冬の魅力


先日出たStingの新しいアルバム、If on a winter's nightのライナーノーツより抜粋

”今日はとりわけ寒い日となったが、私が子供のころに過ごした冬は現在とは比較にならないほど長く、寒さも厳しかったように思う。二十一世紀の冬は、訪れたかと思うとすぐに去って行く。
何か、大事なものが失われようとしているようだ。たしかに、冬の寒さはしばしば問題も引き起こす。外で働かなければならない人にとっては辛いものだろう。にもかかわらず、冬には根源的で神秘的な、なにものにも代え難い魅力がある。厳しさの反面、深い美しさがある”

〜Sting〜

ビジュアル・プレゼンテーションの技術







来年の4月から、表記の題名で雑誌「Think!」に連載を持つことになりました(仮題ですが)。

ビジュアル・プレゼンテーションは、戦略コンサルティングにおける基本技能の一つですが、一方で、他産業から転職してきた人が最初につまづいて苦労するポイントの一つでもあります。端的に言って、戦略コンサルタントのスライド作成の技法は、際立ってユニークなんです。

仲間内でよく話すことなのですが、顧客から過去のレポートやプロジェクト計画書をもらうと、それが社内で作ったものなのか、戦略コンサルタントが作ったものなのかは、一瞬で分かります。それぐらい際立って違うのですね。ファームごとの作法の違いがありつつ、見れば一瞬で「どこのファームかはともかく、戦略コンサルタントが作ったのは確か」ということがわかる、というところが非常に面白いところです。

パワーポイントのテンプレートとかプレゼンの技術、ということに関しては世の中に膨大な書籍があるのですが、パッケージをいかにエレガントに作るか、という美意識にまつわる内容については殆ど日本には文献がないみたいですね。今回の連載では、その点、つまりいかに見やすく美しいスライド/パッケージを作るか、という点について書ければ面白いかな、と思っています。

念頭にあるのはEdward Tufteです。この人、アメリカでは非常に有名な人なのですが、なぜか日本では殆ど知られていません。書籍も数多く出していて僕は大好きなのですが、不思議なことに邦訳もされていないようですね。

写真は、そのTufteの最近の書籍である「Beautiful Evidence」の中から、美しいなと思うページをいくつか抜粋したものです。この本は、ある主張を裏付けるための数値なりロジックなりを、いかに美しくエレガントに見せるか、という問題意識に基づいて古今東西からTufte自身が「これは!」と思った様々なマテリアルを集めてきた、という非常に特異な本です。どうですか?実に美しいでしょう?

僕が仕事でレポートをまとめるときは、戦略やストーリーそのものがロジックに基づいてエレガントにまとめられていることはもちろんのこと、見た目が芸術作品と言えるレベルまで美しく結晶化されるように心がけています。最近は、実際のレポート作成はスタッフがやることが多くなってしまって、自分で手を動かす機会が少なくなってしまったのですが、今でも自分で全部のパッケージを作らなければならない、というシチュエーションになると血湧き肉踊る感覚があります。

実は、美しいパッケージやスライドを作るという点に関しては、ビジネス関連の書籍やレポートというのは、あまり学びがありません。恐らくちまたにあふれているパワーポイント本の殆どもそうでしょう。こけおどし的な表現のコツとか、見栄えだけいいけど中身はさっぱりになりがちなテンプレートをいかに多く仕入れても、「人を動かし、企業を動かし、社会を動かす」パッケージは作れないのではないでしょうか?

この点に関して言えば、現実に世界を動かしてきたビジュアル・アウトプットの方が、圧倒的に学びが大きいと思います。それは端的に言えば芸術と科学なんです。このブログのタイトルってことですね。陳腐なテンプレートを学ぶくらいならドラクロワの絵画をじっくりと一日かけて観る方が、または経済学や自然科学のレポートを読み込む方が、ずっと得るものが大きいと思います。レオナルドの素描集なんてヒント満載です。

次の連載では、そういったマテリアルも適宜引用しながら、エレガントなレポートを作る、という点についていくつかのポイントやノウハウを読者の方に開陳できれば面白いかな、と思っています。

ちなみに、表紙と一緒に移っているCDはグールドの平均律です。別に意味はなくって、大きさの目安になるかなと思っただけです。


本年の読書




一番上の写真は書斎のデスクの「積ん読」になっている本たちです。常にこの状況で、新しい本が入るのと読み終わった本が出て行くので三ヶ月くらいで入れ替わっている感じでしょうか?読み終わった本は、保存書籍は大きな本棚へ入りますが、保存に値しない本は会社のライブラリに寄付するか、ブックオフ行きになります。

最近なんとなく読書量が減ったかな、と思い、アマゾンのアカウントを過去に遡って調べてみたらびっくりしたことに、ここ2年くらいの読書量が過去10年で一番多いことが分かりました。
4〜5年前まではだいたい年間で80〜100冊くらいの購入量だったのが、今年は170冊購入していました。去年から格段に増えている感じですね。書店での購入量はまったく手がかりがないのですが、月に10冊は購入していると思うので、恐らく年間で300冊くらいの購入量になります。我ながら信じがたい量ですね。そんなにいつ読んでんだろ?

購入書籍の量が増えているのは、恐らく読み方が変わってきていることも要因として働いていると思います。年間で300冊というとほぼ一日に一冊は読了しているということになりますが、実際に一冊を通して読了しているのは二〜三割程度だと思います。また同程度の本をちらりとめくっただけで殆ど目を通すことなく手放してると思います。ということで残りは全体の四〜五割程度の本を、さーっと斜め読みして、学びが大きそうなところだけつまみ食いしている、ということになります。この、斜め読みしている本がどんどん増えてきていることが、読書量が、それほど本を読んでいる気がしないのに増えている理由だと思います。あとは、読むのがつらい本を時間をかけて読む、ということをしなくなったことも大きいかも。

斜め読みが増えた理由は、非常に単純で知識量が増えたからです。本のページをザッと眺めて、自分にとって既知のことが出てくると「あ、これは知ってる、わかってる」ということでページをどんどん飛ばして行く読み方をしています。結果、別に速読しているというわけでもないのですが、特に経営学関連の本だと200ページくらいの本でも一時間かけずに読み切ってしまうような感じになります。あまり意識したことはなかったのですが、最近の流行言葉で言えばレバレッジが効いてきた、ということになるのでしょうかね・・・・

二枚目の写真は、特に年末年始に読もうと思っている集団です。こうして見ると経営関連の書籍が少ないのに我ながら不安になりますが・・・多いのは相変わらず大好きな中世ヨーロッパの歴史学の本ですね。阿部謹也先生の全集をほぼ読了してしまったので、最近は海外の歴史学者のものを購入しています。今朝から読み始めましたがやはり非常にいいです。本屋で購入したのですが小口にほこりがつもっていました。誰も買わない本なので長いことたなざらしになっていたのでしょう。あとは美術史、環境、スーザン・ソンタグ、経済学ですね。この辺りのテーマはここ2年程ずっと読んでいます。

J.M.Westonのブリーフケース







こちらは2000年購入のJ.M.Westonのブリーフケースです。

素材は、かなり厚めのピッグスキンを用いているので非常にしっかりしています。似たようなデザインのものがエルメスにもありますが、あちらはカーフを用いているため、年月を経るとクタッとした風情になり、またそれがいいという人も多いのですが、個人的にはこちらの方が好きです。特に手に提げたときの印象がかなり異なり、こちらはカチっとしたフィーリングに見えます。購入してから丁度10年程になりますが、靴と同様やはり殆ど痛みがなく、ほぼ新品同様の状態を維持しています。

価格は30万円ちょっとだったと思います。

J.M.Westonは未だにブリーフケースを作っていますが、この形のものはなくなってしまいました。靴屋が作るブリーフケースということで若干メンテナンスに心配もあり、店の方に「これ、痛んだり壊れたりしたときは修理はしていただけるんですか?」と伺ったところ、自信たっぷりに「壊れるまで使えたら大したものです。お客様の寿命とどっちが長いか、といったところですね。どうぞ壊れるまで使ってあげてください」と言われたのをよく覚えています。

10年使ってほとんど痛みがないことを考えれば、あながちジョークとも言えないですね。何よりすごいのがハンドルの部分で、パソコン等のかなり重い荷物を入れたりすることもあるのですが、ハンドルを止めている革の部分にまったくゆるみが出ません。一体どういう風に作るとこんなに丈夫になるんでしょうか。

大事なプレゼンや大手企業のトップとお会いするようなタイミングで使っています。

迫害を予告する

わたしはあなたがたを遣わす。

それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。

だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。


マタイによる福音書

J.M.Weston



いいものを買って長く使う、というのが好きです。

僕にそう思わせてくれたいくつかの「いいもの」の一つが、J.W.Westonの靴です。

既に10年以上、大したメンテナンスもせずに履いていますが、新品と同様、いや、はき心地は新品以上の状態になっています。姿形も、新品のこなれていない状態に比べて、適度にやれた感じがむしろ好ましいと思います。

さすがにつま先とかかとが痛んできたので3年程前に一度ソールを張り替えましたが、あと10年くらいは余裕で使えそうです。お店に行くと「あと10年と言わず、きちんとメンテナンスすれば一生履けますよ」とのこと。ということで、最近は以前に比べて少し気を使っています。

価格はウィングチップが当時11万円、キャップトウが9万円程度だったと思います。せいぜい3万円程度の靴しか買ったことのなかった僕にはとんでもない価格に思えたものですが、今から考えてみると本当に安い買い物だったと思います。

ARBOL

先週の金曜日の話ですが、久しぶりにドンズバに好みにあうレストランに連れてってもらって実にご機嫌でした。

神楽坂のARBOL。

まずアプローチがすごい。

どう考えても初めて訪れた人には発見できないような細い道(というか建物と建物の間のすきまにしか見えない)に入っていくと、どう考えてもただの家、としか思えないような家の表札に「ARBOL」とあります。

