Saturday, May 20, 2017

「経済学を学ぶ」ことの意味

先日以来、ある企業の依頼で若手社員に向けて「独学の技術」の講座をやっています。
前回のお題は「経済学」だったのですが、文字起こしが上がってきたので。

=========================

経済学を学ぶ意味合いについて、世の中一般でよく言われるのは「社会人としての常識だから」とか「世の中の仕組みが理解できるから」といったことなのですが、僕自身は、そういった「教養としての経済学の知識」について、その有用性を否定はしないものの、副次的なものでしかないと感じています。

ことビジネスパーソンが「知的戦闘能力を上げる」という目的に照らして、経済学を学ぶことの意味合いを考えてみれば、そこには大きく二つのポイントがあります。

一つは、「経済学」が研究対象とする「経済」や「市場」が、ビジネスというゲームの基本ルールを規定しているということです。ビジネスには当然ながら競争という側面があるわけですが、ではその競争の「ルール」は誰が規定していると思いますか?

生徒:公正取引委員会?

確かに、公正取引委員会はいくつかのルールを規定していますが、基本的な仕事は不当な競争をするプレイヤーを摘発するのが仕事ですね。他にありますか?

生徒:市場?

おお、正解。実は、ビジネスにおける競争のルールを規定しているのは市場なんです。市場という、人間が生み出したものが、人間とは個別に勝手にルールを生み出してしまう。そしてこのルールに人間は縛られるわけです。これをマルクスは「疎外」と呼びました。疎外という言葉は聞いたことがあると思いますが、別にそんなに複雑な概念ではありません。人が作ったものとが、作り主である人から離れて、コントロールできないものになってしまう。よそよそしくなってしまうことです。

さて、人がコントロールできないものというと、他にどんなものがありますか?

生徒:天気

そうだね、天気はコントロールできないですね。他には?

生徒:異性の心

おおお!いいね、その答え。確かに、異性の心もコントロールできません。この講座では次回に心理学をやりますけれども、天気については自然科学が、異性の心については心理学がこれを対象とするように、市場を対象として研究するのが「経済学」ということになります。

おしなべて学問というのは全てそうですが、人がコントロールできないもの、独自の振る舞いをするものについて、そのシステムが全体としてどのような振る舞うのかを研究するわけです。経済学は中でも「市場がどのように振る舞うか」を研究するわけで、これがビジネスのルールを理解する上ではたいへん重要だということがよくわかるでしょう?

ハーバード大学のマイケル・ポーターという先生がいますね。この人は「競争の戦略」という、競争戦略の定番テキストを書いたことで大変有名なわけですが、この「競争の戦略」という本は、基本的に経済学の、それも産業組織論の枠組みを用いて書かれています。

マイケル・ポーターという人は、もともと経済学で博士号を取っています。経営戦略の大家なので経営学の博士だと思っている人が多いと思いますが、そうではないんですね。経済学では厚生の最大化を目指します。簡単に言えば、市場に健全な競争が行われて、誰もが良いものを安く買えるような社会を「良い社会」と考え、これを阻害する要因を排除することを考えます。つまり、どのようにすれば、一社が独占的に市場を支配し、新陳代謝が起こらないような状況を避けられるかということを考えるわけです。

しかしこれをひっくり返してみて、市場に参加しているプレイヤーの側から考えてみるとどうなるか。一社が独占的に市場を支配し、新陳代謝が起こらないような状況というのは、まさしく理想的な状況なわけですね。つまりポーターという人は、経済学でずっとやってきた研究を裏返しにして、それをそのまま経営学の世界に持ち込んだということなんです。このような事実を知れば、いかに経済学を学ぶことが、ビジネスの世界における知的戦闘能力の向上に繋がるかはよくわかってもらえると思います。

経済学を学ぶことの意味合いについて、二つ目のポイントを指摘したいと思います。それは「価値」という概念の本質について洞察を得ることができることだと思っています。この点をよくよく押さえておかないと、経済学を学んでも「経済学的知識」は増えこそすれ、「経済学的センス」は身につきません。もちろん、知的戦闘能力を向上させる、という点において重要なのは後者です。

具体例を出して考えてみましょう。たとえば「モノの価値」はどのようにして決まるのか、という問題についてはいろんな考え方があります。たとえば、マルクスは「モノの価値は、そのモノを生み出すためにかかった労働の量」で決まる、と言いました。いわゆる「労働価値説」と呼ばれる考え方です。

