「美しいもの」を誰憚らず「美しい」と言える社会へ

エピソード1:
あれは確か1980年代の最初の頃だったでしょうか。
当時、僕は小学校の高学年で、隣に座っていたクラス一の美少女の髪の毛をハサミで切ることに、言葉では説明できない不思議な快感を覚えていました。今から思えばそのころから奇麗な女の子を苛めるのが好きだったんだしょうか。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、たまプラーザのイトーヨーカドーの前で見かけた、いすゞの、それもただのフォードアセダンの美しさに釘付けになったことがあります。

エピソード2:
時を経て、それは1980年代の後半ごろのことだったでしょうか。
横浜の私立高校に通っていた僕は、校舎の屋上でタバコやら何やらいろいろなモノを煙にして吸うと、違う意味でアタマが冴え、学校の教師が教室でほざいていることが嘘ばかりだったんだということに気づく知性を獲得しつつありました。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、毎日昼休みに実施されていたレコード鑑賞会で、明らかに調律に失敗したと思われるピアノで奏でられるフーガに衝撃を受け、やはり釘付けになったのでした。

エピソード3:
さらに時を経て1990年代の後半ごろのことです。
広告代理店の営業という仕事で口に糊をしていた僕は、学生時代に聞いていた代理店マンのバラの様な生活と、ドロの中を這い回る様な実際の生活とのギャップに、何かがおかしいのではないか?と思うと同時に、これだよなこれこれ、と痺れるアンビバレントな状況を、思いっきり楽しんでいました。まあそれはともかく、出張先で訪れたシカゴの街を散策する中、ミシガン湖のほとりにたつ漆黒のビルに、楽茶碗と同様の美的インパクトを感じたのでした。うおおおお、なんとカッケええビルなのだろうか。

これらのエピソードは、ある一定の時間を経てから、感動の対象となった「モノ」が、実は美術史上トンでもないものであった、ということが判明するという点で共通しています。

ちなみにオチは、
エピソード1:
ただのフォードアセダンに見えたいすゞジェミニのデザイナーは、ジョルジェット・ジュジャーロだった。
エピソード2:
弾かれていたのは、グールドによるバッハのインベンションとシンフォニアだった。
エピソード3:
ミシガン湖沿いのビルは、ミース・ファンデル・ローエのレイクショア・アパートメントだった。

つまり、何の前提情報もなく、いきなり現物を見させられた、あるいは聴かせられた結果、ああ、知らないけれども、なんかこれはスゴいものだ、と認識するに至っているわけです。

ここで「美的判断」は「文脈」と切り離されていますよね。

まったく文脈に依存せずに、本当に絶対的に「美」を判断していて、後追いで文脈によって説明されている。そういう経験を人生のなかで何度もしていることもあって、僕は「良くない」と思うものは、誰が何と言っても「良くない」と主張します。大バッハもモーツァルトもクソみたな曲をたくさん書いていると思います。

一方で、文脈に依存しないと「美」を判断できないという人が、これほどまでに多いのかと思わされたのが、少し前に起きた佐村河内氏にまつわる事件です。事件を知らないという人はこのブログをそもそも読んでないだろうと思うのでコトの次第は割愛しますが、僕が言いたいのは、過去の歴史上、これほどまでに「美」を突き詰めてきた日本民族が、逆にこれほどまでに自分自身で「美」を判断できない民族に堕してしまったのか、という衝撃です。

誰がいいかなあ、例えばアン・モロー・リンドバーグ。

彼女は、1935年に刊行された旅行記「翼よ、北に」において、日本および日本人の印象を次の様に語っています。

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すべての日本人には芸術家の素質がある。そのような芸術的なタッチはあらゆるところに見られる。しごくあっさりした着物のうちにも、毛筆の書き流す文字のうちにも見られる。雨の通りに花ひらく、青や赤の番傘や蛇の目傘のうちにも、普段使いの食器のうちにも見られる。わたしは、日常生活のうちの紙と紐すらも、日本特有のタッチによって、かりそめならぬものに変えられているのだと感じるようになった。あるとき、わたしたちは日本の通りを歩いていた。藍の浴衣を着て、背中に赤ちゃんをおぶっている女の人が街角に立っていた。雨が降りしきり、彼女は濃い青に白い輪の入った傘を頭の後ろに掲げ持っていた。わたしの友達は、「まるで後光みたい」と言った。雨の日、日本の女性はだれでもこうした後光をいだいている。それは日本では最もありふれた種類の雨傘なのだ
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まあ、こんな感じです。

ここに記されたアンの美的感性には、ほとんど文脈依存性というものがありません。彼女は、自分の感性にもとづいて、美しいものは、誰がなんといおうと美しい、と主張しているわけです。

僕は、事件発覚前の前のブログで、作曲者が被爆二世だろうが全聾だろうが、結局音楽には、いい音楽と悪い音楽しかない、文脈なんて関係ないんだ、というメッセージを、かなりオブラートにくるんで書きました。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2013/06/blog-post_10.html

このブログを通じて言いたかったのは、なにか「拠り所」がないと自分の意見を主張できない、という日本社会の歪みなんですよね。

どうして、自分がイイね、と思ったものを、なんの理由もなく「イイね」と主張できないのか?
どうして、自分がダメだ、と思ったものを、なんの理由もなく「ダメだ」と主張できないのか?

これはリーダーシップに関わる本質的な問題だと思います。誰もが納得していいね、と言われる様な文脈、それは障害者がハンデを克服して素晴らしい楽曲を作っている、といったわかりやすい文脈がないと肯定の態度を示せない、ということであれば、集団のなかに認知的不協和は生まれず、意思決定のクオリティは高まりません。

美術鑑賞をするときに、すぐに「絵」ではなく、「絵の解説」に向かってしまうあなた・・・自分の美醜を談ずる感覚にもっと自信を持ってください。みなさんが本気で「美しい」と思えるものであれば、それは間違いなく「美しい」のですから。