ほんとにここ?間違えてんじゃないの?と思いながら、知らない人の家に入る様な違和感を感じながらドアを開けると・・・・どうもここらしい。

靴を脱いでスリッパに履き替え、中に通されると30畳のリビングの真ん中がガラス張りのオープンキッチンになっていて、その周りをカウンターが囲っている、というレイアウトなのですが、何がいいかというと・・・・雰囲気が実に素晴らしい。

おととしの年末、パリのレストラン「L'Escargo」で感じたのと同じフィーリングなのですが、食事を楽しんでいるお客さんの一人ひとりから「楽しいうれしいオーラ」が放たれていて、そのオーラをまたサーブする人、料理する人が反射して輻射熱のように店内を暖めているのです。ここには人生の華が咲いているな、と思いました。こういう場所に来ると人は優しくなりますね。幸せのオーラが反射しあっている感じです。

メニューを見ると、品揃えも豊富だし、ことごとく好みの料理にヒット。モーツァルトなら「胃袋が三つあればいいのに!」と言いそうなシーンですが、ぐっとこらえて前菜に4品をオーダー。腹具合を見てメインを決めることにしたのですが、結果的にはこれでおなかいっぱいになってしまって、そのままデザートと相成りました。

何を食べたんだっけな・・カルパッチョとボルチーニのフリットは覚えているけど・・・あと二品食べました。酔っ払っちゃってなに食べたか覚えていません。

ワインもリーズナブルな品揃えでこの日は2003年のキャンティ・クラシコを頂きました。美味しかったな。

目の前でダイナミックに料理される様を眺めながら食べる料理は本当に楽しかったな~

これだけ楽しませてもらって二人で1.7万円ほど。珍しく、帰り際に次の予約を入れてきました。

なかなか予約が取れないのですが、ご興味のある方には是非、お勧めします。

全てはファッションビジネス化する?

成熟化しきっていて新しい収益チャンスなんてない、と思える様な事業でも後から考えると意外な儲け口はあるものです。

例えば着メロは数千億の市場を生み出しましたが、誰が「電話の着信音を売る」なんていう事業がそんなに大きな市場規模を生み出すと思ったか。

そもそも着メロがなんでそんなに大きな市場規模になったのか、ということを考えると、恐らくそれは「個性化」ということと不可分なんじゃないでしょうか?

携帯電話を持っているのがごく少数だった頃は、持っている、ということそれ自体が個性の主張になりました。そこらへんの人より、僕はちょっとカネあるよ、忙しいしね、とまあそういう主張ですね。

でもこれがみんなが持つ、というようになると携帯を持っている事自体は個性とは関係がなくなります。そうなってくると個性化するための別の付加的な要素が生まれるっていうことなんでしょう。携帯そのものを飾るのがそんなに流行らないのはなぜかって?恐らく、携帯を着飾ってもあんまり露出されないし、着飾ること自体が、個性をある方向に強制的に持って行ってしまう、という特性があるからじゃないでしょうか。音楽は、ものすごくプレゼントできる個性の幅が広いってことなんでしょう。

そう考えると、すべての消費は、ジャン・ボードリヤールが言った通り、個性を伝える、つまり差異を強調するための言語=記号として機能する時代になっているのかもしれません。これはつまり、全てのビジネスはファッション化している、ということを示唆しています。

もし、すべてのビジネスがファッション化していくのであれば、もしかしたらファッションビジネスのマネジメントシステムが、いいベンチマークになるかも知れません。つまり、クリエイティブ・ディレクターが居て、その人が、プロダクトにどのような個性を表象させるかをすべてデザインし、決定する、という仕組みです。

例えば、昨今の携帯電話は、デザインのヒドさを機能を付加することでごまかそうとしていますが、クリエイティブ・ディレクターにすべてを決めさせる様にすれば、多少はよくなるのではないでしょうか。

今日3つ思ったこと


今日思ったことABC

A:携帯は死にたがっているのかしら
電車の中で見た携帯の公告。防水なのでお風呂の中でワンセグ放送を見られることを訴えていました。最近見た別の広告は1550万画素のカメラを内蔵していることを訴えていました。商品を作っている人にも、広告を作っている人にも大変申し訳ない言い方なのですが、本当にそんなものが世の中でアピーリングだと思ってるのでしょうか?

端的にいって、こんな商品はあってもなくても、どうでもいい気がします。

バカ売れしているアップルのiPhoneは、お風呂の中で使えるわけでも、1500万画素のCMOSも持っていません。なんか、こういう機種を作っているメーカーって根本的に思い違いしているんじゃないでしょうかね。賭けてもいいですけど、こういった風呂で見えるとか、1500万画素のカメラを搭載しているとかいう、どうでもいい機能の機種って、すぐに市場から消えるんじゃないでしょうか?

以前のブログにも書いた通り、今の携帯電話の問題はまず

1:プロダクトのデザインが終わっていること
この点についてはアップルどころか、SAMSUNGにも圧倒的な差をつけられていると思います。パソコンの生みの親であるアラン・ケイが、以前日本の博物館で印籠を見せられて「日本にはこんなにクールなモバイル機器があったのに、日本の携帯電話はなぜあんなにアグリーなんだ?」と言ったそうですが、実に共感しますね。

2:顧客体験のデザインが終わっていること
携帯でちょっとわからないことがあってショップを訪れると銀行や病院で見られるよな番号を発行する機械があって、時間が来ると「○○番の札をお持ちのお客様、○○のカウンターへ、お越し下さい」と機械的な声が響き渡りますね。こういう手順や仕組みを設計した人って、いったいブランドというものをどう捉えているんでしょうか?恐らく、体験の貧しさが発想を同じ様に貧しくしているのだと思う。リッツカールトンで、あの様な番号札発行機を見たことがあるだろうか?グランメゾンのフレンチを食べるときに、機械の声で案内されることがあるだろうか?コスト構造が違うんだからしょうがない?そうかも知れません。でもアップルのテックバーのような仕組みは十分に可能なはずです。

B:才能は開拓する
スティングの新しいアルバム、if on a winters nightを週末に固めて聴いたのですが実に素晴らしい。僕のスティング体験は多分Soul Cagesでほぼ止まっていて15年ぶりなのですが、完全に異次元のアーティストに移行していました。本当に才能のある人って、ファンを裏切る様に音楽的に違うステージにどんどん移行して行くものですが、スティングもそのたぐいの人なんだな、と認識した次第。エクリチュールは殆ど中世音楽で、弦楽器も出てきますが、チェロやバイオリンの様な近代楽器の奏法ではなく、ビブラートが少ないビオラ・ダ・ガンバの様な響きです。スティング自身は、クリスマスアルバムではなく、冬をテーマにしたアルバムだ、と言っている様ですが、暖炉が燃えている静謐なロッジの窓から雪に覆われた針葉樹の林を眺める様な感じが、確かにあります。それも北欧ではなくスコットランドね。スティングがリュートを弾いているのですが、ダウランドの例を引くまでもなく、リュートってスコッティッシュに響きますね〜素晴らしい。

中でも、15曲目が珠玉だなと思っていろいろと調べてみたところ、これはもともとはバッハの曲にスティングが歌詞をつけて謳ったものだということが判明。バッハをポップスに転用、というと有名なところではジャコ・パストリアスが半音階的幻想曲を発狂的なテクニックでエレクトリック・ベースで弾きこなしていますが、なるほど、バッハとスティングという掛け合わせになるとこうなるのか、と深く納得した次第。

C:・・・・忘れました

それではおやすみなさい!

フランコバッシのリネンチーフ


フランコバッシはイタリアのタイメーカーです。多くのタイメーカーと同様、フランコバッシもハンカチを作っていて、これはそのフランコバッシのハンカチになります。
いわゆるスーツの胸ポケットを飾るためのポケットチーフではなく、ポケットに入れて実用に供するためのハンカチです。大きさも、ポケットチーフがせいぜい20センチ角なのに対して、こちらは40センチ角になります。

朝出かける前に、このリネンのハンカチに、4711やPenhaligon、Santa Maria Novellaのコロンを2〜3滴垂らして出かけます。ちょっと気分転換したくなったりしたときにポケットから取り出して顔を埋めて深呼吸すると、素晴らしくリラックスできます。

一枚8,000円程度と、ハンカチとしてはかなり効果ですが、リネンは洗えば洗う程手触りもよくなり、また耐久性も綿よりもずっとある、ということで自分を誤摩化してます。

AKG K701


家のリビングにB&Wのスピーカーとダイナヴェクターのアンプがあります。これは大きさのわりに低音がしっかりと出て素晴らしいスピーカーなのですが、一人になって音楽を聴ける時間は深夜になりがちでなかなか本領を発揮する様な大音量で聴く機会がありません。

ということで、家ではもっぱらiPodの付属イヤフォンで聴いていたのですが、さすがに迫力不足は否めず、前々から本格的なヘッドフォンを探していたところ、複数の方からこれを薦められて購入に至りました。

AKGのK701というスタジオモニター用のヘッドフォンです。AKGはオーストリアの音響メーカーです。オーストリアと言えば音楽の都ウィーンを抱えるクラシックの総本山の国ですが、このメーカーの機器はクラシックもジャズもロックもオールマイティに鳴らしてくれます。

本来はこの程度の超高性能ヘッドフォンになるとiPodやMac Bookから直接聴くのではなく、アンプを間にかませた方がいいのですが、不調法な僕はiPodに直接つなげてウイスキーを飲みながら使っています。

実際に聴いた感じですが、何と言うか・・・少なくとも僕に取っては完全に未体験レベルの音響体験でした。大規模オーケストラでも、一つ一つの楽器の粒が立って非常に明瞭にハーモニーが聞こえてきます。色彩感覚的に言うと、今まで薄いヴェールを通して見ていた自然の風景を、初めて直接見る様な感覚です。これまで聴こえてこなかったたくさんの新しい楽器が聞こえてくることを発見しました。それくらい音の解像度が高いです。これは恐らく殆どの人にとって新しい音響体験なのではないでしょか。

価格は4万円程と、かなり高価なのですがクラシックやジャズ、フュージョン等の音楽が好きな人にとっては確実にペイオフする投資だと思います。今年買ったものの中でも最も投資対効果の高かった買い物と言えます。

グレンフェルのトレンチジャケット





ちょっと肌寒いくらいの気候のとき、ノータイのカジュアルなスタイルに合わせて上に羽織れるものが、前々から欲しいと思っていました。

いまのアウターはノラインナップは、

1:マッキントッシュのゴム引き
2:アクアスキュータムのトレンチ
3:モンクレーのダウン

があるのですが、

1:寒さをしのぐ効果がほとんどない
2:スーツ着用時は愛用しているのですが、ノータイにはちょっと固くなりすぎ
3:初冬にはちょっと大げさ過ぎる

ということで何かしっくり来ていなかったのですが、丁度いいのを見つけて衝動買いしました。

場所は青山骨董通りです。

グレンフェルのトレンチですが着丈が短く、細身。またインナーにタータンチェックを用いているので前からあるアクアスキュータムのトレンチ(こちらも紺色)とは、一見似ているものの、着た感じの印象はかなり異なります。

知らなかったのですが、グレンフェルは英国王室御用達なんですね。アクアスキュータムよりもずいぶん手頃な値段で13万円程でした。

南方熊楠とグローバリズム


グローバルグローバルグローバルグローバルと最近呪文の様にことあるごとに言われる。

時代はどんどんグローバル化しているから、と、どうもそういうことらしい。

さて、科学雑誌の世界最高峰といえば、Natureである。文系の小生にはよくわからないけど、理系の研究者になると誰もが論文掲載を夢見る(らしい)。

では、日本人でNatureへの最多論文掲載の記録保持者は誰か?