これはこれで一つの考え方だとは思いますが、現在を生きている私たちの多くにとって、たくさんの手間がかかったからといって、必ずしも「価値の高いモノ」が生まれるわけではないことを知っています。トヨタ自動車の生産性は世界一だと言われていますが、生産性が高いということは「手間がかかっていない」ということです。では手間がかかっていないトヨタの自動車が、他社と比較して価値が低いのかというと、まあそういうことにはならないわけですね。

モノの価値について、現在の経済学では「それは需要と供給のバランスによって決まる」と考えます。同じモノであっても、供給が需要に追いつかない状況では、モノの価値は上昇し、需要以上に供給されれば、モノの価値は低下することになります。これは経済学を学んだ人であれば、誰もが知っている、一種の経済学の定理のようなものです。

しかし、ではこの定理の指摘するところを、ビジネスに活用できているかということになると、むしろ逆のことをやってしまっていることが多い。典型的には広告業界がそうです。これは僕の処女作である「グーグルに勝つ広告モデル」で指摘したことですが、現在の広告業界の苦境は、本質的には彼らの売り物である「広告枠」の供給が拡大したことで、需要と供給のバランスが崩れ、結果として広告枠の値段が下がることで発生しています。

広告枠の値段が下がったとしても、広告枠自体の数が増えればそれはそれで問題ないのではないか、と思われるかも知れませんが、ことはそう単純ではありません。というのも、広告枠を取引するためには必ず一定の業務が発生するわけですが、ここでかかる費用は変わらないからです。

ちょっと難しい言い方をすれば、広告枠については限界売上は逓減するにも関わらず、限界費用は逓減しないということです。「限界」というのは「投入一単位当り」という経済学の概念です。当たり前のことですが、広告枠の単価が下落しても、そこでかかる費用が変わらなければ一件当りの利益率は低下することになります。結果的に、売上全体としてはなんとか維持できたとしても、内部の収益構造はどんどん厳しくなっていってしまうわけです。

では、このような構造的収益低下に陥っている広告業界が何をやっているかというと、一生懸命に新しい広告媒体を作って、売上を上げようとしているわけです。例えば最近では電車内や店舗内で液晶テレビを用いた広告が行われています。専門的にはデジタルサイネージと言いますが、これは典型的に「広告枠の数を増やす」行為ですね。

どうしてこういうことをやっているのかというと、これまでのマスメディア広告、特に新聞広告と雑誌広告が売れなくなってきたからなんですね。広告業界がいま必死になってやっているのは、これまでのマスメディア広告の売上減少を埋め合わせるような新しいメディアの開発で、その一端が店舗や電車内で見られるようになったデジタルサイネージだということです。

じゃあこれで広告業界が復活したかというと、ご存知の通りそうはなっていないわけで、むしろ悪化の一途をたどっている。どうしてこういうことになるのかというと、広告枠の供給量が増えているのに、広告枠の需要が増えていないからです。広告というのは民間消費に直結しますよね。モノが売れれば広告費が捻出できるわけです。ところが、日本の国内GDPはここ二十年ほどのあいだ、年率でせいぜい1%程度の成長しかしていないので、広告の需要は増えません。広告の需要が増えない中で、広告枠だけがどんどん増えているわけで、その結果、当然のこととして広告枠の単価はどんどん下落しているわけです。

先述した「モノの価値は需要と供給のバランスによって決まる」という経済学の基本的な定理を知っていれば、これはありえない戦略です。いま広告業界がやらなければならないのは、広告枠の増加ではなく、全く逆に、戦略的に広告枠を減らしていくことで、一つ一つの広告枠の価値を高めていくことなんですけどね。

実は過去の歴史を振り返ってみて、大胆に供給量を削減することで、モノの価値を飛躍的にあげることに成功した業界があるんだけどなんだかわかるかな?

生徒:石油?

ああ、石油もそうかも知れないね。でももっと意識的に供給量を減らして成功した事例があるんだけど・・・

生徒:金?

