飲んで考えていたら、思ったんですけど、結局世の中に利権じゃない仕事って有り得ないんですよね。

そういっちゃうと、身もふたもないんですけどね。

で、そういう考え方を演繹的に押し進めて、企業の利潤は最小化されて、労働者は限界まで搾取される、結果、東から太陽が昇る様に起こるのが共産主義革命だって言ったのがマルクスだけれども、これは結果的には起こっていなくて、相変わらず太陽は東から毎日昇っているのだけれども、共産主義革命は・・・というか革命の結果出来上がった社会は、実質的にはすべて失敗に終わりました。

まあマルクスは、革命が起こる、とだけ言っていて、その先の社会がどうなるこうなるというのは、まったく具体的なことは書いていないのですけど。

で、つまり月を見ながら気づいたのは、大きな利権を持っていない商社は、小さな利権の積み重ねで大きな利益を作っている訳で、つまりビジネスっていうのは、利権を作ることなんだな、ということなんですね。

で、利権を作れば、利益もコストも大きく出せる=つまり商社とかマスコミみたいに、大きな利益を出して、でサラリーマンに生涯年収で5億出せるということになるのですが(今ではどうか知りませんが、僕が電通に入社したとき、入社式で言われたのは、電通は諸君にこれから生涯かけて少なくとも5億の賃金を支払うので、君たちは少なくとも、その10倍のビジネスを、自分たちの手で作って欲しい、と言われました)、一方で、その利権はいずれ人の気づくところになり、価格競争になるというのが、マルクスとかマクロ経済学とかの説くところなんでけど、実際の現場のビジネスマンのあざとさって、多分マルクスとかマクロ経済学者の計算を超えたところにある、というか、もっとアタマいいんですよね。

だってマルクスって、基本的にエンゲルスにたかる以外に収入の道がなかった人で、要するに経済的にまったくセンスない人の書いた経済論なんですよね。なんか、そんなの読んで感動していた60年代の後半から70年代前半の学生のナイーブさに、失笑してしまいそうですけど。

資本主義社会で経済的に成功できなかった人が、資本主義の欠点をあげつらって、やがて資本主義が終わるであろうことを、資本主義社会で、経済的に成功している人の、経済的援助をスペアリブの骨をかじる様にして得ながら出来上がったのが、共産党宣言であり、資本論ですね。

そういう意味では、これらの本は、資本主義の鬼っ子でしょう。

結局、究極的に考える通りに、社会や事業の姿は、実際的に考えると、ならないんだな、というのが、今日、月を見ていて思ったことです。

こういう社会的な環境で未来を予測するには、表面の現象はとりあえず置いておいて、構造的な力学として、ものがどう動くか、ということを考えることがまず必要なのですが、何事も抽象化の度合いが過ぎると、有り得ない物を描いてしまう、ということなんでしょう。

早朝ライド





4時30分に何となく目覚めてしまい、そのまま寝るのももったいないので、自転車に乗ってきました。。

ずいぶん早い時間だな、と思いながら、昨年の夏から年末にかけては、プロジェクトになると一週間に2〜3回は4時に起きて5時から仕事していたことを思い出して、よくあんな生活長期にわたってやっていたな、と思ったりする。

ちょっと乗るつもりが、結局また川を下って羽田まで行ってしまいました。
飛行機の発着を見ようと思ったのですが、時間が早すぎて見られませんでした。

びっくりしたのが、5時過ぎになると、殆ど午後と変わらないくらいの人通りがあること。ただ朝はお年寄りばっかりですけどね。ヨタヨタと亡霊みたいにサイクリングロード上を彷徨う様を見えて、何と言うか、老いるっていうのは残酷だなと、しみじみ思った。

途中で花を摘んで7時30分に帰宅して朝食。