実は南方熊楠なのである。熊楠は19世紀の生まれなんですけどね・・・グローバル時代の今の学者さんはどしてるのかしらん?

http://ja.wikipedia.org/wiki/南方熊楠




チェ・ゲバラ


ゲバラは愛書家だった。

ジャングルのゲリラ戦の最中でも、ちょっとした休憩があると木陰でドン・キホーテを拡げて読んでいた、という話は以前から聞いていたが、彼が故国を離れコンゴに居る自分に送ってくれる様、妻に頼んだ書籍のリストを見て仰け反った。

ピンダロス「祝勝歌集」
アイスキュロス「悲劇」
ソフォクレス「ドラマと悲劇」
エウリピデス「ドラマと悲劇」
アリストファネスのコメディ全巻
ヘロドトス「歴史」の7冊の新しい本
クセノフォン「ギリシア史」
デモステネス「政治演説」
プラトン「対話編」
プラトン「国家」
アリストテレス「政治学」(これは特に)
プルタルコス「英雄伝」
セルバンテス「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
ラシーヌ「演劇」全巻
ダンテ「神曲」
アリオスト「狂えるオルランド」
ゲーテ「ファウスト」
シェイクスピアの全集
解析幾何学の演習(サンクチュアリ*のもの)

*ゲバラは自分の書斎をサンクチュアリと呼んでいた由

「世界で一番カッコいいオトコは、エルネスト・チェ・ゲバラだ」(ジョン・レノン)
世界で一番かどうかはともかく、やはり相当かっこいいと、僕も思うのでした

横軸と縦軸


初めてチェロのレッスンを受ける。

ピアノだと縦軸で指を揃えるけど、チェロは和音が出せないので、指を揃える必要は無い。
その代わり面白かったのが、次に来る音に備えて別の弦に指を置いておく、というルール。

なるほど、これはピアノとかなり違う。

耳で調弦してください、というのものけぞった。

専門家以外にはどうでもいいことだが、ピアノの調律は、実は完璧に行ったピアノでも実際には宿命的に完璧足り得ない。なぜなら平均律で調律するからだ。平均律とは2の12乗根の比率で周波数が隣り合う様に調律した調弦のことだ。曲の途中で転調してもその転調した先で音楽が奏でられることを目指して「人工的に」作られた調律法だ。一方で、もっとも自然に調和する調律は「純正律」といって、これは周波数の倍数、倍音をベースに設定される。純正律で調律されるとハーモニーは本当に美しいが、その調から転調することは出来ない。

ということで、先生は、「ピアノとかチューナーで調律しないでくださいね〜音が濁りますから」とおっさる。要するに耳で調弦してくれ、ということなのだ。

久々に、脳を揺さぶられている感じですね。





流動性が高いと回復も早い


日本は50年代に公害でさんざん苦しめられたが比較的早期に問題解決してしまった。
それは日本の公害の多くが「水」にまつわる問題だったからなのではないだろうか?

水は、土に比べてずっと早く循環する。熱力学の第二法則が早く働く、というかエントロピーが土に比べてずっと早く放出されてしまう。

北欧の国々は同時期に公害問題に着手しているけれどもいまだに湖沼の酸性化等の問題を解決できていない。

ここ2ヶ月程で公害関連の書籍を20冊ほど目を通したけれども、誰もそのことに言及していないのですが、理由は実に単純で

水の汚れはすぐに薄まるけれども、土の汚れは薄まらない

ということなのではないだろうか?

だとすれば、考えることが2つ。

1:中国には環境規制を与えなくてもいい
中国は酸性雨の垂れ流し国家になりつつあり、これをみんなで規制する方向になっているが、こと日本特有の損得で考えると、恐らくこれはそんなのではないか。将来において、日本の食料を世界で最も安全な食料という位置づけで輸出財にするという戦略を考えた場合、もっとも胃袋の大きい国(しかも近い)である中国で作られる植物が危険である、という状況にしてしまった方が、日本の国家戦略として有利である、ということ。スウェーデンは1910年代から土壌汚染になんとなく気づいていたが、未だに問題を解決できていない。ナウシカではないが、要するに土は一度汚れてしまうとどうしようもないということだ。土を汚す最大の要素は硫黄で、これは今の中国の工場がじゃんじゃん排出している物質だ。これは放っておいた方がいい。そうするといずれ中国では作物がゼンゼン取れない状態になる。こういうことを戦略的に考えないといかんですね。

2:労働力の流動性も高めた方がいい
実は、余知られていないけれども今年の米国の投資銀行のボーナス総額は史上最高額となった。この回復のスピードは単純に言えば流動性の高さによるものだ。水と同じで、流動性の高い資産の汚染はすぐに回復する。日本の企業の従業員や資産は土だ。一度汚れてしまっても終身雇用の期間分、汚染は続く。




サステナビリティと経営学 足立辰雄/所伸之

”世界でも最も早い時期から環境問題にとりくんできたのは、スカンジナビア三国を中心とする北欧諸国であった。北欧諸国が環境問題に特に熱心であったのは、1940年代以降、これらの国々における自然環境や建造物に対する酸性雨の被害が、先進工業国であるイギリスや大陸ヨーロッパを上回る勢いで拡大していったことにある。

北欧最大の工業国であるスウェーデンでは、40年代以降、森林が枯れたり湖沼や河川に生息する水生生物が大量死するなどの現象が顕著となってきたため、その原因究明に力が注がれてきた。その結果、これらの現象は大気汚染物質を原因とする酸性雨が、土壌や湖沼を酸性化することによってもたらされることが次第に明らかにされてきた。

しかしながら、時刻の経済活動で排出される二酸化硫黄や窒素酸化物の量で、なぜこれだけの酸性雨被害が発生するのかについては容易に解明できずにいた。

そこで土壌学者のスバンテ・オーデンなどが中心となり、酸性雨に含まれる汚染物質の調査をさらに進めて行った結果、67年までに、

1:スウェーデンやノルウェイに酸性雨被害を与えている二酸化硫黄の90%、二酸化窒素の約80%が、イギリス、ドイツ、ポーランドおよびフランスなどの工業地帯で排出されたものであること
2:これらの汚染物質は、偏西風などによって北欧諸国へ運ばれていること
3:60年代以降、大気汚染対策としてイギリスや西ドイツで実施された高煙突化政策が、北欧への越境大気汚染を一層加速させたこと

を明らかにした。

ノルウェイでは、1910年代からサケの大量死などが観察されたが当時は原因がわからずにいた。酸性雨の被害が顕著になってきたのはスウェーデンと同様1940年代に入ってからで、特に南部の湖沼では40年〜80年代にかけて半分以上の魚種が絶滅へ追い込まれた。

また、86年に国内105の湖沼を対象に実施された政府調査では、魚類が死滅してしまっている湖沼が52%にもなった。現在でも、水生生物が存在しない湖沼の合計面積は約1万3000㎢もあり、魚が減少傾向にある湖沼も含めるとその合計面積は優に3万㎢を超える。


世界で最初に産業革命を成し遂げた英国は、大気汚染と酸性雨に恒常的に苦しめられてきた。これは、工場でのエネルギー源として石炭が大量に使用されたことが原因である。

首都ロンドンのスモッグは年々発生日数を増加させて行き、しばしば多くの人命を奪った。1873年のスモッグでは約700名が亡くなり、1952年には数週間のうちに4000人の市民が気管支炎や心臓発作で命を落として史上最大のスモッグ事件として世界中に知られることになった。

この事件の後、政府は大気汚染調査委員会を設けるなど、その対策に力を入れ始めることになるが、このじてんではまだ排煙脱硫装置がなかったこともあり、実際に取られた対策は煙突を高くして工場近隣の二酸化硫黄の濃度を薄める、といった程度のものであった。

環境経営の事例:池内タオル

グリーンピースの活動の特徴:環境破壊の可視化と当事者責任の追及を、非暴力的な直接行動によって成し遂げる

広告を出したい番組

その証左として

大手広告主をインタビューして回ると、一番広告を出したい番組として

1:NHKスペシャル
2:世界遺産

といった様な番組が続くんですね。上質なコンテンツに、広告を出したいという。

こういうことを、戦略に織り込んで行く必要がありますよね。

今日の記事


今日の日経新聞に、イギリスはロンドンのサビルロウの売り上げが、今回の不況でも売り上げが下がらないどころか、むしろ伸びている、という記事を読みました。

前々から思っていたのだけど、自分のポジションを明確に意識してプレミアムニッチで行く、という意思決定をしたメーカーは、以外にスタビリティが高いのではないかと思っています。