惜しい!実は正解はダイヤモンドなんです。これはあんまり知られていないことですが、南アフリカでダイヤモンド鉱山の開発競争が熾烈化した20世紀の初頭、供給過剰に陥ったダイヤモンドの価格はどんどん下落して、「いずれは水晶と同じ値段になる」と言われた時期があったんだよね。

この時、供給過剰の状況を回避したのがアーネスト・オッペンハイマーというユダヤ人の事業家でした。彼は、ロスチャイルド銀行の資金を後ろ盾にして、ダイヤモンド鉱山の採掘した原石を全量買い上げるという、ものすごいカルテルを構想したわけです。

時代は世界大恐慌のあとですから、販売に不安のないこの仕組みを鉱山側は歓迎し、結果的に南アで採掘されるダイヤモンド原石は全てこのカルテルに提供されることになったわけです。その上で、市場に供給するダイヤモンドの量を意図的に絞ることで価格を釣りあげることに成功します。このカルテルが現在のデ・ビアス社の前身だということを知れば、いかに「経済学的センス」がビジネスの世界における知的戦闘能力の向上につながるか、よくわかると思います。



x

Saturday, May 6, 2017

「効率化」はなぜ危険なのか?

この度、『人生を守るための最後の時間術』というセンセーショナルな題名の本を出しました。


なぜ「人生を守るため」なのか、なぜ「最後」なのかについては、本書をお読みいただきたいのですが、その理由を一つだけ、本書から抜粋する形でここに紹介しておきたいと思います。

それは、なぜ時間管理において「効率化」という考え方が危険なのか?という問題についてです。以下が本書からの抜粋です。

================

忙しいのになかなか成果が出せない、と悩む人の多くが考えるのが「時間の効率化」でしょう。おそらく「最後の時間術」という本書の題名を見て手に取った人のうち、かなりの人はそのようなスキルを本書に期待されていることと思います。

しかし残念ながら、もともと「悪い時間ポートフォリオ」を抱えている人が、いくら時間の効率化を図ったところで、自分の人生を時間泥棒から守ることはできません。理由は実に単純で、効率化によって生み出された時間の余裕の多くは他者の富になるからです。

ここは非常に重要な点なので、よく意識してください。「悪い時間ポートフォリオ」とはつまり、時間の多くを他者の利益のための活動に浪費しているということです。そのようなポートフォリオを持ったまま、効率化を進めたところで自分の「豊かさ」は増えません。

搾取される立場にある奴隷が仕事の効率化をいくらやったところで自由にはなれません。効率化によって得られた富は、すべて奴隷の雇い主のものになるだけです。いささか極端な例えに思われるかも知れませんが、程度問題の比較であって基本的には同じことです。

考えてもみてください。私たちの生活は、多くの領域において、百年前と比較にならないくらい「効率化」されています。かつて8時間かかった東京=大阪間の移動は3時間足らずになり、一週間かかっていた外国の都市との文書のやり取りは、Eメールの普及によって「一瞬」で済むようになりました。

しかし、これだけ「効率化」されたのに、私たちの生活の時間的豊かさは増したでしょうか?ほとんどの人にはそのような実感はないはずです。いやむしろ、効率化が進めば進むほどに、ますます時間がないという実感が増しているのではないでしょうか?なぜこういうことが起こるとかというと、効率化によって達成された生産性の高さは、ごく一部の人、つまり「労働成果を搾取する側」にある人にかすめ取られているからです。


-->
労働成果の大部分を搾取される立場にある人であれば、効率化を考える以前に、そもそも「搾取される立場」からどう脱却するか、搾取する側からいかに搾取し返すか、を考えるために知恵と時間を使うべきであって、目の前の仕事をどう効率化するか、などという問題に取り組んでも自分の豊かさを増やすことはできないのです。

時間ポートフォリオを意識しないままに、いたずらに効率化を図ろうとするのは、搾取の構図を拡大するだけで、むしろ危険なことだと言えます。

================

いかがでしたでしょうか?
興味を持っていただけたのであれば、ぜひ本書を読んでみてください。

Wednesday, April 26, 2017

あなたには「スピークアップする義務」がある


昨日のTEDのオープニングで、TEDのマスターキュレーターであるクリス・アンダーソンが、こんなことを言っていました。

===============
政治については、私自身もうんざりさせられるのですが、しかし、向き合わないわけにはいきません。
今回のTEDでも、あちこちで、政治のことには触れます。
しかし考えてみれば、長い目で見ると、世界を本当に変えるのは、科学者や技術者、そしてアイデアではないでしょうか。
政治家たちはやってきて、そして去っていきます。アイデアの命は長く、人類に影響を与え続けます。
===============

もちろんこのスピーチは、TEDのコンセプトである「Ideas Worth Spreading」を受けてのものです。

政治家たちはいなくなる、でもアイデアは残り、人類に影響を与える。
だからこそアイデアを共有する「場」が大事だということです。

アイデアは、いわばリレーのバトンのように世代から世代へ、文化から文化へと引き継がれていきます。そして、やがて他の人から引き継がれた別のアイデアと結びつき、さらに新しいアイデアを生み出し、それが人類に影響を与えていくことになるでしょう。

そして、いま私たちが、私たちの祖先から受け継いでいる「アイデアのバトン」をあらためて見つめてみれば、その多くが、かつては強く非難・批判されたものであることにも気づきます。

そのように考えてみると、どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、私たちには、自分のアイデアを「声に出す」ことが義務付けられているように思います。どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、その時点で支配的な考えとは摩擦を起こすものであっても、あなたは「自分のアイデアを声にだす義務」がある、ということです。

この義務を多くの人が自覚し、いろんなところでアイデアの摩擦が起これば、日本は今よりもずっと良い国になると思うんですよね。


Tuesday, April 4, 2017

「逃げる勇気、負ける技術」がなぜイノベーションにつながるのか?

世の中は相変わらず「努力は、報われる」「頑張れば、いつかできる」といった主張にあふれているらしく、身の丈に合わない仕事や理不尽なクソ上司の元で頑張り続け、身体や精神を病んでしまう人が多いようで、本当に痛ましい。

僕はいろんなところで、これからは「逃げる勇気」「負ける技術」が大事で、これは「人生を守る」というパッシブな点だけでなく、「イノベーションの推進」というアクティブな効用にも繋がる、と主張しています。

前者の「人生を守る」というのはわかるけれども、後者の「イノベーションの推進」というのは、ちょっとイメージがつきにくいかも知れませんが、ちょうどいい事例を思いついたので備忘録がわりに共有しておきます。

先日、京都大学の山口栄一先生の「イノベーションはなぜ途絶えたか」という本を読んでいたら、ノーベル賞を受賞された山中伸弥先生の話が出ていて、これはまさに「挫折によるイノベーション」の典型だな、と。

==================
山中は、スポーツ整形外科医を夢見て87年から整形外科研修医として勤務するものの、2年で挫折して基礎医学を学ぶため薬理学研究科に入学する。しかし、伝統的な薬学にも強いフラストレーションを抱いて、ここでも挫折する。  

とはいえ山中は、薬理学の研究の最中にノックアウト・マウス(遺伝子の機能を推定するために、特定の遺伝子を不活性化させたマウス)に出会って衝撃を覚え、ここに新しいブレークスルーへの道があることを直感する。  

そこで、博士号取得後93年に米国のグラッドストーン研究所に留学して、ゼロから分子生物学を勉強する。ほどなく自ら見つけたNATIというガン遺伝子をつぶしたES細胞を培養したところ、多様な種類の細胞に分化する能力が失われることを発見。道具にすぎなかったES細胞そのものに初めて興味を持った。  

96年に帰国後は、大阪市立大学医学部助手になってES細胞の研究をゼロから始める。当時、ES細胞研究の主流は前述のように分化の研究で「ES細胞からどんな細胞をつくったか」を世界中の研究者が競い合っていた。  ところが山中は「受精卵から培養した生きた胚からではなく、遺伝子データベースからES細胞と同じような細胞を作る」という、まだ誰もやっていない研究に着手する。

できるかどうかわからない。けれど、もしできれば、受精卵を使うという倫理問題と免疫拒絶問題の両方をクリアできる。できなければ、科学者をあっさりあきらめて町医者をやる。99年に奈良先端科学技術大学院大学に助教授として就任したときの覚悟だった。  

こうして高橋和利(1977~ )のアイデアを得ながら、2006年に遺伝子データベースの中から4つの遺伝子を選び、ウィルスを使って取り出した細胞に入れ込むと、どのような組織にも分化可能な細胞、すなわちiPS細胞になることを発見した。京都大学に教授として移ってほどなくのことだった。  