これと同じことが、メディア企業にも言えるのではないか。

さっきのポストのつなぎですが、メディア企業は、ネット系で取り込む広告顧客×視聴者とは違うところにポジションするのが大事なのでしょうね。


コミュニケーションの類型



今日はほぼ満月。

月を見ながらぼーっと考えていたことの備忘録。

コミュニケーションの累計

人×ジャーナリスト×企業×政府の縦横のマトリックス。

企業×人の升目をさらに細分化すると

目線の高い企業×普通の目線の企業×低俗な事業をやろうとしてる企業

の横軸と

目線の高い消費者×普通の目線の消費者×低俗な目線の消費者

の縦軸で

整理できるとすると、

さっきアップしたGmailの広告は

低俗な事業をやろうとする企業


低俗な目線の消費者

にコミュニケートする広告だということがわかります。

結局、メディア企業というのは、この升目の組み合わせの中で、どの領域で生きて行くのか、というのをはっきりさせる段階にきているのだと思います。

マスメディアは、従来どの升目で生きていくか、というポジションをあまりとらなかったのですが、ここをはっきりさせる必要が、今後はあるでしょう。

もっと思いついたことがあるのですが、ちょっと書くより考えるスピードの方が早いのでまた今度書きます。追いつかない、考えるのに書くのが。書いていると消えてっちゃうので一度やめてメモにまとめてからまた書きます。


なぜ国家は衰亡するのか 中西輝政

■衰亡論が議論される社会は健全
:衰亡論が書かれたり、よく読まれたりする時代というのは、国家や社会の興隆期に当たっている
:イギリスにおいて、ギボンのローマ帝国衰亡史が書かれたのも、イギリスがいよいよ興隆しつつあった時期で、その翻訳が日本で読まれた時期は大正から昭和初期にかけてである
:ギボンが、ローマ帝国衰亡史の執筆にかかろうとしていたとき、友人の哲学者であるデビッド・ヒュームは「フランス語で書かず、英語で書け」とアドバイスしている
:1760年当時、欧州ではフランス語が共通言語であり、ギボンもその習慣に従うつもりだったが、英国が今や興隆の門口に立っていることを認識していたヒュームは、今後、英語が世界の共通語となるであろうことを予測していた

■衰退期にかかると衰亡論は読まれなくなる
:例えば17世紀のスペインは、繁栄の頂点を過ぎて後退しつつあったが、この時期になると盛んに衰亡論批判が論じられる様になった
:イギリスでも1930年代になると、それまで盛んに議論されていた衰亡論は陰を潜めてしまう
:当時のイギリスは衰退のまっただ中にあったが、この明白な傾向から目をそらし、この変化は「イギリスが世界の動向に合わせているだけ」という議論を知識人はするようになった
:例えば、第一次大戦後、国際連盟によって「民族自決」が唱えられたき、植民地を手放して独立させることが国際的な理念に沿ったものだと思い込もうとする等、「観念の虜」になっていた感が否めない
:そういった観点から考えると、1980年代にポール・ケネディの「大国の興亡」が米国でベストセラーになったのは、大きな意味がある・・・・あれだけの大著がベストセラーになり、連邦議会からあらゆるマスコミまで巻き込んで衰亡論が論じられたということは、逆に言えば当時のアメリカがまだまだ活力を失っていなかったことを意味する
:一方で、98年の8月に発足した小渕内閣で新しく経済企画庁長官になった堺屋太一氏が指摘した「列島総不況」状態という言葉を、自民党の山崎拓前政調会長は「元気を失わせる」といって批判したが、この山崎氏のような発想・・・事態を直視せず、安易に楽観論を鼓舞するという態度こそが、文明史の中では最も衰退を招く危険な態度と言える

■トインビーは、国は、自らのうちなる虚ろな物によって滅びる、としている
:トインビーは、これまで地球上に現れた様々な文明を調べて、文明の発生・成長と並んでその衰退の本来的原因や園本質を極めて抽象度の高い議論にまで練り上げた
:彼の主著である「歴史の研究」の第一巻第十六章は、社会衰退の最大の要因の一つとして「自己決定能力の喪失」というテーマを論じているが、ここで注目すべきは「衰退に不可抗力はない」としている点である
:つまり、盛者必衰といったような宿命論は、誤りであり、どうしようもなく避けられない衰退というのもない、ということである
:例えば、最近の日本の「技術」を極めて高く評価して、この技術の衰退が社会を衰退させる、といった議論があるが、トインビーに言わせればそのような例は歴史上一つも見られない
:トインビーは、イギリスの作家であるジョージ・メレディスの言葉を引用する。メレディスは、愛の墓場という小説の中で「われわれは常に、自らのうちなる”虚ろなるもの”によって裏切られるのであり、他社に裏切られるのではない」と記している
:文明の生命力もこれと同じであり、国家や社会の運命を決するもの、それはつねに「内なるもの」に見いだされる、というのがトインビーの歴史哲学の核心にある考え方である

■成長と衰退は紙一重
:トインビーによれば、国家や社会の成長は常に「創造的な少数者」によってなされる
:すべての人に創造的になれ、というのは無茶であり、社会を進歩させるためには、大多数の人が簡単に模倣できて、取り扱いが簡単なシステムを作り、圧倒的多数の人を、そのシステムに乗せることで成長のプロセスを推進させることが必要になる
:トインビーは、この仕組みをギリシア語を用いて「ミメーシス」と呼んでいる。
:トインビーによれば、鈍感な大衆に地図をそれぞれ持たせて進む道を考えさせる、というやり方は、どんなに進歩した時代でも結局は文明の進歩につながらない
:誰でも歩ける広い道を隊列を組んで行進することは、鈍感な大衆にも可能であり、効率もいいため、従って文明は進歩する
:少数のリーダーが膨大な人々を引率する方が、能率がいい
:しかし、この広い道は、しばしば「破滅への道」つまり衰退への道につながる危険も持っている。その引率者が大衆を誤った道に導く「ハーメルンの笛吹き男」でないと、誰が言えるのか

■近代史の全否定というポストモダンの考え方は危険
:平和がいい、民主主義がいい、といった近代的な思考の枠組みに対するアンチテーゼとして、ポストモダンは登場した
:ポストモダンは、しばしば近代を超克するというかけ声の元に近代を全否定するが、近代つまり我々が行きてきた過去を全否定することそれ自体が、そもそも精神の喪失であり、思考の怠惰であり、つまり退廃の現象といえるはずである
:アメリカの歴史学者、アーサー・ハーマンは、こうしたポストモダニズムこそが、西洋文明の堕落と衰弱の証だと述べている

■日本は欧州からいろいろ学んできたが、大事なことを学び忘れている・・・それは衰退期への対処の仕方である

■これまで、近代の枠組みで「善」と捉えられてきた指標を、改めて考えてみる必要がある
:例えば、社会科学では大学への進学率の上昇は、それ自体が目指すべき「善」の指標、つまり「政策選択の目標」であると即自的に位置づけられてきたが、それはある段階を超すと社会の活力を低下させる方向に働く
:中産階級の人口が増えるのはよい、という前提も極めて主観的で特定の価値観に基づく選択肢の一つ本来は過ぎない
:平均寿命の上昇も、本来はもっとそれ自体が意味するところがもっと議論されてしかるべきであろう


デザイン経営力

建築家の安藤忠雄氏、イタリア人以外で初めてフェラーリのデザイナーを努めた奥山清行、アウディのデザインを刷新してブランド再興につなげた和田智、インディペンデントのデザイナーでMUJIのクリエイティブ・ディレクターも務める深澤直人などなど、「個人」という単位で見てみると、デザインの分野で世界の最先端を走っている日本人は、実は結構居ます。

これが、企業という単位で見るとからっきしダメになるのは、一体どうしたことなのか?

歴史を振り返ってみても、例えば浮世絵は当時行き詰まっていた西洋絵画に新しい地平を提示しているし、日本に寄留した建築家のブルーノ・タウトは桂離宮の美しさに泣いてしまった、というエピソードもあります。

こういうことをいろいろと考えてみると、日本人は模倣は上手だが、クリエイティビティは無いと、なんとなく漠然と共有されている風評があまり正確ではないのではないか、という気がしてきます。

ではなぜそんな評価がグローバルに、何となく根付いているのか、と考えると、恐らくそれは個人単位では発揮される世界的に最高度のクリエイティビティや美意識が、企業単位になるとなかなか発揮されず、どうも二番煎じの様なものになりがちだ、ということから来ているのではないでしょうか。

グローバルの家電製品マーケットのシェアを韓国企業に奪われてしまった日本ですが、同じ様な現象は恐らく自動車業界において中国やインドを相手に起こるだろうと僕は思っています。恐らく品質レベルでは早い段階で日本と遜色ないものを出して来ることになるでしょう。それも恐ろしく低コストで。

そうなった時に日本が対抗して行ける軸はナンなのか?通常こういった議論が行われると真っ先に言われるのが「イノベーション」という解答で、これはこれでありなのだろうけど、僕はデザインというのも、大きな競争資源になるのではないか、と考えています。

サミュエル・ハンチントンは、日本をして単一の文明圏であるとしてアジア文明とは別個のものであると位置づけていますが、日本民族が持っている美意識というのは非常にユニークで、これは差別的優位性を構築する貴重な競争資源になるのではないか?

事実、個人単位で見てみると、ユニークな美意識を武器にして世界で戦って競争優位を構築している事例は枚挙にいとまが無い。問題は、個人が持っている美意識をいかにプロダクトにつなげていくか、というマネジメントの問題だということになります。

充実の週末

情報を売る

ソシュールは、言語が「差異の体系」であることを明らかにして袋小路に入っていた言語学の壁の向こうに広大な宇宙があることを示しました。 そして90年代に、消費もまた「差異の体系」であると指摘したのがボードリヤールでした。 機能的に十分である以上、その商品が持っているモノとしての意味は問われない。重要なのは、他の商品とどのような差異をその商品が持っているか、である、と説いたわけです。 差異とは、つまり情報です。 i-Phoneが売れたのも、絶対的な利便性という側面よりも、他の商品との差異という側面から考えた方が整理がつきやすいのかも知れません。

パソコンを隠せ アナログ発想でいこう! D.A.ノーマン

ヒドいタイトルだが読了。


■一般に人はテクノロジーの即効的な影響を過大評価して、長期的な影響を過小評価する傾向がある
:例えばグーテンベルグの活版印刷は100年かかって全欧州に広がった。歴史的な視点で見ればこれは急速な普及だが、その時代に生きている人からすれば数世代に渡る変化になる
:電話の発明は1875年で普及し始めたのは1900年代
:飛行機の原理は1800年代の終わり頃に考案され、実際に成功したのは1903年で、商業化されたのはその後30年たってから
:ファクスの発明も1800年代の中頃だが普及したのは1980年代から

■初期参入者が勝つとはかぎらない
:ドゥリエーは米国最初の自動車会社だが消えた

■インフラの標準化は事業がテイクオフする条件
:アメリカでは、政府がFMステレの標準形式を制定した結果、音響機器業界やラジオ局は栄えた
:一方、AMステレオの方式選定は市場の趨勢に任せることにした。その結果、いくつかの方式が現れたがどれも生き残らなかった。放送業界は、どの方式がスタンダードになるかを見極めてから放送開始しようとした。受信者は、ラジオ局が十分に増えてからラジオを買おうと思った。

■カメラは記憶を邪魔し、スケッチは記憶を強化する

■これからも、新しい物は出てくるだろう
:1899年に、当時の米国の特許庁朝刊であるチャールズ・デュエルは「発明されるべきものは既に全て発明された」と宣言した
:いま現在、我々は今日のテクノロジーの世界は、歴史上のどの時代とも異なって特別である、と考えがちだが、そうではない

■フォーカスグループはもはや意味がない調査手法だ
:顧客に新しい価値を提案できる商品は参与観察とプロトタイピングから産まれるだろう
:一方で、これまで重宝されてきたフォーカスグループインタビューは、効力を失うだろう
:フォーカスグループは、様々な点で、今日の商品開発の手法にそぐわなくなっている
:まず、フォーカスグループの対象者は、意識的で合理的な回答をするが、実際の彼らの現実の毎日の行動と回答は、多くの場合一致していない
:一致していない以上、毎日の生活の中で生じる不満や不便、不利益は「実際に観察することによって」しか把握できない
:またフォーカスグループは、一般に、こころの奥底にある願望や思いを引き出すのではなく、こう答えるべきだという思い込みを引き出してしまう傾向がある
:実験心理学では、人は、自分の行動の理由を説明するときに俗説を作り上げてしまう傾向があることを明らかにしている
:こういったフォーカスグループにおける、本音ではないリクエストや不満の数々が、現在の携帯電話の無意味な機能の付加、パソコンや家電の大混乱を招いている

■顧客は誤っている
:まず、現在の顧客は、現在顧客でない人たちよりずっと数が少ない
:従って、現在の顧客に最適化していくことは、現在顧客でない人たちを、さらに遠ざけることになる
:現在顧客である人たちよりも、将来顧客になるかも知れない人たちに目を向けよう

備忘録

”私が目指すのはパックの向かう先であって、それがいまある場所ではない”

2007年のエキスポ基調講演で ウェイン・グレッキーの言葉



”平凡なアーティストは模倣する。偉大なアーティストは奪う”

パブロ・ピカソ


世界を作り変える経営

街に出て立ち止まり、グルっとその場で回ってみる。

目に入ってくるモノの殆どは企業がつくったモノです。

いま、この世界がこうあるのは、意識的にしろ無意識的にしろ、企業がそうなるように活動したから、ということになります。

ということであれば、未来の世界もまた、企業の活動次第でどうにでもなるのではないでしょうか。

なのに、多くの企業は、高額のコンサルティングフィーを払って「未来の世界はどうなるのか?」というテーマで調査分析のプロジェクトをコンサルティング・ファームに依頼します。

こちらも仕事である以上、頼まれればキチンと分析をしてアウトプットを出すのですが、ちょっと仕事を離れて考えてみると「なるほど・・・・でも、世界がどうなるのですか?という質問の前に、あなたはそもそもどういう世界を作りたいのですか?」と訊いてみたい。

だって、今の文明の殆どが企業活動の結果出来上がっているんだから、ほとんどの企業が世界を変えたいと思えば、それは確実に成就すると思うんですね。

最近はNPOやソーシャルビジネスという言葉が流行っていて、本屋にも関連の書籍が並んでいますが、現時点ではとてもじゃないけど世界を変えるようなインパクトを持った活動や成果は生まれていないと思うし、この先、そういった活動から世界を変えるだけのインパクトが生まれるかというと僕が懐疑的です。

恐らく、問題の根源は、そもそも社会的であるべきビジネスが、単にビジネスと呼ばれて「ソーシャルビジネス」とか「ソーシャルアントレプレナー」という言葉が出来てしまっていること自体にあるのだと思います。

つまり、ビジネスは、社会的な活動ではない

と多くの人が考えているからこそ、「ソーシャルビジネス」なんていう冗長な言葉が出てくるのでしょう。

この場合、ビジネスは社会的なものではない、というテーゼを支えているアンチテーゼは

ビジネスは、個人が金儲けをするための活動である

というものでしょう。

ビジネスを、個人の金儲けのための活動から、より良い世界に今の世界を変えるための活動に変えていく、ということが必要なのだと思います。

そこでボトルネックになるのが、株主資本主義という枠組みです。

今回のリーマンショックの惨禍を見て、声高に株主資本主義を悪く言う人も居ますが、そういう人はリーマンショック以前に株主資本主義が達成してきた成果についてどう考えるかもきちんと言及すべきでしょう。株主資本主義は非常に強かで有効性の高いプラットフォームなので、それ自体を否定しようは僕は思いません。なぜなら代替手段がないからです。あるプラットフォームを批判するのであれば、それに変わる代替手段の提案が必要ですが、多くの株主資本主義批判者にはその点がかけている様に思います。

大事なのは、株主資本主義に変わるプラットフォームを探すことよりも、株主の教養だと思います。

どの企業にお金を出すか出さないか、どの様な成果を期待するか。

金も必要だが、よりよい世界を求めるリテラシー、つまり全人格的な意味での教養が必要なのだと思います。

ルールの書き換え

電通マン必読の本リスト、というのが電通の社内にあって、今はどうなったか知らないけど、その中でもっとも強力に薦められていた本に「マーケティング 22の法則」というのがありました。

確か20冊くらいの本のお勧めのリストの中で、他の本については簡単な解説とそれがなぜ電通マンにとって必要なのかという理由が書かれていたのですが、「マーケティング 22の法則」については、「読んでない人は今すぐに読んでください」と書かれているくらい、本当に必読中の必読の書という位置づけでした。

このブログを見ている僕の友人の多くにもお勧めしたし、事実僕自身も長いことすばらしい本だと思っているのですが、最近になってこの本に書かれているルールの多くが、書き換えられる時期に来ているな、と感じています。

例えば、22のルールの一番目に上げられている「一番手の法則」というのがあります。

これは、市場参入の一番手を果たす、というのが勝つためのもっとも有効な方策である、という考え方です。

このルールの有効性の証左として、著者は「大西洋無着陸飛行の一番目の成功者はリンドバーグとして誰にでも知られているのに、二番目の成功者は誰も知らない。二番目の方が早く、燃料消費も少なかったのに関わらず」という事例を挙げています。

そのころの僕は20台の純真な青年だったので、上記の様なインチキ証明にコロリとだまされてしまって、何度かクライアントの前でもそういった事例を引き合いに出して初期参入の有効性を説いていたのは実に恥ずかしい思い出です。

上記の証左って、考えてみればぜんぜん証明になっていないですよね。

事業として成功するのと名前が知られているのは別のことです。今、大西洋を横断しようという人はおそらくはノースウェストとかユナイテッドとか、まあどこでもいいのですが最新鋭のジェットを使いたがるわけで、リンドバーグの操縦するスピリットオブセントルイスに乗って横断したいと思う人はいないだろうし、たとえリンドバーグが航空会社を起こしていてリンドバーグエアウェイズというのがあったとしてても、リンドバーグが大西洋無着陸飛行を行ったのと、航空会社を選定するのに「何の関係もない」と言う人がほとんどでしょう。

つまり、

一番最初に大西洋無着陸横断飛行をやったのはリンドバーグで誰もが知っている。二番目にやった人の名前はぜんぜん知られていない

という弁に対しては、

そのとおり、だから何?それが市場に最初に参入するのが正しいということの証明にはなりませんよ。
なぜならリンドバーグはなんら事業を起こさなかったから。それを正しいというには、リンドバーグが航空会社を設立し、それが今現在もトップ企業であることが必要です。

というのが正しい答えになります。

あと、余計かも知れませんが、この証明がいかにも気持ち悪いのは、そもそも大西洋無着陸横断飛行をやったのが、リンドバーグである、という話そのものに齟齬があるからです。大西洋無着陸飛行を最初にやったのはジョン・オルコットとアーサー・ブラウンの二人でリンドバーグではありません。リンドバーグが最初にやったのは、大西洋無着陸「単独」飛行で、要するにカッコつきなんです。だからある意味ではリンドバーグ自体が二番手なんですよね。

二番手なのに、なぜここまでヒーローになったのか、ということを考えると要するに二人で出来たことを始めて一人でやった、というのがいかに人心に作用するか、ということだと思いますが、そっちを深く考えるほうがはるかに得られるものがあるような気がします。

こういった重箱のすみをつつくようなことをしなくても、例えば世界最初のゲーム会社はアタリで、任天堂やソニーは後発でしたし、アメリカ最初の自動車会社はデュリアで今は影も形もない。だいたい今世界をひっくり返すような騒ぎを起こしているグーグルも検索エンジンとしては最後発の会社ですし、アップルのi-Phoneも携帯電話メーカーとして考えれば最後発です。

つまり、こうやって眺めてみると「一番手」というのは本当に有効なのか?という疑念がわいてくるわけです。

では、なぜ一番手の有効性がなくなってしまったのか?まあそもそも有効だったのか、という疑念もないわけではないですが、仮に昔はあったとしてなぜなくなってしまったのか、ということを考えてみるとどうも二つの理由がある様に思います。