2012年にイギリスの生物学者ジョン・ガードン(1933~ )とともにノーベル生理学・医学賞を受賞した山中のこの業績は、イノベーション・ダイヤグラム上では大変重要なジャンプを呈していることがわかる。発生学が持つパラダイムを破壊したこの達成は、生命情報科学という異なる学問領域から土壌の中に下り立ち、しかも旧来の発生学とはまったく異なる新しい学問領域を築いた。  

山中は挫折を繰り返しながら、孤独の中で「臨床整形外科薬理学分子生物学ガンの研究ES細胞の研究」と、さまざまな分野を遍歴した。iPS細胞の発見は、「回遊」をした果ての「創発」である。

とはいえそれでも、一つの研究分野に腰を落ち着けずに次々に専門領域を変える自分の将来に底知れぬ不安を覚え、たまたま聴講した利根川進(1939~ )の講演会で、その不安を告げた。すると、利根川はこう答えたという。 「研究の継続性が大事だなんて、誰がそんなんいうたんや。面白かったら自由にやったらええやんか」。  

この言葉に、「回遊」による「知の越境」の本質が宿っていると私は思う。
==================

山中先生が最初に目指したキャリアはスポーツ整形外科医でした。ですが、これは自分に向いていないと考えて、二年後にはキャリアを転向しています。

二年って、結構短いですよね・・・

手術がド下手だったとか、色々と言われていますが、「二年で見切る」というのも、一つの勇気だと思うのです。これが、僕がいつも言う「逃げる勇気」です。

そして、その後、薬理学の世界に身を転じた山中先生はしかし、ここでも挫折してしまう。しかし、この時、のちの研究につながる仮説を得てもいる。

挫折して逃げる。ただし、逃げる時にタダでは逃げない。そこから盗めるものはできるだけ盗んで、次のフィールドで活かす。これが、僕がいつもいう「負ける技術」です。

山中先生のキャリアは、そういう意味で、僕がいつもいう「逃げる勇気、負ける技術」の実践とも言えるものなんですよね。これを実践したことで、イノベーターの条件である「越境」を実現することができたわけです。

もしこの時、世の中によくいる「努力は報われる」「石の上にも三年」などという価値観の人から諭され、思いとどまっていたら、もしかしたら山中先生のノーベル賞受賞はなかったかも知れないわけです。

新しい仕事を始める際に、「せめて三年くらいは頑張らないと」とよく言われますが、この山中先生の事例は、そういう御託に対する強烈なアンチテーゼだと思うのですよね。

世の中で、どうもしっくりこない、なにか違う気がする、という思いが拭えない人は、一度じっくり、もしかしたらそれは頑張っているのではなくって、ただ単に「逃げる勇気、負ける技術」がないからなのではないか、と考えてみてはいかがでしょうか?

Friday, March 31, 2017

世界のエリートはなぜ「哲学」を学ぶのか?

エリートの見識を養成するための教育施策として最も普遍的に行われているのが哲学教育です。17世紀以来、エリート養成を担ってきた欧州名門校の多くでは、長いこと哲学が必修となっていました。

例えば、英国の政治エリートを数多く輩出してきたオックスフォードでは、これまで長らく、文系・理系を問わずに歴史と哲学が必修科目とされてきました。現在でも、エリート政治家を多く輩出している同校の看板学部は「PPE=哲学・政治・経済学科」です。

日本の大学システムに慣れ親しんだ人からすると、なぜに「哲学と政治と経済」が同じ学部で学ばれるのか、と奇異に思われるかも知れませんが、彼らの考え方はシンプルで、政治と経済を担うエリートこそ哲学を教養の基礎として身につけなければならない、といことです。エリートには大きな権力が与えられますが、哲学を学ぶ機会を与えずにエリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なんですね。

同様の思想はフランスにも見られます。フランスの教育制度の特徴としてしばしば言及されるのが、リセ(高等学校)最終学年における哲学教育と、バカロレア(大学入学資格試験)における哲学試験です。文系、理系を問わず、すべての高校生が哲学を必修として学び、哲学試験はバカロレアの第一日目の最初の科目として実施されます。そのような試験において、文系・理系を問わず、最重要の科目として「哲学する力」が必修の教養として位置付けられているわけです。

これらの大学教育に加えて、たとえば経営幹部の教育研究機関として著名な米国のアスペン研究所では、哲学に関する講座が主要プログラムの一つとなっており、全世界から集まるグローバル企業の幹部が、風光明媚なアスペンの山麓で、プラトン、アリストテレス、マキュアベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスといった哲学・社会学の古典をみっちりと学んでいます。