1:ブランドイメージ占有の有効性の低下
2:技術を内部に持つことの優位性の低下

1は、つまり「安全といえばメルセデス」というようなイメージ(認知心理学の用語ではパーセプションと言ったりします。広告業界ではこっちの方が用いられているかも知れません)を、最初に参入したメーカーほど昔は占有しやすかったのが、ここになって参入時期は関係なくなってしまった、ということです。

その理由は、これは前著にも書きましたが、昔は企業がパーセプションを形成するために使えるコミュニケーションツールはほとんどマスメディアだったのに、今は消費者の多くがパーセプションを形成するためにネットを使うようになったから、ということがあります。

つまり、刷り込み=インプリンティングがしにくくなってきているんだと思います。刷り込み、というのは生物が、特定の対象について短期に強い記憶を持ち、それが長期間持続するという学習現象の一種です。マーケティングに援用して考えれば、消費者が、例えばメルセデスという対象について、コミュニケーションの結果「メルセデスは安全である」という認識=パーセプションを持ち、それが長期に持続したらそれは一種の刷り込みだと考えられます。

一昔前は、その刷り込みに対して「他の自動車の方が安全である」とか「メルセデスは大して安全ではない」という情報は、あまり入ってきません。こういった情報を取得するには、それなりのエキスパートに接したり、実際にメルセデスに乗って追突される必要がありますから、まあなかなか難しいわけです。

ところがネットが出てきて、エキスパートの情報を簡単に集められるようになったり、実際に事故にあった人の体験談を聞いたりすることが出来るようになってきた。こうすると、初期に形成されたパーセプションは、メルセデスと言うブランドのイメージを保護するための防壁としては機能しません。

その結果、最初に参入してパーセプションを占有する、ということの有効性が減少しているのだと考えられます。


次に2:技術を内部に持つことの優位性の低下

というのは、まあ読んで字のごとくなんですが、最初期に市場に参入すると技術(技術だけでもないんですが)に関する知識が誰よりも早く蓄積されて、安くていいものを作れるようになります。類似の概念としてはBCGが発見した経験曲線(累積生産量が倍になると生産コストが2割程度下がるという経験則)がありますが、これも経験の量が増えていくことによって競争力が向上するということでは同じことでしょう。

ところが、ここにきてこの構図も崩れつつあるんじゃないか、と思っています。

先ほどにもあげた任天堂やアップルは、自分たちで技術を囲い込むことをしていません。Wiiもi-Phoneも内部の技術よりも、世の中に存在する技術の寄せ集め、それも決して最先端ではない、わりと「枯れた」技術の組み合わせによって出来ています。いわばプロデュースしているだけでインベントはしていないんですね。

技術のロードマップを設定して着実にそれをこなしていく、というのは先にゲームを始めた会社ほど有利ですが、そこにあまり競争上の意味がなくなってきてしまっている、ということです。

これは更に言えば、技術力よりも、それを組み合わせてプロダクトやサービスとしてのシステムを作る能力の方が、はるかに競争にとって意味が大きいということを示唆しています。

そろそろ「一番手の法則」は見直されてもいいのではないでしょうか。

書籍用ネタの備忘録

週末はボリショイサーカスと逗子の海水浴で150%エネルギーを消費。

寸暇を惜しんで思考したネタの備忘録。

■定石破りが必要
二宮清純は、「勝者の思考」の中で、サッカーのフォワードで成功するにはルールを型破りする強烈な個性が必要と説いています。そのココロとして、敵のディフェンスは当たり前の攻撃には高度に訓練されているので型を破らなければ絶対に点は取れない、ということを指摘しています。言われてみれば当たり前のことです。これを経営学になぞらえれば、教科書で習ったことをやっても予選突破はできない、ということになります。

教科書を習っても勝てないなら教科書に意味はないのか?

恐らくそうではないでしょう。教科書を習わなくては勝負にすらならない。しかし、勝負に勝つには教科書をマスターして忘れる、ということが必要なのでしょう。

つまり、武道で言う「守破離」です。

またビジネスの世界では、

第一段階:知っていないことを、知らない
第二段階:知っていないことを、知っている
第三段階:知っていることを、知っている
第四段階:知っていることを、知らない

という訓でも語られることがあります。
(余談ですが、だからこそエースに対して、コツは何か、と問うインタビューは意味が無く、実際に彼らがビジネスを実行する現場に行ってつぶさに横から観察すること、つまり文化人類学で言う参与観察が有効なのでしょう)

要するに、教科書で語られていることは常識論として必要なのであって、それを知った上で何が出来るか、が勝負ということです。

先に書いた二宮清純さんは、それまでのフォーメーション練習や教科書を離れて実戦で成果を出すには想像力が必要だと説いています。

実に説得力がありますね。

これをあえて二つの要素に分解するとすると、それは

:インスピレーション
:イマジネーション

の二つになると思います。要するに「ひらめき」ですね。

想像力といってしまうと、それはほとんどイマジネーションと同義なんですがビジネスや、ましてやサッカーの現場で必要になる要件としてはどうしても時間軸の定義が必要なのではないかと思います。

縦軸に時間をとって、横軸に思考の深さを取る。瞬間的な時間で、極めて深い思考を極める、というのが、サッカーで求められる想像力でしょう。であるとすれば、それは英語で言うインスピレーションに近い物なのではないかと思います。

僕が大好きな歴史学者で一橋大学の学長を努められた阿部謹也先生は、著書「歴史家の自画像」の中で「思考というのは一瞬のことであって、その一瞬の密度が勝負。一時間考えた、というようなことを言う人が居るけど、そんなことは不可能」ということをおっしゃっていますが、これも同じこと、つまりインスピレーションとイマジネーションが、何か新しいことをやる、ということの本質なのだということを説いているのだと思います。

同様のことを将棋の羽生さんも仰っていますね。定石で勝てる時代ではない。情報量で勝てる時代ではない。では何が勝負の鍵なのか?そこからいかに外れるか、ということです。


■分析より統合
コンサルティングファームに居て実にやばいな、と思うのは「分析」ばっかりやっているということです。分析というのは、読んで字のごとく「分けて」「折る」、つまり一塊のものをいくつかのピースに分解して、それを検証してみるという作業です。昔からみんなやってきたことなんですが、改めて文字でまとめたのはデカルトで、その著書「方法序説」の中で、「もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうる」という、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めています。
  1. 明証的にであると認めたもの以外、決して受け入れない。(明証)
  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析
  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合
  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)

しかし、最近はこんなことやって本当に意味があるのか、と思うことが多いのです。

例えばわかりやすい例で言って、ある産業が分析から産まれたとは考えられない、ということです。自動車産業は鉄道や馬車の分析から演繹的に導かれるわけがない。音楽産業が、消費者の嗜好の分析から出て来るわけがない。マイケル・ジャクソンが、ブラックミュージックの問題分析から出てくるわけがない。

分析というのは、基本的に「いまあるルールで戦っていて、それをBetterに戦う術」を考えるヒントを与えてくれるだけで、違うゲームを作るヒントについては、ごくごく断片的な情報を与えてくれるだけです(全く役に立たない、とも思わないのです)。

ここまでは実は殆どの人が皮膚感覚でわかっていることです。いくら分析なんてしたって新しいビジネスなんて生まれねーよ、と。

では、なぜ分析は未来を「クリエート」するための武器にならないのか?

それは、分析という行為の本質を考えてみれば自ずと見えて来るのではないかと思います。

分析の本質?

と理系の方は思うかも知れません。僕はごりごりの文系で大学院まで美術をやっていたという人間ですが、極北の彼岸から分析の大陸を眺めてみてその文化のエッセンスは、「分析=比較」であると、考えています。

つまり「比べるというのが分析の本質だと言うことです。

例えば、背が伸びたね、というのは分析の一種ですが、これは自分×現在⇔自分×過去の比較です。これを、なぜ自分は背が低いのか、という分析で考えると、まずファクトとして自分×現在⇔他人×現在の比較があって、例えば自分の食べ物×過去⇔他人の食べ物×過去や自分の両親の身長×現在⇔他人の両親の身長×現在、という項目で比較して行くことになります。

ここで重要になって来るのが、分析の本質が比較である、とすると、未来は常に比較できない、ということがあります。なぜならビジネスにおいては競争のルールが常に変わっていくからです。

恐らく、分析が最も強力なツールとして機能していたのは競争のルールがほぼ出来上がった70年代〜80年代前半の時代だったのではないでしょうか。経営学の名著と言われる著作が多く出版されたのも同時代のことです。ところが、エネルギー危機やインターネットといった要因のせいで競争のルールがいまたくさんリセットされています。そういった時代に分析で未来を読もうという浅はかさ。


■自分が事業をやっている市場の普遍性をちゃんと認識する
昨今、GMの経営危機にまつわるニュースが毎日新聞をにぎわせていますが、そもそもGMって何でこんなにヤバい状態に陥ってしまったのでしょうか。

考えてみたことありますか??