いま「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか」という題名の本を書いているのですが、執筆のためのリサーチとして、複数の日本企業・海外企業の経営人材育成担当者にインタビューをさせてもらい、最も「思想として違うな」と感じたのは、この「哲学教育」の部分だったんですね。

誤解を恐れずに言えば、海外のエリート養成では、まず「哲学」が土台にあり、その上で功利的なテクニックを身につけさせるという側面が強いのに対して、日本では、土台となる部分の「哲学教育」がすっぽりと抜け落ちていて、ひたすらにMBAで習うような功利的テクニックを学ばせている、という印象を持ちました。

明治時代に活躍した哲学者の中江兆民は「我日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と、日本という国に「哲学」がスッポリ抜け落ちていて、それが様々な問題の根幹にあるという指摘をしていますが、百年以上たっても状況はあまり変わっていないということでしょうか。

確かに、多くの日本人にとって、ビジネスエリートが哲学を学ぶことの意味合いについて、直感的に理解することは難しいかもしれません。

ここではまず、現代を生きるビジネスパーソンにとって、古今東西の哲学者の論考から、どのような学びが得られるのかという論点について整理してみましょう。ここんところがわかっていないと、そもそも「何で哲学を?」というところが腹落ちしません。

現代を生きるビジネスパーソンにとって、「哲学から得られる学び」には、大きく3種類あります。それらは
  1. コンテンツからの学び
  2. プロセスからの学び
  3. モードからの学び
ということになります。
コンテンツというのは、その哲学者が主張した内容そのものを意味します。次にプロセスというのは、そのコンテンツを生み出すに至った気づきと思考の過程ということです。そして最後のモードとは、その哲学者自身の世界や社会への向き合い方や姿勢ということです。

これら三つの学びを整理しないままに哲学書に接しても、おそらく現代を生きる私たちにとってあまり有用な示唆や気づきは得られないと思います。というのも、例えば古代ギリシアの哲学者の論考内容などは、すでに自然科学の検証によって「誤り」であることが判明しているからです。

これはつまり、先ほどの枠組みで言えば、「1:コンテンツからの学び」に関わるところで、要するにコンテンツとしては全然ダメだということです。しかし、ではその哲学者の考察から何も学べないのかというと、それはそうならないわけです。その哲学者がなぜそのように考えたのか、どのような知的態度で持って世界や社会と向き合っていたのか、という点については、いくら実際の論考内容=コンテンツが誤りであったとしても、私たちにとって学びとる点はたくさんあるわけです。

具体的なイメージがわきにくいと思うので実例を挙げて説明しましょう。

ソクラテス登場以前の古代ギリシア、時代としては紀元前6世紀ごろのことですが、アナクシマンドロスという哲学者がいました。彼はある日、ふとしたきっかけで、当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説に疑問を持つようになります。なぜ疑問を持ったのか、その理由は実にシンプルで「もし大地が水によって支えられているのであれば、その水は何かによって支えられている必要がある」というものでした。なるほど、確かにその通りです。

そしてアナクシマンドロスはさらに考えを推し進めます。つまり「もし仮に、水を支えている“何か”があったとしても、その“何か”もまた別の何かに支えられている必要がある。こうやって考えていくと無限に後退していかざるを得ないが、無限にあるものなど有り得ないわけで、そうすると最終的に地球は何物にも支えられていない、つまり宙に浮いているということになる・・・」という、当時の人を仰天させるような仮説を打ち出したわけです。

アナクシマンドロスが最終的にうち出した仮説、つまり「大地は何物にも支えられていない」という結論は、地球が宇宙空間に浮かんでいることを知っている現在の私たちにとって、当たり前のことでしかありません。

しかし一方で、アナクシマンドロスが示した知的態度と思考プロセス、つまり当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説を鵜呑みにして思考停止することなく、「大地が水によって支えられているのだとすれば、その水は何によって支えられているのだろう」という論点を立て、粘り強く思考を掘っていくような知的態度と思考プロセスは、現在の私たちにとって大いに参考になります。

つまり、先ほどの枠組みで整理すれば、アナクシマンドロスの哲学というのは、「1:コンテンツからの学び」という点では全くダメだということですが、「2:プロセスからの学び」や「3:モードからの学び」については、大いに私たちにとっても示唆や刺激があるということです。

そして、ここが非常に重要な点なのですが、現代社会を生きるエリートが、哲学を学ぶことの意味合いのほとんどが、実は過去の哲学者たちの「1:コンテンツ」ではなく、むしろ「2:プロセス」や「3:モード」にあるということです。ビジネスパーソンが哲学を学ぼうというとき、多くの人が落ちてしまう陥穽がここにあります。

著名な哲学者の著作だから、ということで手にとっては見たものの、先述した通り、過去の著作の多くの「1:コンテンツ」は、すでに誤りであることが判明していますから、「こんなこと今さら学んでも意味がない」と短兵急に断じてしまうわけです。

慶應義塾の塾長として昭和天皇の家庭教師も務めた小泉信三は、エリートが得てして「すぐに役に立つ知識」ばかりを追い求める傾向があることを指摘し、「すぐに役立つ知識はすぐに役立たなくなる」といって基礎教養の重要性を訴え続けましたが、哲学の学習についても同じことが言えます。

多忙なエリートにとって、著名な哲学者の著作を一ページずつ紐解いていくことは確かに費用対効果の低い営みに映るかもしれません。しかし、だからと言って「要するに何を言っているのか」という梗概のみを整理した本を拾い読みしても、せいぜい身につけられるのは虚仮威しの教養でしかありません。

なぜなら、真に重要なのは、その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考たかというプロセスや態度だからです。その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、批判的に疑いの目をさし向ける。

たとえばデカルトに、有名な「方法序説」という本がありますね。これ、読んだ人は感じたと思うのですが、言っていることはムチャクチャなんです。有名な「我思う、故に我あり」というセンテンスからスタートする「神の存在証明」なんて、論理をコネクリ回しているだけで詭弁にしか聞こえない。

つまり「1:コンテンツ」ということでは全然ダメなんですが、当時の社会状況なども鑑みつつ「2:プロセス」あるいは「3:モード」という点に目を転じてみると、実に深い滋味があるわけです。小林秀雄は「方法序説」について、どこかで「デカルトの自伝である」といったことを書いていましたが、実に鋭い指摘で、この本はデカルトが「自分はどう生きたか」という告白文学であり、その結果としての「敗北宣言」なんですね。

誤解を恐れずに言えば、これはつまり「ロッケンロール」だということです。

「哲学」と「ロック」というと、なにか真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、「知的反逆」という点において、両者は地下で同じマグマを共有している。私は、近代思想が急速に影響力を失ってきた時代と、ロックに代表されるポップミュージックが急速に力をつけてきた時代がほぼ同じだったということに、何らかの必然を感じているのですが、この話はまた別の機会にしておきましょう。

話を元に戻します。過去の哲学の歴史を一言で表現すれば、それは「疑いの歴史」ということになります。それまで定説とされてきたアイデアやシステムに対して、「果たして本当にそうだろうか?」と考えてみる。全ての哲学は、このような「疑い」を起点としてスタートしています。

そして、このような「疑いの態度」は、そのまま「システムを無批判に受け入れる」という、ハンナ・アーレントによる「悪の定義」と対比されることになります。このブログでずいぶん前に紹介しましたが、繰り返せば、アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴した末、悪とは「システムを無批判に受け入れることだ」と指摘しました。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2013/08/blog-post.html

一方で、過去の哲学の歴史は全て「システムへの疑い」を起点にしている。これはつまり、哲学を学ぶことで、「無批判にシステムを受け入れる」という「悪」に、人生を絡めとられることを防げるということです。これが、世界のエリートが哲学を学ぶ、本質的な理由です。

世界というシステムが発展途上の段階にある以上、世界システムを構成するあらゆるサブシステムもまた発展途上の段階にあります。したがって私たちには、そのシステムに疑いの目を差し向け、より良い世界や社会の実現のために、何を変えるべきかを考えることが求められているわけですが、ここにエリートのジレンマがあります。というのも、エリートというのは、自分が所属しているシステムにおいて最適化しているわけですから、システムを改変することのインセンティブがないわけです。

自らが大きな恩恵を被っているシステムに、疑いの目を差し向け、批判的に改変の機会を考察するというのが、エリートに課せられた大変難しいチャレンジなんです。このチャレンジを後押しするのが、まさにエリートが学んでいる「哲学」だということになるのかな、と。
-->