いろいろな要因が考えられると思うのですが、ふと思ったのは、GMのクルマが、アメリカ以外の地域では全く売れていないという事実です。アメリカは単一国家としては世界最高のGDPを誇る国なので、国内で成功すれば、ほぼ世界最大規模の会社になるわけですが、ちょっと引いて見ると国外で成功している会社というのは、実はあんまりない。

この点は、実は余り経営学のコンテキストで語られることが無いので、声を大にして言いたい。

まず、米国は日本の二倍の人口があって、欧州の主要国に比しても3〜4倍の人口がある。だから、国を閉じてビジネスをやっても、日本や欧州の国より、企業が大きくなるのは、まず当たり前だということです。ここを、よく考えてみる必要がある。そして、経営学のメソドロジーの多くは米国発である。経営学のメソドロジーが米国発であることの一つの理由は、米国企業がグローバルに最も成功している、ということが最もドライバーとして働いていると思いますが、考えてみれば、普通にビジネスをやれば米国企業が売上高や営業利益率/額といった指標で、さらに言えばそれ故に株主企業価値という指標に置いても、グローバルにもっともエクセレントな数値になるのは、あったりまえだのクラッカーというくら自明のことなんです

アメリカという国は、自国民の体位を勘案して、他国に対して有利になる様にバスケットボールやバレーボール、アメリカン・フットボールというスポーツを「新しくわざわざゼロから作る」国です。わざわざゼロから作って、他国と比べて、「見てご覧、君たちは、ちょっと僕たちにはかなわないみたいだね」とわざわざ指摘するそういう指摘をするために、わざわざ新しいスポーツを作るということをやる、そういうことをする国なんですね。

まず、ここをしっかりと認識しておく必要があります。

では、そういう「新しい競技とルールを勝手に作って自分で比べて、勝った!と騒いでいる人」たちが、実際にビジネスで何を成し遂げてきたのかを、振り返ってみたいと思います。

縦軸に、主婦向け、ビジネスマン向け、若者向け、というターゲットを、横軸に金融、実用品、嗜好品というプロダクトを取ったマトリックスを考えてみると、アメリカが世界に向けて影響力を持ち得たのは、ほとんど若者向け×嗜好品のプロダクト、つまりマイケル・ジャクソンやハリウッドやコカ・コーラやマルボロやアンディ・ウォーホルといったプロダクトと、ビジネスマン向けの金融商品であって、他のマトリックスではせいぜい善戦、よくてトントン、多くが惨敗であることがわかります。等に主婦向けの実用品では殆どの会社がつぶれてしまいました。

つまり、何が言いたいのかというと、アメリカという国は非常にエキセントリックで変わっている、ということなんです。米国で支持された実用品は殆どグローバルな競争力を持つことなく、輸入の解禁によって市場から抹殺されてしまいました。

僕は、中学校時代に毎年の夏休みをシアトルで過ごしていたのですが、その当時家庭に置かれていた冷蔵庫や掃除機といった電化製品の性能の悪さに、家族が辟易していたのをよく覚えています。

1970年代、GMが内需の拡大によって世界一の売上高を誇る自動車会社への階段を駆け上っているときに、彼らはラジオコントロールによる全自動自動車のコンセプトを発表し、全米の度肝を抜きます。でも、これは対外的には全く受けないコンセプトだった。なぜかというと、欧州や、当時モータリゼーションの萌芽の時期にあった日本では、自動車の運転というのは「レクリーション=気晴らし」であって「オキュペーション=労務」ではなかったからです。GMという会社を経営することの難しさは、自動車の運転を、単に面倒くさいこと、と認識するアメリカ合衆国の特殊な顧客に対して、あまりに最適化しすぎたから、ということも言えるのではないでしょうか。

つまり、GMは、合衆国国民という顧客が、どれだけグローバルに普遍性を持ちうるのかという点について見誤った。もっと言えば、合衆国国民という顧客の、田舎者度合いを、経営の関数として余りに無視しすぎた、ということなのだと思います。

一方で、若者向け×嗜好品というマトリックスにおいては、米国がここまでのコスモポリタニズムを獲得したのは、一考に値することだと思います。

あ、そろそろさすがに本読みたいので今日はここまでで。



長期予測の誤謬 その他

今書いている書籍のネタになりそうないくつかの疑念とコンセプトの備忘録。

1:長期より短期。予測より意思。
戦略コンサルティングファームに居ると、長期予測をいろいろなクライアントからお願いされます。だいたいPEST分析というのを軸に行うのですが(Politics、Economics、Social、Technologyの4つの視点で将来の需要や競争環境を予測するから)、個人的には有効性を疑問視しています。なぜかというと、様々なシンクタンクやコンサルティングファームが提出してきた長期予測には、大ハズレのものが多いからです。

代表的なのはコンピューター関連業界でしょう。1980年代に出されていたパーソナルコンピューターの市場規模に関する長期需要予測は大ハズレでした。もともとIBMの社長ですらパーソナルコンピューターの市場規模はせいぜい世界で5台程度だろうと予測していましたし。

予測というのは経営という生業を行うにあたっては不可欠のものの様に言われていますが、問題になるのは「予測」と「意思」の関係性です。「予測」と「意思」の関係が、「意思」が「主」で「予測」が「従」であればいいのですが、「予測」が「主」で「意思」が「従」になると、これは危険だなと思っています。

つまり、自分の会社はこういうことをしたい、世の中をこう変えたい、という意思があって、そのために戦い方を考えたいから予測が必要だ、という流れならいいのですが、自分は何をしたいのかよくわからないけど不安だし、カネも欲しいから予測してくれ、というのはまずい
ということです。

いろいろとありますが、

分析とかアジェンダだとかさ、もういいんだよ。要するにお前何したいんだよ、

ということですね。

もし予測をするなら密度を濃く、短期でやるのが宜しいと思います。意思と予測。短期と長期。意思は長期でもって予測は短期を繰り返して精度を上げて行く。こういうことになるのかと思いますね。予測を長期でやって意思は短期、というのが最悪の経営です。


2:ミディアムアウト
技術でも市場の要求でもない、流通やメディアの有り様が、戦略そのものを超えて思考様式すら規定している。このタガをどう外して行くか?

3:「モノ」より「コト」のデザイン
日本には深澤直人さんや原研哉さんと言った素晴らしいデザイナーが居て、私も尊敬していますが、彼らのデザイン提案に接していて違和感を感じるのは、デザインされたプロダクトが美術館のホワイトキューブの様な無菌状態に置かれて提示されていることです。実際の日本の家庭の殆どはそうでない。ホワイトキューブに常に商品が置かれているのは、その商品がどういう行為や場所の文脈で使われることになって、生活をどう変えるか?ということについての具体的な提案がデザイナー側にないということです。

デザインがプロダクトそのものを離れて文脈も取り込んだ全体性の提案能力を獲得できない限り、この国が抱えている凄まじい醜さというのは解決されないと思います。

この文脈から乖離した、一種無菌の標本としての提示に対して消費者がシラケるという構図は広告の世界でも起こっていることだと思います。花束を抱えた外人俳優が奥方らしき人を迎えて自動車で乗り付けると上に花火が炸裂する、というトヨタのCMがありましたが、関係者はこのCMによって何を伝えたいのか、全く意味がわかりません。

もし、消費者が、このクルマを買うことによってCMで提示されているクラス感の生活が手に入る様な幻想を持ってくれることを期待していたのなら、あまりにも消費者をなめすぎている、と言わざるを得ません。欺瞞そのものでしょう。

これは、いわゆるミニバンのCMでしたが、こういったクルマの顧客の生活とCMの提案内容にあまりにギャップがありすぎるのではないかと思う訳です。普通のミニバンの生活というのがあって、郊外の巨大ショッピングセンターに子供連れで週末に買い物に行くとか、ファミレスに行くとか、夏休みに田舎に帰るとか、そういう普通に想定される使い方に対して、このクルマは、その文脈をどう包み込んで変えてくれるのか、という提案こそ必要でしょう。そういう提案が全く亡くなってしまったのが、若者が自動車に夢を持てなくなったことの最大の理由だと、僕は思うし、そもそも広告が効かなくなった、というのも広告そのものが無意識に身につけているこういった欺瞞に、もう皆が気づいているからということなのだと思います。

技術のロードマップを外れる

近年の大ヒット商品を東西で考えてみると、東の横綱=Wii、西の横綱=iPodということになるでしょうか?

こう並べてみると、この二つの商品には共通項が多い様な気がします。

一つに、技術のロードマップを意識していない、という点です。

特にWiiは枯れた技術のみで構成されている商品です。その時点で手に入る最新技術よりも一世代前の技術で基本的に構成されています。iPodも、アップル自身がテックオリエンテッドの会社でないこともあり、基本的に世の中で手に入る技術の順列組み合わせで出来上がっていて技術的に特筆すべき物は無い。

そして重要なことは、これらのお金をザクザク生み出す商品に使われているコンポーネントの供給メーカーには、ゼンゼン儲かっていないところも多い、ということです。

例えばiPodには記憶装置に日立や東芝のHDDが使われていますが、これらの会社の業績がどのような状況かは皆さんもよくご存知のはずです。

現在、多くの企業で中堅から幹部として働いている人は20世紀の後半に生を受けて経済成長期に青春を過ごした人たちですから、思考のパラダイムとして「進化」と「成長」という概念が立ちがたく結びついてしまっている様に思えることがあります。

この「成長=進化」の幻想、つまりロードマップドリブンの経営を迷走させる危険な考え方だと思っています。

例えば、最近若者の自動車離れが騒がれていますが、その要因の一つに自動車の進化の方向性に若者が共感しなくなっているということがあると思います。

自動車の開発ロードマップの方向性は、安全性や静粛性、親環境性といった要素がありますが、こういった進化に若者が興味を持てなくなっている、ということだと思います。なぜなら彼らにとってはもう十分に安全で静かだからです。ここから先、安全性が多少良くなったら若者が自動車に戻ってくるかと言ったら、そんな感じしないですよね。にも関わらず、企業は相変わらず安全性や静粛性といった古典的なテーマのロードマップに乗って莫大な資金を投下しているわけです。その費用によってもたらされる限界効用は殆どゼロではないかと思います。

一方で、意識されない要件については自動車というのはここ50年くらい全く進化していません。普通に考えると今の自動車にだってまだまだ不満があるはずです。

なぜ、一人で乗るときも4人分のスペースを引きずる必要があるのか?
荷物を載せないときには小さくした方が駐車しやすいのになぜできないのか?
真横に動いたり、その場で回転したりすれば駐車しやすいのに、なぜ出来ないのか?
なぜ1万円の自動車を作れないのか?

市場には衝突安全性や静粛性より、もっと切実なニーズがあるのに、そこに気づかずに消費者にとってはどうでもいい要素の進化に莫大なお金を使っている。

これはWiiにしてやられたソニーのプレイステーションも同じことが言えるでしょう。現代人にとってもっとも希少な資源は時間ですから、時間のかかるゲームというのは非常に高価です。たとえそのソフトが1万円で購入できても、ある程度楽しめるのに10時間程度の修練が必要であれば、その10時間分は機会費用として消費されてしまいます。年収1,000万円の人の労働時間単価は5000円/時程度ですから、単純計算で言えばまず5万円の費用がかかる。しかも、この時間を趣味や友人との食事といったレクリエーションや勉強等の投資に使えば、その時間によって得べかりし利得は得られない訳ですから機会損失も発生する。

プレイスーテションはコンピューターパワーを高める、グラフィックの描画能力を高めるというロードマップを驀進することで事業を成功させてきましたが、ロードマップというのはある程度まで進んでしまうと顧客にとってはどうでもいい一線を超えてしまうんですね。

ハーヴァード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセンは、企業が自らの技術ロードマップをばく進しているうちに、客にとって「どーでもいい」進化に拘泥してしまい、安くて枯れた技術を使う新興企業に足下をすくわれるという事例を数多く集めて「イノベーションのジレンマ」と名付けましたが、それと同じことがやっぱり今いろいろなところで起こっていると思います。

今日思いついた4つのキーワード

21世紀の日本型経営について、今日思いついた4つのキーワード

1:「太く短く」から「長く細く」へ
2:グローバリズムよりローカリズム
3:Haptic 形容詞の幅を拡げる
4:脱成長幻想

すいません、全然構造化されていませんが。

1:「太く短く」から「長く細く」へ

これは前著で記した「メディアアウト」というパラダイム、つまりプロダクトアウトでもマーケットインでもない、メディアや流通が商品や広告の有り様を決める、という思考様式ですが、この「メディアアウト」という考え方のせいで商品の寿命が日本では極めて短命になっています。

清涼飲料業界では、一年にだいたい1000以上の商品がリリースされていますが、3年後に継続している商品はだいたいここ10年の平均で見てみると2〜3程度です。残りの997は、まあ歴史の残滓として消え去って行く訳ですが、この997に、色々な人の知恵や残業時間やストレスが、膨大に注ぎ込まれています。これって国家的な損失じゃないかと思うんですね。

時間軸を10年に取ってみると、その確率は1000のウチ1以下。では100年では。すいません、そこまではちょっと計量していないのですが、まあ意味がないくらい小さい数字になると思います。

一方で、例えば鹿苑寺。まあ金閣寺といった方が通りがいいかも知れませんが、800年間富を産み続けている。ファイナンスや事業評価の世界ではにNPV=正味現在価値という言葉が呪文の様に使われていて、要するに未来永劫に渡って生み出す価値を、今ここで計量するとどういう数字になるのか、というばかばかしい考え方ですが、最近生み出されている商品のNPVって、過去の日本のどの時代の文物と比べても、時間的に持たないものになってしまっている気がします。

これをどう考えるか?

いまのマーケティングは、1000のうち3つしか生き残れないことを前提にしたマーケティングになっていて、残りの997の失敗のコストを成功した3で回収するモデルになっています。昔近鉄に、三振か特大のホームランか、と揶揄されたブライアントというとんでもない選手がいましたが、まさにそのバッティングスタイルと同じことをやっている訳です。

そのため、この成功した3つの商品の購入者は、本来支払うべき便益の対価以上に、企業が失敗した997分の実験のコストを支払われていることになります。しかも、その3つの商品ですら殆ど生き長らえない。

この先は、また今度書きます。


次に 2:グローバリズムはローカリズム

に行きます。

何でこんなこと考えたかというと、日本で「この商品はグローバルに戦える」と思われて、グローバルに打って出た商品の殆どが無惨な失敗に終わっている一方で、グローバルに健闘している商品の殆どが、そもそもグローバルで戦うことを目論んでいなかった商品である、という経験則があるからです。

代表的なのは、宇多田ヒカルでしょうか。日本で850万枚という空前のヒットとなった「First Love」を引っさげて、鳴りモノ入りで米国に進出しましたがビルボード160位が最高位という結果に終わりました。率直に言って、惨敗とすら言えない、そもそも勝負にすらならなかったという感があります。

もっとひどかったのは松田聖子でしょう。これは詳細は割愛します。当時の関係者は一体何を考えていたんでしょうか。

まあ要するに日本で受けて、洋楽コンプレックスをこの人なら溶かしてくれる、と思われた人は、戦艦大和の特攻みたいになっちゃってんですよね。

その一方で、知らないところ日本人が海外で急に流行って、その後日本でも流行るという例は枚挙にいとまがありません。

最近だと村上隆さん。ちょっと前だとYMOやGODIEGO。も少し前だとKurosawaということになるでしょうか。村上さんは非常に頭のいい人なので、多分グローバルで戦うならローカリズムが大事だと言うことを、帰納的に理解していたと思いますが、YMOやGODIEGOはもとより世界を舞台にして稼いでやろうという気は、あまりなかったと思います。

坂本龍一さんは、スタジオミュージシャンが本業で、アルバイトのつもりでYMOを始めたらエライ騒ぎになってしまって非常に困惑した末、一種の神経症みたいになってしまった、ということをインタビューでよく答えています。

つまり、何が言いたいかと言うと、日本のマーケットで受けて、これならグローバルで戦える、という商品は、なかなかグローバルには競争力を持ち得ないということなんです。携帯とか家電なんかもその範疇に入るのかも知れませんね。

なんでこういうことが起こるのかと言うと、僕らは結局未だに西洋コンプレックスを抜け出せていない、ということなんだと思います。西洋コンプレックスに支配されたマジョリティを対象市場にしてビジネスを行うとすると、いかにも西洋的な商品、つまりパチですね、が受けることになります。しかし、パチは所詮パチなので、本場では受けない。まあ松田聖子がパチかどうかというのも議論があると思いますが、それは置いておくとして、受けない。

一方で、欧米が期待している新しさっていうのは、やっぱり日本が出せるユニークな物があるっていうことなんだと思うのです。力みをなくして、素直に自分たちの美学で、自分たちの感性に従っていい物を作ったら、海外でも受けてしまった、というのが構図です。

長くなったんで次ぎに行きます。

これは本のネタの備忘録に書いているんで、すいません。あまりここで読んでいる人を意識していないので、続きが読みたい人は本買ってください。


3:Haptic 形容詞の幅を広げる

Hapticというのは、障り心地が良い、といった意味の英語ですが、「触感=手触り」は今後の重大なキーワードだと思っています。

形容詞は五感に結びつく物が多い。美しいとか美味しいとか冷たいとかうるさいとかクサイとか、みんな五感に結びついた言葉です。そして、マーケティングっていうのは、だいたいこの五感のどこかにポジティブな反応をさせるためにどういう商品やらサービスやらを作ったらいいのだろうか、とプランニングされます。どうしたら美味しくなるのかとか、どうしたらかっこよくなるのかとか、まあそういうことですね。

で、20世紀後半のマーケティングは、五感の中でも目と舌に比重を置きすぎているんじゃないか、という気がしています。僕は、最近の動向を見ていて、これからはまず「皮膚感覚」が非常に重要なキーワードになると思っています。

ユニクロの作るジャケットは見た目にはよく出来ていますが来たときの皮膚感覚は慄然としてイタリアのものと違う。僕はユニクロという変化し続ける会社を非常に尊敬していますが、残念ながら今の段階では、こと皮膚感覚という面では勝負にならないと思っています。靴もそうですが、技術が進んでくると見た目には殆ど差のない物が出来上がって来るのですが、身につけたときの感覚が違う。

つまり、モノが自分に与えてくれる情報の量と質が、ゼンゼン違うんですね。

京都の旅館などに泊まると坪庭という、ごく小さな庭がよくあって、だいたいコケが生えていますね。その、密生したコケの上に裸足を置いてみたときの皮膚感覚。圧倒的な足の裏からの情報量が脳を直撃しているフィーリングなのですが、僕はこのフィーリングを同じものをフライのシャツやブリオーニのジャケットにも感じます。

キーワードは情報量なんです。心地よい情報の量を、いかに五感を通じてそのプロダクトから消費者に対して与えるのか?この点を考えると、20世紀に視覚と味覚ばっかりに偏っていたマーケティングの地平が開けてくると考えています。

もう一つ、ついでに書いとくと、聴覚も実は重要なのではないか? 先日、知人のおごりで非常に高級なフレンチレストランに伺いました。大変美味しかったのですが、がっかりしてしまったのが、メインがそろそろ出るか、という時期に厨房の奥の方でタワシで何かをこすっている音が、かすかながら聞こえてきたことです。

料理は味覚を通じて味わう物ではありません。ソムリエが良く言う様に、まずは見る。そして嗅ぐ。そして味わう。というのが基本になりますが、ここに僕は絶対に外せない用件として、その料理が与えてくれる「音」を非常に気にしています。

僕は食いしん坊なので、安くて美味しい店がある、流行っている店があると聞くと仕事をなげうっても駆けつけますが、安くて美味しい店なのに流行っていないケースは「音」がだめなことが多い。一方で流行っている店は必ず「音」・・・この場合サウンドスケープというべきかも知れませんが、その手触りが非常にいい。そう、音の手触りがいいんですね。ヨーロッパの老舗レストランに行くと、無作為の作為としてデザインされているサウンドスケープの素晴らしさに舌を巻くことになります。

村上龍の料理小説集にエキセントリックな老作曲家の話が出てきます。彼は、「交響曲は赤ん坊の鳴き声に負ける」という脅迫感に苛まれて常にヘッドセットを耳に付けている。電池の続く限りヘッドセットをつけたまま食事し脱糞しセックスし眠るのですが(電池が切れたときは電池交換時用の別のヘッドセットにつけかえる)、その彼が、友人と一緒にパリのホテルのダイニングに向かう廊下で、友人に向かって「シ!」とささやいて立てた人差し指を口に持ってくる。そしてゆっくりとヘッドセットを外して、廊下に漏れ聞こえてくるダイニングの音に耳を傾ける。フランス語をはじめとした数カ国後のささやき合う声やカトラリーと皿がふれあう音、ギャルソンの通る声といった音が渾然一体となって聞こえてきます。そして老作曲家の一言は「・・・音楽だ」

視覚から、聴覚、触覚。プロダクトが訴えるべき5感の地平が広がれば、新しい価値が生まれるのではないでしょうかね。


4つめに来ました。

ふー。 脱成長幻想、これはね、忘れました。

何考えていたのか。また今度考えます。 おやすみなさい